空を見るクセ
今朝、なんとはなしに空の写真を撮って、あとから見返したら、何か…が楽しそうに翔んでいるように見えました。
富士山麓出身の私は、子供の頃から無心に、富士山を仰ぐと同時に、空を眺めるのがクセになっていました。
田舎なので高いビルなどはなく、家からも学校からも、遮るものはなく、
広〜い空と、身近などこにも豊かな湧き水から成る川や水路があり、
北北東に巨大な富士山、東には愛鷹山、西には里山、北西の彼方に天子ヶ岳、見えないけれど南に駿河湾…という豊かな景観に恵まれた土地に生まれ育ち、
当然、人よりも木々が多く、当時は舗装されていない農道も多くて草に埋もれており、虫や小動物の楽園。
豊かな命の息吹。自然が遊び友達です。
本を読んでる時以外は、意識せず当たり前に、富士山を中心に遠方の山と空をぼ〜っと眺め、野道を徘徊して楽しんでいました。
富士山を中心に、はるか宇宙まで見遙かせる故郷の空。
いろんなものが見えたし、雲や光から、さまざまな空想を膨らませていましたっけ。
「おうい雲よ ゆうゆうと馬鹿にのんきそうじゃないか」(山村暮鳥)
という詩がありますが、その感性は私には普通で、親しみ深いものした。
昼は青空や雲。富士山は雲に隠れていても、そこにあるという息吹は感じられる。
夜は星空。近年は富士山が明るすぎて、夜空も照らされています。
富士山の見え方や雲の具合で、天候や時節の予報をする農家の年寄りの話を聞いて育った自分は、この上なく幸せだったと、心から思います。
*
大学進学から東京へ出てきて、やはり驚いたのは、山がないことと、人工物と高いビルだらけなこと。
どこへ目を向けても、店のショーウィンドウと、人ばかり。緑も小川もない。
いっきに視界が、人工の色ばかりの至近距離になったので、あっという間に視力が下がりました。
山の代わりに、空に近く眺めるものは、新宿方面の高層ビルの森になります。
このビル群がなかったら、東京は山に囲まれていない、だだっ広い平野で、目を向ける景色がない…山で方角や距離を測っていた私は、世田谷などの住宅街で、よく道に迷いました。
もしかしたら高層ビルは、私のように山里からやってきた開拓者が、山の代わりに築き上げた人工の山であり森の幻像なのではないか…と思ったものです。
東京近郊でも、私はビルの間から見える空を眺めるクセは抜けませんでした。
歩いていても無意識に時々空に視線が向くし、
信号待ちの交差点でも、駅で電車待ちの間も、屋根の隙間から空を眺めます。
そして街路樹や、頑張って伸びる道端の草と、語る感性が強くなりました。
それらは、田舎では日常でそこにある生き生きとした友達でしたが、都会ではなかなか出会えません。
田舎での当たり前が、日常でなくなったために、
都会に来てからのほうが、故郷やフィールドワーク先での、空の色や自然のニオイを読み取る感覚が鋭敏になったのは、副産物といえるかもれしません。
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しかし、そんな私って、都会の人から見ると「変人」であり「キチガイ」に見えるらしい。
職場近くの交差点の信号待ちで、空を見上げている私を見かける誰かが必ずいて、
「どこのヤバい奴かと思ったらあいつだった(笑)」
と、中傷されまくり。
出身が地方の人にまで、ネチネチ嘲笑されます。
いっとき不思議に思って、空を見ることはないのかと聞いてみたことがあるのですが、
「フツーの人間は見ねーよ(笑)」とのこと。
じゃあ何を見てるのか…というと、別に何も見てない。
もしくは、交差点では信号機が変わるのを無心に見ていたり、周囲の人たちの服装や持ち物を眺めたり、女性は見知らぬ同性の化粧や髪型を観察してるそうで。
今は、スマホを見てるのでしょうけれど。
私は街では、人も店も景色として俯瞰しているので、見知らぬ人の顔など覚えていませんが、
ある知人と一緒に歩いた際、
「今の人、イケメンだったね〜♡」「今の人、ホクロが変わったところにあったよね」
なんて、すれ違った人全部のイケメン美人チェックを、こと細かくしていたのに驚きました。
ほとんど顔認証システムの精度での、瞬間感知!
その人からは、逆に、私が人の顔をほぼ見ていないことに、奇異の目を向けられました。
まぁ、好奇心の方向と観察力には、個性が出ますので、興味深いし、聞いていて楽しいですが、
たまに出会うタイプ…自分と違ってるのを理解できないといって、「気が変」とか「性格異常」とか「ヤバいヤツ」と、尾ヒレつきで嘲笑する人のほうが、私には理解できない。
狭い世界で、人のアラを見つけて喜ぶより他に、楽しいことを見つけられないのでしょうか。
空を見上げることの何が、そんなに「変」なのか、私にはまったくわかりません。
誰の迷惑にもなっていないと思うんだけれど。