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映画『英雄の証明』監督インタビュー到着!

第74回カンヌ国際映画祭にてグランプリ&フランソワ・シャレ賞、第93回ナショナル・ボード・オブ・レビュー脚本賞、外国語映画賞 などを受賞し、第79回ゴールデングローブ賞非英語映画賞にノミネート、本年度米アカデミー賞国際長編映画賞ショートリストにも選 出された『英雄の証明』が、4月1日(金)より全国順次公開する。この度、アスガー・ファルハディ監督のインタビューが到着しました。

2度の米アカデミー賞受賞監督アスガー・ファルハディが放つ、
ソーシャルメディアの功罪を問う、極上のヒューマン・サスペンス。

アスガー・ファルハディ監督は本作の着想を「かなり以前から新聞でこうしたストーリーを目にしていました。普通の人たちが何か 利他的なことをした結果、注目を集めるといった物語です。」と、報道や記事を念頭に置いて脚本を書いたと話し「動機や推進力と なるものは、イメージや感覚、時間が経つに従って広がって行く短いプロットから生まれます。」と、バラバラに書き留めたノートからアイデアが生まれると明かす。さらに描写については「スタッフとキャストが、そのシーンのあらゆる細部が説得力のある、信憑性のあるものになっていることを確認し、登場人物たちの振舞いや台詞が、現実離れしていたり、決まり文句に頼っているようなものではなかったため、俳優たちはうわべだけの演技という罠に捕らわれないよう最善を尽くしてくれたのです。」と、脚本に命を吹き込むために 全員が全力を尽くしたときに自然な雰囲気が生まれると話す。
また、登場人物が翻弄されるソーシャルメディアの存在について「世界のあらゆる場所と同じくイランでもソーシャルメディアは人々の生活の中で重要なものです。この現象は、比較的新しいものですが、それ以前の生活がどんなものであったか思い出す事が困難なほど、強い影響力を持っています。」と、世界中の人々の生活に影響を与えるソーシャルメディアの脅威について語っている。

Q.本作はどのように着想されたのですか?
かなり以前から新聞でこうしたストーリーを目にしていました。普通の人たちが何か利他的なことをした結果、注目を集めるといった物語です。 そうしたストーリーは往々にして類似の特徴を備えています。本作は特定のニュース記事から着想を得たわけではありませんが、私はそうした報道 記事を念頭に置いてこの物語を書きました。


Q.どのようにこの映画の脚本を書かれましたか?
報道された実際の出来事のおかげで、最初にぼんやりとした物語が思い浮かびました。何年か経つとはっきりとしたアイデアになりました。私はい つも同じように仕事を進めます。動機や推進力となるものは、イメージや感覚、時間が経つに従って広がって行く短いプロットから生まれます。 時に は、こうしたことが、いつの日か脚本の一部になるのだと私が気づかないまま、ただ心の片隅に佇み続けることもあります。 時間は大切な味方です。こうした種子には、自然と消滅するものもあれば、生き残り、成長し、世話をされるのを待つ未完了の作業としてずっと離 れずにいるものもあるのです。この時点で、バラバラに書き留めたノートからアイデアが浮かんできます。それから、リサーチを始め、次にどこへ行く べきかを指し示してくれる最初のスケッチが得られるのです。 私が書いた物語のほとんどが私の頭の中でこうして出来上がってきました。最初から明確な始まり、中盤、終わりのある物語を創作したことはない ように思います。

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Q.登場人物の経歴はすべて把握されているのですか?
先ほどお話したバラバラに書き留めたノートは、大体、登場人物の過去の探索で成り立っています。この作業段階は、いつもとても時間がかかるの ですが、原則的には主要登場人物を対象としています。何ヶ月も様々な色の紙に、私が書いている物語に関係したアイデアをすべて書き出して いきます。一つ決まった色の紙には脚本に盛り込むことを確信しているアイデアを、別の色の紙にはまだ確信が持てないアイデアを書き込むので す。このようにして書き込まれた紙の多くは、脚本の執筆段階で直接的に使用されることはありません。こうしたアイデアが脚本に明確な情報を提 供することはないのです。しかし、私が考え出した登場人物を深く理解するのに役立つのです。この準備段階の間、登場人物の過去の多くの面が 構築され、映画の中に多かれ少なかれ目に見える跡を残すというわけです。


Q.多人数のシーン、特に家族でのシーンでは、どのようにして、あれほどまでに自然な雰囲気を醸し出しているのですか?
これは主に脚本によるものです。意識せずにそのようになっています。スタッフとキャストの全員が、そのシーンのあらゆる細部が説得力のある、信 憑性のあるものになっていることを確認し、脚本に命を吹き込むために全力を尽くしたときに自然な雰囲気が生まれます。登場人物たちの振舞い や台詞が、現実離れしていたり、決まり文句に頼っているようなものではなかったため、俳優たちはうわべだけの演技という罠に捕らわれないよう最 善を尽くしてくれたのです。自然なものを追及すること自体が人工的な巧妙さに繋がってしまうリスクが実際にあります。 とても細く目立たない境界線があって、それを決して越えてはいけません。日常生活は冗長で退屈になり得ます。記録映画のように写実的なシー ンの追及が、日常生活のゆっくりしたリズムの再現になってしまわないようにしなければなりません。

Q.『別離』同様、子供たちの視線は重要ですね。

この映画では、子供たちは再び目撃者となります。大人たちが抱える困難な問題や葛藤を子供たちは観察するのです。そうした状況の複雑さを 子供たちは理解できません。そのため、この映画で彼らは『別離』同様、すべての出来事のぼんやりとした目撃者に過ぎないのです。大人が経験 する危機的状況に対する子供たちの感じ方は純粋に感情的なものとなります。この映画では、しかし、バーラムの娘のナザニンは他の子供たちよ り年長で、状況をさらに込み入らせることをしてしまいます。

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Q.登場人物のほとんどがソーシャルメディアでコミュニケーションを行います。それは、イランにおいて新しく勢いのある現象なのでしょうか?
世界のあらゆる場所と同じくイランでもソーシャルメディアは人々の生活の中で重要なものです。この現象は、比較的新しいものですが、それ以前 の生活がどんなもので あったか思い出す事が困難なほど、強い影響力を持っています。私は、個人的な体験から、ソーシャルメディアの影響は他 のどこよりもイランにおいて明らかだと確信しています。これはこの国の社会政治的情勢によって説明可能だと私は考えています。


Q.監督のいずれの作品においても、観客は最後にすべての答えを得られることがありません。決まった結末を観客に提供することを選択したくないのですか?
既にお話したように、私の作品に共通するこの特異性は意図的なものではありません。この多義性は、ほとんど私自身の多義性のようなものです が、脚本執筆段階で自然と発生するものです。そして、私がそれを気に入っていることは間違いありません。この側面は、映画と観客の関わりを、 上映時間後も続くほど、長持ちするものにしてくれます。その映画についてさらに思案する可能性を与えてくれるというわけです。『羅生門』を見る 楽しみは、まさにこの謎めいた部分にあります。多義性を、日常生活を取り扱った物語と組み合わせることは、面白さと難しさを兼ね備えたやりが いのある課題です。


Q.ジャン・ルノワールの「この世界で一番嫌なことは、誰にでも理由があることだ」という有名な言葉をご存知ですか?本作の登場人物たちのほ とんどに当てはまる言葉であるように思えるのですが...
その通りだと思います。誰しもが理由があって行動しています。たとえ意識していなくても理由はあるのです。ただ、その理由を列挙するように頼ん でも、誰もそんなことは出来ないでしょう。行動の理由は明白ではなく、簡単に要約できるようなものではありません。矛盾でいっぱいなのです。実生活では、自身の行動の理由を理解するのに何年もかかることすらあります。その人の過去に深く刻み込まれたことに関わる理由であるからで す。その上で、すべての行動がそれ故に正当化できると私が考えているのでは ないことも、はっきり述べておきたいと思います。正当化ではなく 理解なのです。理解は正当化を意味しません。誰かに行動を促した理由を知ることで、肩入れするのではなく、その人を理解できるというわけです。


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