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北海道二人旅

何故、宗谷岬か

私は約半世紀前、新調した学生服を着て、生まれて初めての革靴を履き、残雪に覆われた山々を見ながら、自称岩手の大型新人として盛岡から東京へ出てきたのだった。明治大学に入学するためであった。大学受験の時、先生に「お茶の水駅を降りたら右(東大)に行くんだぞ」と言われたのだが、私は左(明大)へ行ってしまったのだった。これは冗談である。
最初の登校日に指定の教室に入ったら、見知らぬ男ばかりだった(当たり前である)。そのうち、先生が入ってきて簡単な説明があった後、自己紹介となった。知識として、日本には四十七都道府県があることは知っていたが、いざ眼の前で出身地が熊本・広島・岐阜・名古屋等と言われると、私はたまげてしまった。と同時に、まるで外国の大学に入ったようで、とんでもない所に来てしまったと後悔した。しかし、東京に来てしまったのである。今さら盛岡に帰るわけにもいかない。入学後しばらくは、鬱々とした日々を送っていた。
そんなある日、神宮球場に東京六大学野球を見に行き、母校の校歌、応援歌を歌っているうちに、私は東京に来たのだ、大学生になったのだと実感するようになった。と同時にいつの日か四十七都道府県を見てやろうと決心した。
大学を出て五十余年が経ち、鹿児島の最南端から全国を見て回り、北海道も何回か行った。最後に残ったのは、北海道の北、つまり日本の最北端の宗谷岬である。学生時代からの友人で、北海道大好き人間のH君が九月に北海道に行くというので、彼の車に便乗することにした。
九月十三日に羽田を出発した。十二時三十分、稚内空港に到着したら、空港内は礼文・利尻に行くツアー客でごった返し、友人がどこにいるかさっぱり分からなかったが、彼の方が先に私を見つけて再会を喜び合い、何はともあれ、昼食のために空港内にあるレストランでホタテラーメンを食べた。これが絶品で、今まで食べたラーメンでは最高の味であった。
空港を出て、いよいよ宗谷岬へ向かう。この辺一帯は宗谷丘陵と言うのだそうだが、数千年前か数万年前にできたのか、私には想像もできないが、起伏に富んだ大丘陵地帯は、初めて見る雄大な風景で、私は圧倒される思いだった。ところがである。人影もなく、自動車も通らない道端に小鹿のバンビの死体があった。自動車にはねられたのであろう。滅多に人も自動車も通らない道で事故に遭うなんて、なんと運の悪いバンビなのだろう。確率的にはほぼゼロの道路で、憐れ、小鹿のバンビちゃんは死んでしまったのだ。丘陵地帯では多くの黒和牛が草を食んでいた。牛達は丸々と太った頃には人間様の胃袋に納まる運命にあるのだ。牛達は屠殺場に入れられる寸前には、入りたくないと必死の抵抗をするそうである。牛にも死の直感力はあるのだろう。昔、山を歩いているとアリと毛虫が喧嘩をしていた。毛虫は体をくるっくるっと丸めて、えいっとばかりにアリを吹っ飛ばし、急ぎ足でその場を離れるのを見て、笑ってしまったことがあった。生きとし生ける者全てに生の本能があり、生きる知恵が身についているのだ。


宗谷岬

待望の宗谷岬に到着した。宗谷岬は二段になっていて、最初は上段に行った。そこからは宗谷海峡と、はるか彼方には昔のカラフト、今はサハリンとなった山々が遠くに見え、昨年七月のサハリン旅行の時のことを思い出し、あれからもう一年経ったのだと、今さらながら時の流れの早さに驚くばかりだった。
最初に目についたのは、旧海軍がレンガで頑丈に建設した監視小屋である。小生の推測では、日露戦争の直前に建設されたのだろう。夏はいいだろうが、冬の監視の兵士は十分な暖房もない時代に大変だったろうなと同情せざるを得ない。下段に行くと、有名な日本最北端のモニュメントがあって、観光客が入れ替わり記念写真を撮っていた。その風景を見ていると、学生時代の夢がついに叶ったと満足感と充実感でいっぱいだった。宗谷岬の歌の記念碑もあった。

流氷とけて
春風吹いて
ハマナス咲いて
・・・・・

といった歌詞で、私の中学時代、ラジオから時々聞こえてきた記憶がある。宮沢賢治の碑もあった。日本女子大学生だった妹が死んで傷心の賢治は、宗谷岬へ来てカラフトに渡ったのだという。妹の死を悲しんだのが有名な「永訣の朝」の詩である。間宮林蔵の銅像もあった。意外に小男であるのに驚いたが、考えてみれば、江戸時代の成人男子の身長は一メートル五十三センチだったというから、当時としては平均的な体格だったのだろう。小男で思い出すのは、冒険家植村直己のことである。彼の講演を聞きに行った時の第一印象は、なんとまあ小さい男で、この男が本当に世界の山々を踏破したのかと不思議だった。彼のボソボソとしゃべる話は、実に面白かったが、そのことは次の機会に譲るとして、山男に悪い男はいないというとおり、誠実で正直そうな男に私には見えた。ついでに書くと、私がサラリーマンをしていた時、会社の同僚に神戸大学山岳部出身の男に、よく山の歌を教えてもらった。その一つに、新人哀歌というのがあった。

 いいぞ いいぞとおだてられ
 何にも知らずに来てみれば
 地獄の二丁目山岳部
 好んで入る馬鹿もいる

 


 稚内市街へ

 宗谷岬から稚内市街まで、車で約一時間である。最初に行ったのは、稚内市樺太記念館である。パンフレットの一部には「稚内市では、稚内・宗谷の歴史資料とともに、樺太関係の資料の収集に努めてきましたが、平成二九年に樺太連盟より二千点に及ぶ樺太関係の資料寄贈を受けました。これらの貴重な資料をもとに、明治以降の樺太と、そこに生きた人々の姿を紹介しています」と書いてある。樺太関係の資料を見たが、大部分は戦前の街の様子や人々の姿、鉄道の風景等の写真ばかりで、しかもそれは新聞の写真ばかりであった。樺太から持ち帰った人々の展示品は、写真・時計等の小物が多かった。それは当然であろう。皆、命からがら、着の身着のままで、稚内に着いたのであるから。真岡の郵便局で集団自殺した九人のうら若き乙女の一人一人の写真もあった。彼女たちは逃げようと思えば逃げられたのに、真岡の通信を守るため、最後まで郵便局に残ったのだった。また隣には、太平炭鉱の病院の六人の看護婦の写真もあった。彼女等も集団自殺したのだった。彼女たち十五人の遺影の前に立つと、運命の残酷さを思わずにはおれない。
 次に稚内港にある北防波堤ドームに行った。説明書には、古代ローマの建築を思わせる防波堤は、稚泊航路が運航していた時代の名残りであるとあった。昭和二十年八月九日、ソ連軍が樺太に侵攻を開始し、十三日には全島民に対し北海道へ避難命令が出、ソ連軍により八月二十三日に出島禁止命令が出る。わずか十日間に約八万人の避難民が稚内に殺到したのである。市内の学校・病院・警察等の公共施設や一般住民の家屋にまで、収容しても収容しきれるものではない。どこにも入れない人々は、ドームで待つほかなかった。稚内駅に来た汽車には乗客が殺到し、われ先に乗るため、大混乱となったという。十五歳以上の男は、全員樺太に残されたので、当時ドームに残されたのは老人・女・子供だったから、なお悲惨だろう。何しろ汽車は次いつ来るか分からないので、今いる汽車に乗るほかないのだ。人間の手は二本しかない。幼い子供を抱えた母親は、片手に幼児を抱き、一方の手で幼い子供を引っ張らなくてはならないので、文字通り命がけだったろうと思う。北海道庁、国鉄も最善を尽くしたのだろうが、溢れる避難民を前に打つ手は限られていただろう。
 ドームから少し行くと、踏切があった。私は稚内構内の引き込み線かと思っていたら、同行のH君曰く、これが有名な宗谷本線だという。線路内は、草ぼうぼうで長い間保守・点検はされていないようだった。こんなんでよく事故が起きないものだと妙な感心をする。北海道内のJRの路線は、ほとんど赤字だそうである。国鉄分割民営化の時に、こうなることは分かり切っていたではないか。民営化の最大の目的は、当時の国労をつぶすことだという。運輸官僚、中曽根ゴロツキグループ、そこに割って入り、私腹を肥やしたのが革マルのボス松崎明であった。著者牧久、小学館発行「暴君」、副題は「新左翼松崎明に支配されたJR秘史」である。そこには、JR東日本の幹部のデタラメ、松崎明の謀略等が詳しく書かれている。
稚内公園は山の上にあった。春は桜の名所であるという。そこでひときわ目立つのは、氷雪の門である。「遠い樺太への望郷の念をこめた慰霊碑」とある。樺太在住の経験者は年々少なくなり、感慨をこめてこの碑を見る人は減少の一途をたどっているのはやむを得ないことである。すぐ近くにある真岡で集団自殺した九人の乙女の慰霊碑には「さようなら さようなら」と文字が刻まれていた。
話は一変するが、幕末、幕府の命令で東北各藩は風雲急を告げる。北海道各地の警護に当たった南部藩(岩手)は稚内地区の警護についたのだが、不慣れな気候と越冬準備の不足のため、多くの南部藩士はこの地に永眠している。慰霊碑があるなら一礼して帰ろうと思ったが、どこを探してもなかった。
夕方の公園からは稚内港がよく見え、礼文か利尻に行くであろう客船が港を出て行った。シャップ岬の夕陽を期待して行ったのだが、曇り空のため夕陽はなかったが、北の果ての公園から日本海を見ていると、もうじき来る冬は大変だろうなと同情せざるを得ない。土地の人の話では、稚内は夏でも二十五度を超える日はあまりないが、海水浴場があるとは驚きであった。が、今年は三十度を超える日がたくさんあったとか。郊外の温泉ホテルに泊まったが、夕食の時、隣室では浜頓別高校の野球部の選手が黙々と食事をしていた。どう見ても強豪チームには見えない。第一、体が普通の高校生と変わりない。部員は二十人くらいしかいないようだし、練習試合も満足にできないようである。何しろ稚内から自転車で二時間くらいのオホーツク海に面した小さな町の高校である。翌朝の地元の新聞を見ると、十五対一、五回コールドで負けしていた。勝ち負けはともかく、高校三年間野球に熱中することが将来の大きな糧になるのだろう。私は心から彼らにエールを送った。「ガンバレ 浜頓別野球部!!」
翌朝、オロロン街道を南下した。右に利尻富士と日本海を見ながら、一直線の道路を自動車は快適に進む。稚内から一時間ほど行った頃、休憩所があったので一休みした。展望台兼休憩所に近づくと、二十代らしき女が一人でシャッターを開けたり、中の片づけをしていた。聞くと、近所に住んでいて、毎日朝夕には休憩所を開けたり閉じたり管理しているのだそうである。近所に住むとはいっても、近くに家一軒見当たらないのが不思議だった。付近を散歩すると、ハマナスの花が群生していたが、見ごろは春だそうで、赤い実をつけているだけだった。春には残雪に覆われた利尻富士、そして青い色の日本海。そんな風景の中にハマナスの花が咲き乱れる風景は格別なものであろう。私は北大の寮歌を口ずさみながら散策した。

ハマナスにおい磯辺にも
スズラン香る谷間にも
・・・・・・

再び果てしない原野を自動車はひたすら走る。サロベツ原野は広いなぁと言ったら、サロベツ原野はもっと先だと言われてたまげてしまった。やがて、本物のサロベツ原野に入ったが、ここは泥炭が地表の近くにあるため、地下深く根を張らなくてはならない樹木は生きていないので、草ぼうぼうの原野になっているのだという。そういえば、いつかNHKのブラタモリで釧路湿原について同じようなことを言っていた記憶がある。とにかく、原野の広さには驚くばかりで、自動車で一時間くらい走っても原野また原野であった。
原野を抜けてしばらく行くと、苔前というところがあって、国道を左折して山の方へ行くと、奇妙な掘立小屋があった。そこが吉村昭の小説で有名な事件の現場であった。事件というのは、大正四年にこの地に開拓に入った一家十人が大きな熊に殺害されたのであった。事件発覚後、地元の猟師や警察、軍隊で熊の発見に努め、四日後に地元の猟師によって射殺されたのだった。小屋は当時のまま復元したものである。吹きっさらしのこんな小屋で、寒い冬はどう過ごしたのだろう。内地の生活に見切りをつけ、新天地の北海道の開拓に入って一家全滅の惨事に遭うとは・・・。運命とは残酷なものである。
苔前の国道に出て約三十分走ると、小平である。海に面した広場には、昭和二十年八月二十二日にソ連の潜水艦に攻撃され、二隻撃沈、一隻大破するという事件があり、約千七百人が犠牲となった事件の慰霊碑が二つ建っていた。一つは遭難者の家族が建てたものであり、もう一つは当時の堂垣内北海道知事が建てたものであった。日本海を見ていると、波は穏やかで七十余年前の惨劇を想像することは困難である。三隻の船にはカラフトから小樽へ行く避難民でいっぱいだったのだ。その船を攻撃するとは、ソ連の馬鹿野郎と怒鳴りつけたい気持ちになる。今となっては、怒鳴っても叫んでも死んだ人は戻ってこない。我々にできることは二度とこのような惨劇が起きないように、つまり馬鹿で低能な総理大臣を誕生させないことである。そのためには歴史に学ぶことである。それには、孫崎亨の「日米開戦の正体」上・下 祥伝社文庫 各八百円が最適である。是非一読を勧める。
その本を読むと、戦前の天皇を先頭に政府軍部首脳の腐敗・堕落・無責任の全てを理解できる。慰霊碑の前の道路をはさんだ向かい側には、明治三十八年頃できた重要文化財の旧花田家番屋が昔のまま残されている。とにかく大きい。まるで体育館の様な建物で、季節になると約二百人のやん衆が住んでいたという。やん衆とは、北海道や青森方面から出稼ぎにきた若者のことである。中心には大きい囲炉裏があり、多くの若者が寝起きする棚のような床もあった。仕事が終わると、囲炉裏を囲んで酒を飲んで、一日の疲れを癒したのであろう。ニシン漁が栄えたのは、明治の中頃から昭和二十年の後半までだそうである。今は資料館となっていて、当時使用された漁具や食器類が多数展示されてあった。
隣の道の駅の中には、悲劇の三船の一隻、泰東丸から引き上げられた遺品の数々が展示されてある。SOSを打ったであろう電信機・鉄兜・茶碗・衣類・靴・懐中電灯等、船で使用されていた数々の遺品は見る人の胸を打つ。私は目頭が熱くなるのを禁じえなかった。
小平から約一時間で増毛に着く。オロロンマップ散歩シリーズには、増毛までがオロロン街道と書いてある。増毛町の温泉ホテルが二日目の宿である。早速風呂に入ると説明書があって、ドイツの保養地で有名なバーデンバーデンの泉質と同じであると書かれている。つまり、健康にとても良いということである。東京の青梅のかんぽの宿にも、ドイツのバーデンバーデンと泉質が同じと書いてあった。以前は毎週入りに行ったが、今は足が悪くなって行っていない。増毛は北海道で一番うまい酒の生産地であるという。ならばと夕食の時に注文して飲んでみたが、まあまあの味であった。

三日目の旅

北海道旅行も三日目となったが、雄大な風景やどこでもうまい食べ物にありつき、飽きることはない。増毛町からは長い長いトンネルの連続であったが、これもまた北海道の特徴だろうと思った。昼頃には石狩平野を通ったが、あれが石狩川の河口と言われて、その広さ大きさには驚嘆するばかりだった。石狩川を渡る橋もまた長い。今はサケが川を上流へ上る時期だそうで、橋の上や土手でサケをじっと見ている人がいっぱいいた。北海道の秋の風物詩なのであろう。再び山道に入って、今度は太平洋側に出る。はるか彼方に室蘭方面が見え、中学時代、洞爺湖、室蘭と行ったことを懐かしく思い出し、楽しかった、長万部を通り過ぎた頃、JRの貨物列車と旅客列車とすれ違った。どこか頼りない感じのJRの列車であった。
三日目の宿は山奥の一軒宿だったが、すばらしい旅館だった。道路から宿の玄関まで大きな庭園のようで、殿様気分で宿に入るなんて初めての経験である。風呂は岩風呂とかで、足の悪い私は湯につかるだけで大変だったが、深夜の十二時に男女入れ替わるというので、深夜に入れ替わった女風呂に入ったら、そこは岩は全くなく快適な風呂であった。風呂に入って最後の北海道の夜を満喫した。


帰路

朝の十時頃、新幹線の新函館北斗が着き、ここでH君と別れ、私は十時五十四分発の新幹線に乗った。これで私は北は函館から南は鹿児島までの新幹線に乗ったことになる。これも今回の目的の一つだった。十時五十四分発の新幹線に乗り、二十二分間の青函トンネルを抜け、新青森・盛岡を通り、午後三時四分に東京駅に到着した。思えば、日本は小さくなったものである。

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