怨むより忘却
ちょっと思いついたことを、書き残しておきます。
私は田舎の出身で、子供の頃は、そんな時代でもないのに、なんだか憲兵みたいに威圧的で、一方的な概念を教育しようとする教師が、けっこういました。
体育大学出身の教師が多かったせいかもしれません。感受性や個性というものを嫌い、一律に同じ方向をみて、同じ行動をすることだけを尊重される。
文系資質の私は、黙って大人しくしていても、何を考えてるかわからない不審な子供として、徹底的に嫌われていました。
それがひたすら怖かったので、成長しても社会に出ても、対人では、まず威圧されるかどうかを気にしてしまい、オドオドして見えたのかもしれません。
行く先ごとで、必ず似たような"威圧タイプ"や、人を蔑み利用するタイプの標的にされました。
そういうのって、集団で拡大し、次第に良心がマヒしてエスカレートしていきます。
思い込みだけの濡れ衣や、気に入らないというだけの村八分、無能よばわり。
学校も仕事も、そこに属する限り逃げようがない。学校は時が来て卒業すれば離れられますが、
職場は生活に関わりますし、自分なりに責任や自負もあれば、自分から辞めるという選択肢は難しい。
しかし我慢の挙げ句、勝手な印象操作や、濡れ衣めいた悪評、上司の保身など、よくわからない理由で強制解雇というのも、今の世の中、ありがちなことです。
さまざまな無念と共に私が思ったのは、とりあえずここを節目とした場合、
もう二度と、来世があるなら未来永劫、嫌なことに関わった人々とはあらゆる縁で関わりたくないし、思い出したくもない、ということでした。
怨むのすらゴメン。呪いをかける価値もないですからね、あちらは。五寸釘打つ労力も惜しい。
相手の不幸や死や滅亡を願うのは、いわゆる穴ふたつ、同じ次元の地獄に共に落ちることですし、縁が切れないことでもあり、
そこまで相手に永劫に呪縛されるのはゴメンです。
(ひとりふたりではないですし)
あちらも、私の被害妄想による逆恨みとしか思っていないでしょうし、命かけるだけ損です。
しかし忘れたくても消し去りたくても、嫌なことほど忘れられません。
それはむしろ相手にかけられた無意識の呪縛のようなもの。
そこで、気休めでもなんでもいいので、自分なりの儀式として、私がやったのは。
「濡れ衣晴らし」と「悪縁切り」の祈念でした。
不思議なもので、それと知らずに京都へ用事があって行ったら、
たまたま初めて訪れたお寺が「濡れ衣晴らし」のご利益のあるところでした。冤罪に関わった歴史上の人を供養するお寺だったので。
まったく違う目的の拝観で参ったのに、縁起にその説明を見た瞬間、
...今まで誰も味方も、心を打ち明ける人もいなかったけれど、ここの仏様は聞いてくださる...
ふわ~~と軽く、救われる気がしました。
ドブに突き落とされドロドロのままの体を、ここに来て、洗い清めていただいたような心地でした。
お寺でこころゆくまで祈りを捧げた後、
次に、こちらは意図的に、有名な悪縁切り良縁結びの神社へ。
こちらも、冤罪や自分を邪魔物とみなしたり利用しようとする者たちにより、身に追わされた災厄に苦しみ抜いて亡くなられた尊いかたをお祀りするところ。
こちらでは、折れた櫛を供養していただく行事を行っているのですけれど、櫛は、黄泉の国でイザナギ命が妻に櫛を投げた神話から、投げ櫛は夫婦親子の深い縁までも切る、とされています。
私もちょうど、櫛が割れたところだったので、一度櫛を、縁を切りたい人々を思い浮かべながら投げ捨ててから、納めさせていただき、
それから型通り、縁切り縁結びの塚を潜りました。
<諸々の禍事 罪汚れを 祓い清めたまえと 祈(の)る>
祓詞そのものです。
人も罪も、一切のよからぬものから、これでスッパリと縁を切り、新しく白いところから、いい流れのご縁を得られて、次に向かえますようにと...
おかげさまのご利益あって、
幸い、異業種で打ち込めて夢中になれる仕事に出会え、新しい環境で、未知の技術経験を重ね、必死で働くうち、
何年かたって気づいたら自然に忘れていられました。
本当にもう、あの人々の名前も顔も、よほど意識しなければ思い出せなくなったのは幸いです。
忘れられるくらいなら軽いものだったんだろう...と思われるかもしれませんが、あまりに酷いと記憶障害も起こりますからね。思考がシャットダウンを起こす。
それに、新しく価値あることを記憶するために、価値のない邪魔なものから消えていくような気もします。
よく、「許す」というスピリチュアル的な思想がありますが、許す許さないより、一番救われるのは「忘却」だと思います。
受けた恩は決して忘れませんが、
尊大な人から受けた悪行は、その人の存在ごと、ほぼ忘れていられることが、どれだけ平和かと思います。
トラウマはさりげなく残っていますけれど、時の流れに身を任せるが如く、払拭できる機を得られるのを待つことかと。
あえていい経験をするのも難しいけれど、嫌な経験も、しようと思ってできることではない(したいと思いませんが)から、
すべてを「過去の経験」として、いいこと悪いこと、活かせること、二度と嫌なこと、自分が人に対してすべきではないこと、人を見る目、諸々、
自分の財産と思えるように、今・これからに活かせていけたらいいなと思います。
とりあえず私は、呪うより怨むより、
悪縁切りと祓い清めにて、救われました。
加えて、その場から離れれば、二度と関わらなくて済む状況でいられたのが、幸いでした。
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