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「今」に生きれなくても幸せはある

 おなじみのテーマの続きです。

 みなさんは、旅行先の事や観光地・世界遺産の写真をみて憧憬を抱くことは多々あるでしょう。
 ですが、写真などを見ているときに感じていた憧れが、いざ自分自身でその場に行くとなんかこう・・・冷めてしまうなんてことはありませんか?

 私にはこのようなことが非常によく起こります。リゾート地や世界遺産は写真で見るとその美しさに酔いしれることがしばしばあります。
 それどころか、現地の音楽や海の環境音をスピーカーで流し、それっぽいお菓子とお酒をカルディでこしらえて、パソコンで現地の写真のスライドショーを流して悦に浸るほどです。そこまでして私は自分の観光地への憧れを癒そうとします。

 しかし。いざ自分がその場にいってみると、どうでしょう。
念願の白浜のビーチ、蒼い海を前に晴天の下。
大袈裟なカクテルを片手に座る。
それが3秒もすれば「あ、もういいかな」となってしまうのです
まるで、太宰治のトカトントンが鳴り響いたかのような心地になるのです。

何か物事に感激し、奮い立とうとすると、どこからとも無く、幽かに、トカトントンとあの金槌の音が聞えて来て、とたんに私はきょろりとなり、眼前の風景がまるでもう一変してしまって、映写がふっと中絶してあとにはただ純白のスクリンだけが残り、それをまじまじと眺めているような、何ともはかない、ばからしい気持になるのです。

太宰治 トカトントン

まるで、自分自身の存在そのものが今まで憧れていたその写真についた染みになったかのような感覚に陥るのです。相変わらずの今に生きれない案件です。

 また、私は小さい頃には親に様々な場所に連れて行ってもらい、たくさんの貴重な経験をさせてもらいました。しかし、当時は幼く、私にはその価値をわかっていませんでした。面倒くさいと思う事さえしばしばありました。
 最近の事ですが、ある時、私はそのように感じていたことを父親に懺悔しました。「今ならその価値がわかる、今同じような経験ができるならきっと夢のような心地であろう、しかし私はそのような機会を無知ゆえに無下にしてしまった」、と。しかし父親は「いいんだ。"本物に触れた"という事実・経験があればそれでいいんだ」と返しました。
 私にとっては、その言葉の真意がどこかに有ることがわかれども汲み取ることは能わず、慰めとして受け取ることほかありませんでした。

 しかし、最近ツイッターで見かけた投稿が、ちょうど痒いところに手が届くような表現をされていて、同時に私の中の何かが成仏しました。

私は高校生のときに「今やらないと絶対後悔する」という気持ちで白いワンピースを着て麦わら帽子を被り学校の夏季補習みたいなのをサボって海に行ったことがあるんですけど"強"くないですか?私だったら好きになってしまう(錯乱)
日本海側だから黒いし、別に何もなかったし直後はちょっと後悔すらしてたはずなんだけど、歳をとるごとに具体的なことを忘れて、主観が抜けて、事実だけになっていって、毎年この思い出が好きになっていく。

常磐 図 @zyoban_hkr

すなわち、この「主観が抜けて、事実だけになっていっ」た後はじめて、私たちにとってそれは価値あるものとなるのではないでしょうか。

経験しているまさにその瞬間はきっと陳腐であろう。
白浜のビーチも、振り返ればゴミが落ちているかもしれない。世界遺産には、自分と同じような観光客で溢れているであろう。何処に立っていようと、どんな空気を吸っていようと、私はどこまでも、自分がよく知っている世界で最もつまらない人間でしかない

いつだって同じ いつだって非道く汚い僕が居る
(鬼束ちひろ イノセンス)

ってなワケです。
だから、現実で体験するよりも夢のなかで体験する方が、私にとってはリアリティこそなかれども、リアルなのである。
嗚呼、夢で体験するようにリアルで体験できればどれほど良い事か。「今に生きる」ことなど叶わない。

 けれど、もし。もし世の中がそういうものなのであれば・・・人は今に生きれない生き物なのだとしたら。開き直って、主観が抜け落ち、事実だけになったモノこそを愛でようというのであれば。

 詩おう。絵にしよう。写真に残そう。せめて、いつかの未来に、この瞬間に立ち返れるような手掛かりを残そう。

 ともすれば、こういった立ち返れるような美しい瞬間をいくつも残していくことこそが、人生の佳い積み重ね方なのではないでしょうか。

次回の記事では、写真に残すということでインスタの自分流の撮影法をシェアしようかなと思います。

また会いましょう

月城うさぎ

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