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カラフトの終戦

八十歳以上の人は毎年八月になると、特別な気持ちになることであろう。
昭和二十年八月十五日は、日本がアメリカ・イギリス等の連合国に、ポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏した日である。しかし、満州とカラフトではソ連軍と日本軍の激戦がその後も続いた。というのは、ポツダム宣言はアメリカ・イギリス・中国の三カ国の宣言であって、ソ連は参加していないので、ポツダム宣言を受け入れ、日本が降伏したといっても、それはあくまでアメリカ・イギリス等の連合国に対してであって、ソ連は関係ないという理屈は成り立つ。しかし、日本降伏の情報は全世界で報道されたので、連合国側のカナダ・オーストラリア等は戦闘行為は中止している。それが常識というものであろう。

カラフトは、幕末まで日本・ロシア・ギリヤート・オロチョン等の民族が雑居していて、一部には日本人の街もあった。明治七年、ロシアのペテルブルグで日本とロシアの交渉の結果、カラフトはロシア領、千島列島は日本領となった。
明治三十七年から三十八年にかけて日露戦争があり、その結果カラフトの南半分が日本領となった。一説によれば、アメリカのポーツマスでの交渉が終わる直前に、イギリスのスパイがロシアはカラフトの半分を日本にやって決着をつけようとしている、と情報を日本に流し、日本は土壇場で南カラフトを手に入れたという嘘か誠か知らないが、そんな話をどこかで聞いた記憶がある。とにかく、南カラフトは日本の領土となった。先発隊として軍隊、警察公務員が行き、次に林業、漁業、鉱山等の関係者がカラフトに渡った。そうなれば街ができ、商店ができ、飲食街ができていった。という具合で多くの人々が集まるのは自然の成り行きである。道路網や鉄道網も次々に完成していった。何しろ公務員等の給料は本州の二割増し、物価は東京と同じとあっては、カラフトに移住希望者は多かったであろう。米の取れないカラフトには常に一年分の食糧が備蓄されていたというから、住民は安心して暮らしていけたことだろう。戦争中は空襲がなく、食糧事情も良かったから、カラフトに本州から移住する人も多かったそうである。
状況が一変したのは、昭和二十年八月九日である。ソ連が一方的に日ソ中立条約を破って、満州、カラフトの国境から侵入してきたのである。とはいうものの、日本とてそれを大きな声では言えないであろう。というのは、日ソ中立条約なんか関係ないと言ったのは日本である。昭和十五年、日独伊の三国同盟が成立し、ベルリンからの帰途、モスクワに寄った松岡外相はソ連と中立条約を結び、日本へ意気揚々と帰ってきた。ところがその直後、ドイツとソ連は戦争を始めてしまった。日本陸軍は好機到来とばかりに満州に約七十万の大軍を集結させ、いつでもソ連を攻撃する構えをみせた。松岡外相は日ソ中立条約なんか関係ないと公言してはばからなかった。
驚いたのは海軍である。ソ連軍と戦争になったら、日本は泥沼に入り込み大変なことになると、海軍は資源確保のため、南方に出るべきであるとし、陸軍と海軍は譲らず、結局両論併記、非決定という無為無策を決め、成り行き任せとなったのだった。

さて、カラフトに戻ろう。私は昨年の七月、カラフトに行ってきた。ユジノサハリンスク(旧豊原)には、彼らの言う勝利の広場というのがあって、そこには当時使用された巨大な戦車が展示されてあった。こんな大型戦車では、日本の貧弱な武器ではとてもソ連軍には対抗できなかっただろうと思った。何しろソ連軍が侵入してきた時、カラフトには日本軍の飛行機は一機もなく、戦車もなかったのである。おまけに日本軍の対戦車砲では、ソ連の戦車にかすり傷しか与えられなかった。第八十八師団のカラフト各地の戦場の兵士への命令は、南へ避難する住民のために、一時間でも二時間でもソ連軍の侵攻を遅らせるというものだった。圧倒的に優勢なソ連軍は飛行機、戦車、大砲で日本軍に攻撃しかけ、間宮海峡側では艦砲射撃をしかけてきた。対する日本軍は劣悪な武器で勇敢に戦い、ソ連軍の侵攻を各地で阻止したのだった。各地での悲惨な戦闘の詳細は、最後に一冊の本を紹介するのでそれを読んで下さい。
士官学校、陸軍大学を優秀な成績で卒業し、陸軍の幹部となって馬鹿戦争を始めた連中より、住民の避難の時間稼ぎのために戦いをして死んでいった多くの無名兵士の方が、はるかに立派な軍人だったと私は思わざるを得ない。八月九日のソ連軍の侵入と同時に国境近くの住民は避難を開始したのだが、八月十三日にカラフトの住民全てに北海道への避難命令が出た。ただし、十五歳以上の男は現地に残れというものだった。軍・官・民一体となって、避難計画が立案され、即実行された。鉄道沿線にすんでいる住民は鉄道で南へ避難することができたが、間宮海峡側に住んでいた住民は食糧、衣類等を持って、数日かけて野を越え、山を越えて鉄道沿線までたどり着かなければならなかった。避難は町内単位で、警察・消防の誘導で開始されたが、途中で幼い子供連れや病人を抱えての避難は無理とみて、家に帰って一家心中した家族もあったという。道中、弱い者は次々に脱落していったが、誰も彼らを助ける人はなく、悲惨な状況は極限に達していた。それらの状況を書いた本は読むに耐えない。私は一ページ、ニページと読んでは本を閉じてたばこを吸い、また読み続けるといった具合であった。八月十三日以降は、昼夜を問わず避難民を満載した列車が豊原、大泊へと向かった。当時カラフトには約三十八万人住んでいた。それらの人々を短期間で北海道へ移動させることは誰が考えても不可能な話である。しかし、軍・官・民一体となって、二百数十隻の船を使って約七万八千人を八月二十二日までに運んだというから、すごい話であり、それは奇跡である。しかし、多くの避難民を北海道に送り出している間も戦闘は続いていた。それに拍車をかけたのが、八月十五日の天皇の玉音放送である。天皇はポツダム宣言を受諾して戦争をやめるから武器を捨て、戦闘をやめろ、つまり終戦であると全国民、全世界に向かって放送した。ポツダム宣言は、アメリカ・イギリス・中国の三カ国が日本に向かって無条件降伏をするよう出した宣言である。日本政府はスウェーデン・スイス政府を通じて、アメリカ・イギリス・中国に宣言を受諾すると通告し、第二次世界大戦は終わった。が、ソ連は宣言に参加していないし、日本政府から降伏の申し入れも無かったとして、戦争を継続したのだった。カラフトの八十八師団司令部は前線の兵士に戦闘停止の指令を出したものの、無線をキャッチできた現地軍は僅かで戦闘は続いていた。その間、終戦を知った一部の日本軍は、停戦協定は結ぼうとして白旗を掲げて数人の軍使をソ連軍側に出したところ、全員射殺されたり、戦争が終わってやれやれと思っているところへソ連軍の奇襲を受け、全滅した部隊があったり、日本軍は大混乱となってしまった。軍同士の連絡は取れず、武器弾薬の補給の無い日本軍は後退するばかりだった。が、そんな状況下でも避難民を客車貨車に満載した列車は豊原、大泊を目指して休むことなく動いていた。
八月二十日、天皇の玉音放送から五日経っていた。真岡(人口一万八千)の市民は、戦争が終わってホッとしていたことであろう。その日の早朝、ソ連艦隊が真岡の沖に姿を現した。それを見て真岡の人々は、珍しいものが来たと岸壁へ行って見物していたという。また、八月十九日に出発予定の避難民を乗せた船は、二十日早朝に出港の準備に忙しかった。日本軍は戦争は終わったのだから、平和的にソ連軍を迎え入れようとして、警察署長が白旗を持って岸壁でソ連軍を待っていた。つまり、日本は抵抗の意思の無いことをソ連軍にはっきりわかるようにしたのである。日本軍は無用の摩擦を避けるため、市街から山奥に撤退した。ところがソ連軍はいきなり岸壁にいる人々や、出港しようとしている避難民を乗せていた船に銃撃をしてきたのだからたまらない。その上、市街に艦砲射撃をしてきたので市街は大混乱となり、死傷者が続出した。ソ連軍としては、カラフトを制圧するためには唯一の不凍港であり、物産の集散地である真岡を早めに占領したかったのであろう。銃撃と艦砲射撃で真岡市街をめちゃめちゃにした後、ソ連軍は上陸を開始した。日本軍は市街戦は不可能とみて、真岡から豊原へ通じる一本道でソ連軍を待ち、大打撃を与えた。が、その間に市街では多くの悲劇が起きていた。真岡の人々はソ連の攻撃開始とともに山へ逃げて行ったが、郵便局の電話交換手は通信手段の確保のため、最後まで職場に踏みとどまった。やがてソ連兵が眼前に現れ、恐怖と絶望感で彼女等は自殺を決意したのだった。なにしろ、二十歳前後の乙女である。正常な判断を期待する方が無理である。隣町の郵便局長が電話で必死の説得をしたのだが、彼女等九人は集団自殺してしまった。真岡から豊原間の電話回線は最後まで通じていたそうである。
八月二十二日正午頃、日ソの停戦が成立した。停戦交渉はその日の午前八時頃から豊原で開始された。豊原はカラフト随一の都市で、昭和十年には三万八千人の住む大都市であり、カラフト庁等の官公庁や会社、銀行等の支店のあるカラフトの中心都市だった。豊原駅前広場には、各地から避難してきた避難民が満杯であった。というのは、北海道への出港地である大泊は、避難民で学校、劇場等は超満員となり、これ以上の収容は不可能と判断した大泊駅長は、列車を豊原で止めるよう要請し、行き場を失った避難民は豊原駅前広場でウロウロする以外になかったのである。その日は前述のように、豊原で日ソの停戦交渉が行われていた。そのことを知ってか知らずか、ソ連軍の飛行機が数機やってきて、豊原駅前広場の避難民、住宅街、商店街に爆弾を落としたのだからたまらない。駅前広場はこの世の地獄と化した。当時、広場には老人、婦人、子供等、約八百人がいたという。パイロットは上空から見て、彼等が非戦闘員の民間人であることは一目でわかったはずである。しかも、停戦の交渉中である。戦争とはそういうものであると言ってしまえばそれまでだが、なんとも残酷な話である。
その前日、つまりは八月二十一日、大泊には三万とも四万とも言われる避難民で大混雑していた。彼等は北海道に渡る船の順番待ちをしていたのである。二十一日、時間差はあるが三隻の大型船が小樽へ出港した。小笠丸(千四百三十トン)は約千五百人の避難民を乗せて、第一陣として大泊港を出港したが、翌日の八月二十二日に無事稚内に着き、全員下船するよう係員が説得したにも関わらず、船が小樽へ行くことを知っていた約六百人は船に残ったという。彼等を乗せたまま、船は小樽へ向かった。小笠丸には、昭和の大横綱大鵬(当時5歳)一家と私の中学時代の同級生N子さん一家が乗っていたが、稚内で下船して両家の人々は無事だった。
二番目に出港した第二新興丸(二千七百トン)が、約三千六百人の避難民を乗せて、直接小樽に向かった。三番目は泰東丸(八百トン)である。この船は留萌港にいたのだが、本州の食糧事情の悪化のため、「一年分の米は常に備蓄されている」といわれるカラフトの米を北海道や本州に運ぶため、大泊に向かったのだった。ところが大泊に着いてみると、港は溢れんばかりの避難民の群でいっぱいなので、米を千トン積み、残りの空間に避難民を乗せて小樽に向け、出港したのだった。
その後の三隻の運命。

小笠丸。八月二十二日午前四時ニ十分。留萌沖でソ連の潜水艦の魚雷攻撃により沈没。救助されたのは六十二人。
第二新興丸は、八月二十二日午前四時三分。ソ連の潜水艦の魚雷攻撃により大破。五時間後に留萌港に接岸し、約三千二百人が救出された。
泰東丸は、八月二十二日午前九時五十五分にソ連の潜水艦に攻撃され、沈没した。救助者百十三名。

八月二十二日と言えば、日本から見れば、天皇の玉音放送があって一週間も経っているので、戦争は終わって解放感を感じていた頃である。しかし、カラフトでは戦争が続いていて、二十二日の朝から豊原でソ連軍と八十八師団の停戦交渉が行われ、正午には正式に決定されたのである。三隻はその数時間前に沈没したのだった。三隻の甲板には老人・女・子供が溢れんばかりに乗っていた。私は昔、横須賀のアメリカ軍の第七艦隊を見に行ったことがある。その時、潜水艦の中に入って潜望鏡を覗いてみたが、遠くまではっきり見えるのに驚いたことがあった。当時のソ連のオンボロ潜水艦からでも、三隻が多くの民間人を乗せていたことははっきり分かったはずである。第二新興丸は、本を正せば民間の貨物船だったが、海軍に徴用され砲を備えていた。魚雷が船に命中した時、この野郎とばかりに第二新興丸の水兵はソ連の潜水艦に反撃し、相当の痛手を負わせたようである。ソ連の潜水艦は沈没したとも逃走したとも言われる。これが帝国海軍最後の海戦だった。三隻で合計約千七百名の犠牲者を出した三隻遭難事件はこうして終わった。
八月二十二日の停戦協定以後、カラフトはソ連の占領下に置かれ、日本人はカラフトから脱出することは禁じられ、豊原・大泊等に集っていた数万の避難民は、元いた所へ帰るよう命令され、徒歩でそれぞれの居住地に帰って行った。が、二十三日夜、陰に紛れて二隻の大型客船が約一万人の避難民を乗せて大泊港を出港し、翌日無事に稚内港に到着した。二十三日にはまだソ連軍は大泊まで来ていなかったのである。二隻の船が稚内に着いて、かつて豪華客船も航行した大泊・稚内間の航路は閉じられてしまった。その後は占領下のカラフトから小型船に乗って密出国した人々がかなりいたらしい。八月二十二日・二十三日と大泊の港で出て行く船を見送った人たちは、絶望的な気持ちだったであろう。なにしろ、ソ連の占領下に置かれたのである。その数、約三十万人である。しかし、ソ連の軍規は非常に厳しく、悪さをするソ連軍人がいると、憲兵が来てそのソ連兵をその場で射殺してしまったそうである。同じような話を、私は満州から帰ってきた人に目撃談として聞いたことがある。その時は若い女の憲兵が来て、三人のソ連兵を射殺して何事もなかったような顔をして帰って行ったという。そんなことで、占領下のカラフトの住民は何とか生き延びることができたのだった。
昭和二十三年から二十九年にかけて、約三十万の住民は日本に帰ってきた。その頃、日本はアメリカ軍の占領下で、外国との交渉はどこともできなかったので、占領軍とソ連との交渉の結果であった。とは言っても、病人やロシア人、朝鮮人と結婚した日本人は残留した。昨年、カラフトに行った時の若い女の通訳の話では、アイヌ人は日本人だということで日本に移住させられたという。一部には、強制連行した朝鮮人を日本は見捨てたという意見もあるが、それは違う。前述のように、交渉はアメリカ占領軍とソ連政府の間で行われたのである。もちろん、日本政府はアメリカに対して、様々な要望をしていたのは事実であろう。昭和二十五年から二十六年は、朝鮮戦争があり、朝鮮の人々は帰りたくても帰れなかったということもあった。NHKの先日の放送で、現在カラフトに居住している純粋な日本人は約五十人だという。日本人が抜けた後には、ウクライナ人が強制移住でカラフトに住んだそうである。私がカラフトに行った時、親切にしてくれた人たちはウクライナ人の子孫だったのだろう。
昭和二十六年のサンフランシスコ条約で、南カラフトと千島列島はソ連の領土となった。ユジノサハリンスク(豊原)には勝利の広場というのがあって、そこは広々とした公園で花々が咲き、家族連れで賑わうとても感じのいい公園だった。そこには戦死したソ連兵の氏名が刻まれた碑が立っていて、その数約二千だった。広場には永遠の平和を願って、という消えることなく永遠に燃え続ける火が灯っていた。

人間一人の生命は地球より重い、とはイギリスのある法律家の言葉であるという。であるならば、多くの人間が死んだから大事、死者が少数だから小事件というものではない。満州の悲劇、広島・長崎の原爆、東京大空襲の悪夢のような事件等々は、多くの人に知られている。しかし、カラフトの戦争のことについてはあまり知られていない。それは、被害者が少数という理由からであろう。戦争の惨劇は大中小を問わず同じである。もう少しカラフトについて、戦前のことから我々は知る必要があるような気がする。戦争は台風のように自然発生するものではない。戦争を決断する一握りの馬鹿どもが、かつての日本には存在したのである。彼等は陸軍大学、海軍大学を優秀な成績で卒業したのであるが、彼等を馬鹿にした軍人教育の欠陥の成果であった。また長いものには巻かれろといった国民性にも、反省の余地は十分にあるだろう。しかし反省どころか、安倍低能にして軽薄な内閣は、秋田・山口に約三千億円のアメリカ製ミサイルを買って、基地を作ろうとしている。使用可能になるのは十年後という。一体誰が十年後の状勢を適確に予想できるのか、何の役にも立たなかった戦艦大和と同じ結果になるではないか。令和の大和を作ろうとしているのである。こんなことのために、我々は約三百十万の死者を出したのだろうか。日本戦没学生の手記「聞け、わだつみの声」の一節を思い出す。
                     
~ 死んだ人は何も言えない以上、我々は何を言うべきか ~

                      ※「わだつみ」とは海の神のことである

カラフトの戦争について、詳しく知りたい人は次の本を読んで下さい。

「証言、南樺太 最後の十七日間」 
藤村建雄著 潮書房光人新社発行 定価\870(税別)
     


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