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「状態としてのひとり」のメイキング

『ひとり空間の都市論』では、都市において人々の生活が飲食店や宿泊施設といった場所に外部化され、匿名性を帯びたひとりの状態を生む空間を「ひとり空間」として捉えている。そして、戦後から現代において生成され続けた「ひとり空間」の変遷とこれからを分析している本だ。著者の南後由和さんは、社会学と建築学の知見から、都市について分析を行なっている研究者だ。そして、空間の存在と成り立ちという両方向の視点から分析をおこなうことで、現代における日本都市の性質の一端を炙り出そうとしている。

本書の特徴的な点は、「ひとり空間」を物理的な空間に置き換えるのではなく、匿名性を帯びた、ひとりの状態を指す言葉として捉えていることだ。そこには、公園でスマートフォンを使用している時のように、見えない仕切りによるひとりの状態も含まれている。都市生活の中で、人々は、食事、睡眠、寛ぐといった生活のふるまいを行う。それらのふるまいは、一時的な時間と空間で行われる。一時的なふるまい、集団と個をスイッチングするさまは、情報技術の登場によってプライベートな空間にまでも及んでいる。例えば、本書でも引用されたAirbnbのように、一般的なマンションのプライベート空間を宿泊施設へと一時的に変化させ、顧客に提供している。

また、鴨長明が過ごしたとされる方丈庵を例に上げ、ひとりの住まいと集団の都市との接続関係を、現在のひとり空間の原型として存在していたことを指摘している。加えて、ひとりの住まいでありながら、インターネットを介して、集団の都市=ネットワークへの接続が可能になった状態と同義であると指摘されている。現在は、方丈庵を所有していなくても、無意識にひとりと集団の間を往来しているのだ。状態としてのひとりを保つ「ひとり空間」は、一時的な人間のふるまいとして、手元の中でも日々更新され、集積されている。

マンション、飲食店や宿泊施設、情報空間は、一時的なふるまいを誘発すると言う点において、まるで複数の仮設建築物のようである。仮設建築物とは、ある特定の場所に、期間を定めて設置される構造物のことを指す。例えば、建物の外観を組立てるときに設置される仮設足場がある。仮設足場は、ある一定のモジュール(畳など規格化された寸法単位)を持ち、条件を満たせば様々な場所へ流用することができる。仮設は、「ひとり空間」と同じように交換可能性を持ち合わせている。

しかしながら、仮設と既存の「ひとり空間」は似ているようで異なる。既存の多くの「ひとり空間」は、その場所にあるものを破壊して、全く別のものを再構築するという点において、まっさらな状態を生産し続けるといえる。一方で、仮設的なものは、まっさらな状態に戻し、再構築するというよりは、設置される場所を強化する側面を持つ。道路や公園に設置する場合でも、その場所に寄生するように、限定された時間と空間を共有する。形としては、残らなくても人の意識のように残り続けるはずだ。

ぼくは、本書で分析されているようなひとりの状態が好きである。駅を出て、帰り道にあるラーメン屋をよく利用する。周りに一切気を払わないでもくもくとラーメンをすする。ずずっと麺をすする音だけが響く空間は、ラーメンをより一層美味しく味わうことができるような感覚さえもある。しかし、本を読み進める中で、なぜか既存の「ひとり空間」を有する建物に違和感を覚えていた。人々の一時的なふるまいや空間は、放置すれば集積されることなく、個人の行動として消費され、いつのまにか湯気のように霧散してしまうのではないか。本書で描かれていたように、現状の都市は、資本主義と密接な関係を持つ。時代の変遷は、直接的に都市の「ひとり空間」に影響を及ぼし、それらの存在を否定することはできない。それでもなぜか、疑問が浮かんでしまうのだ。

OpenAを経営する馬場正尊は、著書『RePUBLIC』において、オフィシャルスペースではなく、オープンスペースの必要性を説き、道路の高架、川辺や、隙間といったオープンスペースを積極的に活用することを提言している。ただ、「隙間」を活用するだけではなく、少しずつ、痕跡を残すようなものだと思っている。その中で、仮設物は、誘導装置であり、間接的に場所を強化する装置でもある。そして、決して「みんな」や「ひとり」にこだわる必要はなく、誰もが、異質なまま着脱可能な「ひとり空間」を選択できるきっかけがあればよい。

それは、かつて鴨長明が方丈庵と京都市を往来し、接続と切断を緩やかに切り替ええ生活を楽しんだように、自分と外部の接続点をより意識的に選択することができる。その過程で、考えられたアプローチ方法や管理方法は、形に残らなくても存在し続けるだろう。

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