塔から紡ぐ祈りへ
漫画『ドラゴンボール』に登場する妖怪ウーロンは、ドランゴンボールを7つ集めると出てくる願いを何でも叶えてくれる神龍に、「ギャルのパンティおくれーーーっ!!!」と言葉を放った。ウーロンはどうなるかわからない世界征服よりも、自分の生活を豊かにするパンティを選択したのだ。そのため、主人公の孫悟空と別れるまでの間、終始パンティを頭に被り続けていた。彼にとってパンティは幸福の象徴だったのだ。
神社やお寺は、即物的な願望を叶えてもらうための装置だと思っていた。例えば、入学試験の合格、資格の取得、今好きな相手と交際関係を結ぶこと。自分も含めて訪れる多くの人々は、デカイ一発を求めて、神社仏閣を訪れ、賽銭を投げて祈ったことがあるだろう。「学問の神様」や「恋愛の神様」を訪ねて遠出することもある。風に揺られてカラカラと乾いた音をたてる絵馬が象徴的だ。
現在、ぼくは京都市に住んでいる。京都には限らないかもしれないが、京都ではまちを歩けば棒に当たるよりも、神社やお寺を見つけることが多い。どうしようもなく願いが頭の中にあるときは、手当たり次第に見つけた神社やお寺を訪れた。広い神社であれば、仏様のいる拝みスポットが複数あり、意味もないのに全ての場所に賽銭を投げて願望を託したこともある。
人の願望を叶えるのは、神社やお寺だけでない。全国には、「一度は見てみたい景色」を見たい願望を叶える展望台という装置がある。京都市には山間部を除いて、ほぼ中心の位置に京都タワーがある。京都タワーは、地上約100mに展望台エリアを持つ展望塔だ。高さの規制された京都では、京都タワーよりも高い位置に建物はなく、京都市内を360度ぐるりと見渡すことができる。午前中から、夜まで、市内の至る所から見え、旅行者(出張も含め)にとってのランドマークとなる。同時に、居住者のランドマークでもある。京都市の東山区の山に登った時、北区のまちで自転車を押しながら喋っていた時も、ビルの間から京都タワーが見えた。京都に住み始めた頃、「ここからも京都タワーが見える」とよく思ったものだ。特に、空が暗くなった時間帯にライトアップされた姿は、正に火のついた蝋燭の灯火のようだった。
ぼくは、京都に移住することになって、いままで見たことのない景色を求めて京都タワーの展望台へ登った。学生時代も訪れた京都だったけれど、京都タワーへは初めて登った。展望台に向かう道中はアトラクションのようで案内人の女性がエレベーターへ先導する。展望台へ向かうエレベーターに乗り込み、どんな景色が見えるのかワクワクしながら、階数表示のかわりに京都タワーがデフォルメされたアイコンが点滅する様を見ていた。エレベーターを降りると、見たこともない景色が目に入ると同時に、思い思いに過ごす親子連れやカップルの姿が目に飛び込んできた。そこでは、今から行こうとしている場所や、さっきまでいた場所に思いを馳せながらうっとりしていた人々がたくさんいた。ぼくは、人の多さに辟易しながらも、近くの人の愛の囁きを横目に、無料の望遠鏡をのぞいたり、ぐるりと景色を見渡して、用途地域や高さ指定地区の地図と照らし合わせながら景色を楽しんだ。景色を見ていると見なれた場所がよく見える。ランドマークは方位を知るためにわかりやすい道標だ。東本願寺があるのは北側、任天堂の本社があるのは南側とGooglemapsを開かなくても建物の位置関係を知っていれば方位を判別することができる。ふと思い立ち、自分が住んでいる地域はどこだろうかと南西方向を見てみる。南西側は、低層の住宅地エリアになっている。住宅地の中にはぽっかりと穴が空いたように、東寺の境内の木々や建物とその端っこで起立する五重塔が見えた。
東寺は、古代から現代まで長い時間を内包している。しかし、100年程の時間で見れば、国道が敷設された以外に大きな変わりはない。周辺は住宅街と国道に囲まれた場所に位置していて、観光客だけでなく、地域の人たちも訪れる。東寺は建物として、食堂や金堂、門扉や塔などが現存しており、広い境内を持つ。境内は、明確に動線が設計されているわけでもなく、刺激的な場所ではない。歴史的建造物や、境内という空間が好きな人でなければ退屈な場所かもしれない。また、早朝から夕方の16時45分の時間帯に開門し、無料開放されている。通勤ルートでもなかったので、平日に休みを取得した時や休日に出向かなければ中に入ることはできなかった。中に入ることはできないが、夜中に散歩やランニングをしている時、五重塔がビルや住宅の隙間から見えるので、吸い寄せられるように足を進めることもあった。
初めて東寺を訪れたのは厚着をして顔に冷たさを感じる頃だった。通りに石畳が敷かれていて、途中から境内に敷き詰められた砂利を踏む音と、巨大な伽藍堂や五重塔を見たことを覚えている。午前中や夕方など時間帯を変えて訪れてみると、祈る人もいればただ歩くだけの人や、走り回る保育園児と保育園児を連れて歩く職員のかたも見かけることもあった。
また、お寺は人々の祈りを集める場所だ。ある人は健康を、ある人は安全を祈る。平日や休日の午前中に訪れると、老夫婦や熟年夫婦が本堂の中に入り、お経が唱えられている横で仏様に向かって手を揃えて眼を瞑り、頭を傾けている。まばらにそこにいる人は、境内を歩き線香を立て、賽銭箱に賽銭を投げ入れ祈る。そして、なんでもなかったかのように向かいの門に向けて歩き、姿は見えなくなった。東寺の境内は、時間内であれば東西南北の門扉からいつでも出入りすることができる。ここでは、特別な景色は広がっていないけれど、ふらっと訪れ仏様を拝むか、祈りを捧げて去っていく。
昨年から自宅周辺や交通機関を利用して、足を伸ばして京都府内を散策する時間が増えた。家から近いこともあり、東寺を訪れる回数も増えていた。ある日境内には、目先の五重塔と1Km先の京都タワーをみることができる場所があることに気がついた。どちらも首を傾けて見上げる巨大な塔だが、まちとの接し方は異なるように思えた。
京都タワーの展望台は、有料で近くに住んでいたとしても頻繁に訪れることはないかもしれない。まちを見渡すことや見下ろすことが好きでない限り一度訪れたら十分堪能できる。五重塔がある東寺は、神秘的な山頂でなければ、人里離れた場所でもなく街中に突如現れる。周辺1Kmの範囲には目視する限り4つも銭湯がある地域に立地している。地域に根ざした場所として、身体を動かせない限りどんな人でも受け入れる場所だ。
いつもと変わらない東寺を訪れると、桜が咲き、新緑の葉っぱがきれいなクスノキが揺れている。鳥の囀りが聞こえるほど一時的に周辺の喧騒はキャンセルされる。訪れる回数が多くなるにしたがって、すぐ消費してしまうような願望は祈りのようなものに変化していた。それは、些細なことかもしれないけれど、「自分も含めて関わる人が楽しく生活できますように」という願いであり祈りのようなものだ。毎日訪れる人もいるかもしれないけれど、ぼくは週に一度か月に何回か訪れるようにしている。
東寺という場所は、地殻変動が起きない限り、動かない。根っことなるような祈りの場所があることで、いつでも遠くにいくことができるような感覚を持っている。そして、今日も何を考えているか分からない顔をした仏様に祈り、その場所を後にした。