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京都暮らしに憧れて

京都暮らしに憧れる。

 手前は根っからの江戸っ子だが、京都でのかぶれた日常を夢想した者は私だけではないと思いたい。否、そうであるに相違ない。夕刻には日課の鴨川でのジョギング。夏場には川床で杯を交わす。土日は神社をハシゴして。雨が降れば和傘を回す。三時のおやつは抹茶パフェ。

 手前が京都に憧れたきっかけのひとつは、我ながら単純で恥ずかしいが、関西弁もとい京都弁だ。

 就活生時代に京都のとある会社にお邪魔させてもらった。残念ながらその場では縁を見出せなかったが、面接官の口から不意にこぼれた「してはる」という方便の響きが、優しく親しくしかして押しつけがましくなかったがために、いやに耳に残ってしまったのだ。

 いつもはじめの動機とは、決まってしょうもないものだ。それからすっかり、日常で「~はる」を使う言い訳が欲しいがために関西に移り住まんと希うようになってしまったのだ。

 そんな手前の想いも、忌みじくも実ってしまった。折あって今手前は関西圏に住んでいる。いざ移り住んでしまうと、皮肉にもたちまち里が惜しくなる。隣の芝は見事に青いが、住めども都は一向に顔を見せる気配がない。これでは兼ねてよりの妄想を実行せねば割にあわぬと、週末は決まって忙しなく京都へ足を運んでいる。ジョギングとパフェはさすがに無理があるが、街を歩くだけで多くの発見に行き当たるため、己の中で一方的に作り上げた京都像は幸いにもまだ崩されていない。「~はる」を使う練習を始めたことはいうまでもないであろう。

 実際に「~はる」を使う人に囲まれて、その微妙なニュアンスをつかみ始めた。そうして、さらにその魅力に引き込まれた。

 運用としては、あらゆる動詞に連用接続することで敬意を表現する。「来る」なら「来はる」、「居る」なら「居てはる」。動詞であればオールマイティに敬意を含ませることができる。ですます調より、自由度も高い。

なによりも、敬意の度合いが丁度良い。尊敬語だと堅苦しいが「~はる」ならば、絶妙に相手との距離を調整することができるのだ。

 便利な使いどころのひとつは、親しい・頻繁にお世話になるけれど多少歳の空いた先輩だろう。

「今日は○○先輩が………」

ここで「来る」と続けると、いくらなんでも不躾だ。気にする人がいなくても、自分の言葉に引っかかる。「いらっしゃる」では、固すぎる。ここでマジックワードを使ってみる。

「先輩がきはる」、これだと非常に佳い距離感が保てるのだ。初対面同士や、会話の中で第三者に言及するときも同様だ。

 実際にいるわけでもない京人を衒ってその上似非方言を重ね焼き。ミーハーもよいところだと自嘲する。さながら旅行先に住み着いてしまった観光客の心地である。しかし、初めから京都に生まれていればこうはならなかったに相違ない。異邦人であるからこそ、都合よくいい側面だけを見ていられるのだ。キッザニアと実際の職務の乖離のようなものだ。何かを楽しむにはどっぷり漬かるよりもある程度の距離を空けたほうがやりやすい。

 人付き合いであれ日々の暮らしであれ、自分で距離感をコントロールすることでこそ、その営みにもゆとりができる。無関心は空しいが、迫りすぎると息苦しい。さりとてちょうどいい距離を保ち続けることは、やはり疲れて無理が続かぬ。

 僅かなゆるみ、隙間、余剰、ゆとり。これにて許される自由のことを、奇しくも「あそび」と表現する。詰めた生き方には、「遊びが無い」。締めすぎず、放ちすぎない塩梅の間で初めて遊びは産まれる。

 京の言葉の魅力も、このもてあそぶような「距離」なのだ。バランスの重要性は頭では理解できるが、往々にして実践が難しい。そんなときこそ、京人の言葉の織り成すたおやかな距離の取り方を見習いたい。もとい、手前が真似るべきは、ただの言葉尻ではなくその心であろうか。


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