トイストーリー4がなかなかイケてるという話
2019年の8月上旬。映画といえば「天気の子」が話題を攫っています。個人的には「ワイルド・スピード スーパーコンボ」も見逃せない。でもあえてこの度は、トイ・ストーリー4のために劇場に足を運びました。
軽くレビューを検索しましたが、どうも賛否は別れる模様。検索画面では「トイストーリー」と入力するだけで「最悪」というワードが続いてサジェストされる始末でしたので、それなりに身構えて鑑賞に臨みました。
この記事は完全なネタバレ記事、もとい既に鑑賞した人と共有したい本作の考察なので、ご留意ください。
さて、本作の賛否が別れた最も大きなポイントは、エンディングの展開でしょう。無事フォーキーともどもランデブーポイントで合流を果たすウッディら。一度はボニーのもとへ帰らんと歩を進めたウッディですが、最大の理解者であろうバズの後押しにより、ウッディは踵を返しボーと共に「自由」を選びます。
私の観測した限りでは、「トイストーリー3までの文脈を汲めばウッディの選択はあり得ない」、「持ち主に仕え続けるのが玩具としてのあるべき姿だろう」、という指摘が主な批判点でした。しかし、私としてはむしろこの最後の展開によって「トイ・ストーリー」という作品全体の世界観に非常に大きな深みを与えていると感じました。
さて、最後の展開はとても強い既視感を覚えるものでした。鑑賞してから家に帰るまでずっと引っかかっていましたが、ようやく合点がいきました・・・この話は、「失楽園」の展開と生々しいほどまでに酷似しているのです。アダムとイヴが楽園から追放されるアレです。さて、最後を失楽園と解釈すると、オモチャがひとりでに動くあのトイストーリー世界がいったいどういう世界なのか、視えてくるものがあります。
さて、まず最後の失楽園でウッディは何を得たのか。それを読み解くために、トイストーリー世界の玩具たちの在り方を見直してみたいと思います。
彼ら玩具は、「子供に遊ばれること」を至高の悦びであるとし、また裏を返せば「子供に遊ばれないこと」こそがこの上なき哀しみ・自己否定であるとしています。基本的に、これはすべての玩具が当たり前に共有している価値観です。ダッキー&バニーのようなスレた玩具でも、ここらへんの価値観は共有されていますね。(ただ、ボーやフォーキーは例外です・・・そうして、彼らはまた愛すべき重要な例外なのです。)
さて、唐突ですが「道具」と「人間」の最たる違いはなんでしょうか。「使われるものと使うもの」、という答えもアリですが、私は「存在する意味が明確にあるか、ないか」の違いだと思います。
道具には、明確に存在する意味があります・・・ただひとつの目的をもった存在なのです。そのために作られた存在なのです。対して、人間にはハッキリとした「存在する意味」などありません。人間は、自分の生きている理由なんてわからないことのほうが健全なのです。人間にとって、「意味」とはあらかじめ与えられているものではなく、互いとの関わり合いとのなかで紡ぎだすものなのです。
さて、トイストーリー世界の玩具は道具であるため、「子供に遊ばれること」が自分の存在する意味だとハッキリ認識しています。彼らは皆、疑いなく、かつ当たり前にこの価値を共有しています。(疑いなく、というのがミソ)。
ウッディは最後、ボニーのもとを自らの意志で離れます。これはつまり、智慧を得てしまったことで、楽園(=ここでは言うまでもなく子供部屋のこと)を、そうして「子供に遊ばれること」という自分に与えられた意味を、自ら棄却します。ウッディは、「人間として受肉する」のです。
楽園にいれば、外在する「神(=アンディやボニー)」に「生きる意味」を無条件に与えられるのです。「子供に遊ばれること」というただ一つの意味・目的を、揺るぎなく保障されるのです。そうして、それもそれで決して悪いことではないのです。ですが、そんな「楽園にいるアダムとイヴ」のような存在は、現代でいうところの人間とは存在の仕方が違います。楽園にいる限り、人間はただ神から愛されてさえいれば良いだけの存在なのです。
一方、智慧を得て楽園の外に出ると、意味が「与えられたもの」ではなく「自分で見つけていく」ことへと転換するのです。「与えられたただひとつの意味」から「幾何級数的に創出されるいくつもの意味」へ。「受け身」から「主体」へ。
ここから私は、日々「自分の存在する意味」を探し歩く私たちへのメッセージ性さえ感じさせられました。
いったいこの世界の人間のうちどれだけが、「自分の存在する意味」を確信しているでしょうか。おそらく、ほとんどいないと言っていい、否、ひとりもいないと敢えて言おうと思います。むしろ、ただひとつ自分が生きている意味があると確信している者は、有り体に言って病的だと言わざるを得ません。
私のような凡人はともかく、なにか一つの道を極めた者(プロ)でさえ、その道ひとつによって自らの存在する意味を規定されるとは思えません。具体的に言ってみましょう。剣道に命を捧げた人間は、剣道こそがその人の生きる意味なのでしょうか?フィギュアスケートの神童は、一生をフィギュアスケートに捧げることこそが是なのでしょうか?否、否、彼らでさえ、そんんなただひとつの尺度でもって彼らの存在の意味を測られるべきではないのです。私たちは、「自分たちの意味」を肯定せねばならない。そうしてそれは決して与えられるようなものではなく、自ら創出していくもの、そうしてつねに更新され、増殖し、自らが思いもよらぬところで発現するものなのです。
さて、ラストシーンをこのように解釈してはみましたが、他のキャラクターに注目してみるとどうもキリスト教的な世界だけではなく他の神話のテイストも交じっているように感じます。以下は少しばかりの与太話。
まず、フォーキーがこの文脈ではなかなかいい味を出しています。彼がプシュケー(=魂)を獲得したのは、おそらく彼が玩具になったからではなく「神に愛されたから」から。また、奇しくも彼の姿は同時期に公開されたミュウツーの逆襲とも親和性があります・・・「ミュウツーの葛藤のベクトルが外向きではなく内向きになった」のがトイ4のフォーキーなのでしょう。逆襲ではなく自己破壊。・・・ところで、ラストに登場したプラスチック・ナイフでできたつがいこそが、遅れて登場した旧約聖書のイヴなのか。
また、この世界の「神」は、無償の愛を与える唯一神などではなく、文字通り「捨てる神あれば拾う神あり」な世界であることも独特です。この世界の「神」がどこまでも気まぐれな存在で、玩具たちが彼らの気まぐれに翻弄される様は、多神教ならではな物語の広がりを予感させます。
特筆するべきはボーの特異性でしょう・・・彼女は決して、旧約聖書のイヴなんかではありません。彼女は聡明な女性として描かれていましたが、いくらなんでも頭一つ抜けて賢すぎる。彼女はなんと、シェルターや自らを修復するための道具・技術といった「持続可能性・サステナビリティ」を自力で獲得していました。さらには、ウッディが物語の最後に到達した結論に、「既に自力で気付いて」いたのです。彼女には、あのアンティーク・ショップは最早トイ・ストーリーではなく進撃の巨人の舞台に見えていたのでしょう。彼女の知性は、「チンパンジーの群れのなかで一人だけ火や石器を操っていた」レベルで、不気味ささえ感じます。うっかりモノリスにでも触れたか、プロメテウスのえこひいきを受けていたとでもしないと説明がつきません。
さて、感想は以上です。正直に申し上げますと私自身はあまり真面目にこれまでのトイ・ストーリーシリーズを鑑賞してきたわけではありません。ですので、これまでのファンの方にとっての本作の印象と、私にとっての本作の印象にはだいぶ温度差があると感じます。実際、私もこれまでの作品のファンであれば、批判をしていたかもしれません。
それでも、過去作を知らない私のような鑑賞者にとっても、ある程度深みを感じさせる内容であったことは確かです。