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ジャマイカ音楽#8(スタジオ)
米国からの良い音楽の供給が少ないのであれば自分たちで作ってしまえ。これがSKA誕生の大きな原動力になったのでしょう。そこにはサウンドシステムの競い合いが存在したことが大きな要因です。
ずっと同じもので踊らせるのではなく、最新のものを提供し客の心を掴み続けライバルとの差別化を図る。これが精神性としてあるのでしょう。ビジネスモデルでもあるかもしれません。
1950年代中期にはレコーディング・スタジオも併設したレコードのプレス工場が設立されました。それがのちに最新設備をスタジオを作り「フェデラル」と改名したのです。
フェデラルスタジオを使ってそれぞれのサウンドシステムでかける音源をレコーディングしプレスすることが始まりました。最初期のダブプレートの誕生と言って良いのではないでしょうか。
ソフトウェア作製のためのハードウェアがすでにジャマイカには備わっていました。自国でレコーディングしレコードがプレスされるようになっていたこともSKA誕生と発展の後押しになったことは大きな要因です。
ディスコであるサウンドシステムも長く続くSKA期へと変貌していくわけなのですが、何故にサウンドシステムではバンド演奏ではなくレコードだったのか?
あくまで個人的な見解ですが、それを解く鍵は当初から野外ディスコであったことだと思います。バンドが野外で多くの人の前で演奏するためにはPAシステムが追いついていなかったのではないでしょうか。
当時のPAシステムは世界的にみても、ヴォーカルを出力するためのものでしかなかったはずです。野外では音量を必要とします。かなり昔のサウンドシステムでもスピーカーをたくさん積み上げていたようです。出力をあげるための涙ぐましい努力はあったとは思いますがレコードであれば野外であっても踊るために大音量でかけることができたのではないかと思います。
自国の音楽、レコーディング、プレス、その結果としてサウンドシステムはレコードレーベルとしての側面を持つようになってきます。
以前の記事にも名前が出てきたサー・コクソン・ザ・ダウンビート(Sir Coxsone The Downbeat)を率いるクレメント “サー・コクソン”・ドッドはコクソンは「Studio 1」を設立。トロージャン(The Trojan)を率いるアーサー・”デューク”・リードは「トレジャー・アイル(Treasure Isle)」を設立しています。
SKA期におけるもう1人の重要人物はプリンス・バスターです。バスターもコクソンから独立しプリンス・バスター・ボイス・オブ・ザ・ピープル・サウンドシステムを立ち上げ、同時にレーベルも設立しています。