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意味の占有:コミュニケーション考1―爺のお勉強note
介護において、当事者(障がい老人)と介護者とのコミュニケーション・会話はとても大切だと思います。ともかく、コミュニケーションなしに人間は社会生活を送ることはできません。
ですから、このコミュニケーション・会話についてしっかりと理解することが求められているように思うのです。
1.一般的なコミュニケーション・会話の理解
一般的なコミュニケーション・会話は次のように理解されているのだと三木那由他(哲学者)は指摘しています。
話し手が何か頭のなかに考えを持っていて、それを言葉にして伝達し、聞き手はその言葉を受け取って、話し手が考えていたことをその言葉から読み取る。
普通の理解では、コミュニケーション・会話においては、発信者が思いや意図を定めて、聞き手に伝えるということが基本で、その伝えようとしている意味、意図をしっかりと受け手が理解できるかということがコミュニケーション成立の基本だと考えられているのです。
ということは、発信者が主体で、受け手はあくまでも受身的な立場、発信者が「主」で受け手が「従」であるかのように思われているのです。
ところが、三木那由他さんは、この発信者が「主」で受け手が「従」ではない場合もままあると指摘しているのです。
2.『魯肉飯のさえずり』
実際のコミュニケーションにおいでは、会話する者たちは、性別、年齢、体力、経済力などなどの、さまざまな属性に基づき、「優位―劣位」といった、非対称性、権力性の軸が交差しているのです。
これをインターセクショナリティといいますが、このインターセクショナリティの磁場によって優位にある者が、例え聞き手であっても、会話の内容を決定するという事態が生じることがあるといいます。
三木那由他さんは、温又柔さんの小説『魯肉飯のさえずり』(中央公論新社2020年)を紹介しながら、コミュニケーションには、「意味の占有」、「コミュニケーション的暴力」の可能性があるといいます。
かなり長くなりますが、紹介します。
(桃嘉)「[…]それでね、聞いてほしいの」
はじめこそ、なんでも言ってごらん、と聖司は冗談めかしていた。桃嘉はおそるおそる、年が明けたら仕事を探そうと思っている、と切り出す。
[…]
「わたし、聖司さんにばっかり甘えたくないの。もちろん聖司さん以上に稼ぐのは不可能だけれど、わたしにできることがきっとあると信じたい」
ずっと言いたかったことはこれだ。心臓の鼓動が早まるのを桃嘉は感じる。ところが聖司は、ばかだなあ桃嘉は、と笑った。
「お金のことは気にするなよ」
聖司は腕をのばし、そうじゃなくて、と言いかける桃嘉の頭を撫でる。
「奥さんと子どものために稼ぐのは、男にとってあたりまえのことなんだからさ。それに俺は、桃嘉に甘えられるのが嬉しんだよ」
ちがう。桃嘉は軽い絶望をおぼえる。自分の言いたかったことが、まるで聖司に伝わっていない。桃嘉がことばを失っていると、確かに、と聖司は続ける。
「ずっと家にいるのも退屈だろうね。社会勉強もかねて、少し外に出てみるのはいいかもな」
「きょうは一緒に風呂、入ろうか」拒絶しようと思ったが、断る気力もないほどくたびれ果てていた。
[…]今朝の一件が遠のきかけた矢先、泡にまみれた聖司の手が乳房に触れるのを桃嘉は感じる。乱れはじめる聖司の息を首筋に感じながら、このひとは、ただ、からだを洗ってくれているのではないという事実を突きつけられ、桃嘉は自分が小さな子どもではないことを自覚させられる。それは泣きたくなるような絶望に満ちていた。湯気と水滴にまみれながら、聖司に気づかれないように桃嘉はそっと泣く。息を荒くした聖司は桃嘉を浴槽のヘリに座らせる。聖司の指が、桃嘉の太ももと太もものあいだを這う(は)。桃嘉は夫を信頼していた。きっと浴室では最後までしないだろうと思っていた。ところがちがった。聖司はそのまま桃嘉の中に入ろうとした。桃嘉はからだをこわらばせながら身をよじると、そとにだすから、と半ば命令するように言い聞かせる。いや、となおも繰り返す桃嘉の声を聖司は無視する。[…]
[…]数秒後、聖司は宣告通り、そとにだした。呆然(ぼうぜん)としている桃嘉に、心配するなって、と聖司は言う。「中に出してないんだから」
自立を求める「甘えたくない」は夫の稼ぎへの心配へ、性行為を拒絶する「いや」は膣内での射精の拒否へと、聖司によって変質させられる。「言いたかったことが、[…]伝わっていない」。だが問題は、伝わらないということそのものではない。伝わらないときに、誰がその場の支配者となり、誰が会話の成り行きを決めるか、なのだ。そこにコミュニケーション的暴力が立ち現れる。」
3.意味の占有
このように話し手がその振る舞いや発言で何かを意味しようとしても、聞き手の力によって別の何かを意味したことにされる事態を三木那由他さんは「意味の占有」と呼んでいます。
話し手がその振る舞いや発言で何かを意味しようとしても、聞き手の力によって別の何かを意味したことにされ、その別の何かに従って約束が結ばれてしまう。聞き手が意味を独り占めしてしまう。私はこれを「意味の占有」と呼んでいる。
非対称的な関係、権力関係によって、その発語の意味は歪められ、優位側、権力側によってその内容が決められる怖れがあるのです。
言葉は、伝わらないというより、歪められ、そのうえで伝わったことにされる。
話し手の意図や言葉の本当の意味はときに無力で、意図も言葉も捻じ曲げて意味をわがものにしようとする力に話し手はしばしば屈してしまう。自分の発言の意味を決める権利が、他人に奪い取られてしまう。
4.介護の世界の「意味の占有」
このような「意味の占有」「コミュニケーション的暴力」は介護の世界でも起こりえると思います。否、「意味の占有」が生じやすいと思うのです。
それは、介護の世界のコミュニケーション・会話は、話すことが難しくなった当事者が多いため、どうしても職員が主導していく必要があるからです。
さらに、介護の世界の「困っている人―支援する人」という関係性や、「介護する人―介護される人」という関係性には、非対称性、権力性、暴力性が潜んでいるのです。 このような非対称的な関係性は、当然、コミュニケーション・会話にも影響を与えるはずです。
相談に来た方や当事者(お年寄り)の訴え、発言内容を専門家が意図的ではないにしても、歪めてしまう、つまり「意味の占有」を行ってしまう怖れがあるのだと思います。
当事者とのコミュニケーションで、相手が認知症だから、わがままな人だから、頑固な人だからと当事者を無視することもあるでしょうが、きちんと相手の話を聞いているようでも意味を占有し、意味を捻じ曲げていることも多いように思うのです。
それでいて、当事者の話を私はきちんと聞いてやっているという勘違いが横行していくこともありえるのだと思います。
インターセクショナリティについては以下noteをご参照願います。
コミュニケーション考2もご笑覧ください。