旅記録⑤逢坂の関跡・関蝉丸神社上社
最初に、蝉丸神社の景色を俯瞰しつつ、
琴を奏で即興で歌った動画を置きます。
三首歌っていますが、三首目の蝉丸以外は、即興です。
写真編集はあとからやりましたが、
音源は、お社の前で奏でたままの音です。
旅先の聖地の波動に乗せた響きを伝える、記録するために、
琴と共に旅しています。
…さて、道行記録はここから。
蝉丸神社から、次の関蝉丸神社上社へ向かいます。
しかしこの道、さすがに昔からの要衝だけに、現代でも大変に交通量が多く、その多くが大型車ばかりなので、何度も走行車と接触しそうになり、歩いていて、時々恐怖を感じました。
というのも、気づいたのは終着点に近くなってからでしたが、
この道路、歩道が片側のみで、京都側から大津へ向かって右側にしかなく、
でも、史跡や神社はすべて左側にあるのです。
途中で渡れるところも少ないし、私のように、初見で史跡巡り目的に歩くなら、歩道のない側を歩くのが自然。
けれど、そちら側は狭〜い自転車レーンの黄色のラインはあっても、ここを自転車で走ったら命の危険を感じるくらいスレスレの印象。
ともかくも、気持ちだけでも身を細く縮ませて、史跡を目指しました。
昔は走井餅茶屋があったろうけれど、
今は、うなぎ屋さんがあるくらいで、ちょっと一服できるような、憩えるところがない。
車以外の人通りが、本当にほぼないから、ここは今は通過地点でしかないのだと実感します。
逢坂の関・逢坂山の和歌といえば、百人一首のこの三首。
ところどころに歌碑や看板が置かれていました。
途次に、逢坂の関跡公園があり石碑がありました。
関跡が正確にどこかはわからないらしいですが、
ここが逢坂山の峠の境ということでしょう。
交通量の多い往来を見ていると、
まさに今も、
「行くも帰るも」「知るも知らぬも」
行き交う趣そのまま。
かつては徒歩ですから、すれ違う人々、茶店や井戸でひと息つく人たちの、袖すり合うも…の、一期一会、たまさかの縁もあったやに思われます。
そして、時に戦場ともなる時代の流れにおいて、
都に入り、そして出ていくドラマがあり、
どれだけの有名無名の人たちがここを通ったかに思いを巡らせます。
今、自分もそのひとりとなる心持ち。
さて、峠をはさんで、京都の外・大津側に、関蝉丸神社上社が現れました。
それにしても、ふと思ったのですが、
能楽『蝉丸』では、盲目ゆえにここに捨てられ、源博雅が庵を建てて庇護し、秘教伝授を願って通った、わび住まい…という印象ながら、
まぁ神社が跡地ではないだろうから、街道沿いに住んでいたわけではなかったかもしれないけれど、
人の往来が近い、わび…というには賑やかな場所に、蝉丸はいたのだなと、
それまでの『蝉丸』の印象が変わった気がします。
「行くも帰るも別れては」の様子を眺めていたのではという推測から、全盲ではなく弱視だったのではと言われてもいるし、
視界が効かないから、行き交う往来の音や会話を、徒然に聞いていた…そんな様子を思い浮かべます。
さて、次の関蝉丸神社下社へ向かう途次、
旧東海道戦の逢坂山トンネル旧跡がありました。
今は使われていない古いトンネルって、なんとなくゾッとして怖いですが、
ここは入り口だけだし、暗い印象はありませんでした。
古い鉄道の構造って、重厚で、独特の風情があります。