ご神前奉納とは...
勾玉型真琴と出逢い、思いがけぬほどすぐ、そして唐突に、神前ご奉納の機会をいただけるようになりました。
本当に偶然のご縁によるお導きで、有難い果報と思っております。
自分がやるようになって、改めて気づくことですが。
「神前奉納」と称して、有名な音楽家のかたを招き、人を集める"催し"として行われる場合もあります。
その場合、勘違いされてしまいがちなのですけれど、
「奉納」は、神仏に向けて捧げるものであり、音楽と共に楽人も捧げ物です。
集う人たちの代表として、また、集う人たちから貢がれるものとして、ご神前に立ちます。
ですから、神社ならご本殿、お寺ならご本尊様に向けて、奉ります。
時々、人に尻を向けて...とか、よく見えない聞こえないと苦情がくることもあるようですが、
人に対する見世物ではないので、ご神事としては、人は意識しません。
むしろ、神仏に尻や背中を向けず、真向かいます。
奉納者の後ろに人々がいらっしゃる場合は、人々は奉納者ごしに神様に向かうかたち、
奉納者とご神殿の間に、集う人々がいらっしゃる場合は、人々は奉納者側を向かずご神前を向いて、共に祈ることになります。
人に向けた演奏は、また別のコンサートであり、神事においては直会のようなもの。
演奏者は、今度は神様からの"撤饌"になるわけです。
神が喜ばれたものを、今度は人が喜ぶ。
それは、神様と共に人々も喜び楽しみ合う、「祭り」になり、岩戸神楽さながらに、光を招く活性となります。
皆がよくご存じの有名なかたが招かれ、たくさんの方々が共感し喜ばれることで、神社も活性化し、より喜びが増幅される。
それが大切なことです。
正式にさせていただいたご神事では、写真・動画や録音などの記録はありません。
天河弁財天社にてさせていただいた際も、かろうじて、掲示の1枚のみ、残していただけました。
私は能楽も嗜んでおりましたので、能舞台にも何度か立たせていただいていますけれど、
神聖な舞台で歌舞音曲と一体となって立つと、自分自身が、天と地のはざまに立つ「柱」になる感覚で、自我としての意識は遠ざかります。
それまでに身についたものが、無意識のうちに表現となり、体を動かす。歌がこぼれる。
...この感覚が、なにより至福です。
私自身の技能や器量がどうこう、ではなく、
私がこれまで培ってきたものが、お役に立つのであれば。
真琴を得てほどなく、機に恵まれたのも、琴の絃音を求めていらっしゃる、大和風土の神々のお求めかと思う次第です。
公に、神社様か崇敬者様からのご依頼で、拝殿や神楽殿で、参詣の方々の前、ご神事としてさせていただくことも有難いですけれど、
それまでのライフワーク・研究と和歌を読むための古地巡りにも、今は真琴と共に訪れ、ひっそりと弾かせていただく自主奉納も常にいたしております。
お導き、お求めがありましたら、叶う限り参り続けたく思います。