SNSは、隣の芝生
自分自身がうまく進めていない時、心が停滞した気分の時、ついつい、なんとなくFacebookやブログなどで、人様の記事をつらつら見つつ、
なんらかの情報収集と同時に、知人が今なにをしてるかとか、誰かの書き込みの中に、共鳴や鼓舞されるような言葉はないかとか、探してしまっていたのだけれど。
それがそもそも間違いだということに、薄々気づいていた。
SNSは、隣の芝生と同じ。
キラキラと楽しそうだったり、私にはない恵まれた環境や経験が見えたりするけれど、
表に見えているのがそこだけであって、誰しもがそれぞれに目に見えぬ様々を抱えて、日々を過ごしつつ、
そのうえで、芝生が綺麗に見えるように励み、心を配って発信しているのだと思う。
もしかしたら逆に、私の何かを見て「いいなぁ」と思っている人だって、いないとも限らない。
それによって、私自身には理解できない次元での、羨みや憧れを抱かれたり、妬みや恨みを向けられることだってある…
自分とは違う世界観や考え方を知るのは、学びにも刺激にもなる。
でもそれによって、自分の軸がグラグラしたり、自分にないものばかりに目がいって、劣等感や欠乏感に駆られるのでは、意味がない。
隣の芝生の青さや、窓辺の豊かな景色に刺激を受けつつ、
それに揺さぶられることなく、自分の庭や、部屋の中を、自分流に見つめ直して、「私の景色」を整えていきたい。
お互いの庭の花などを眺め合いながら、時に語り合い、情報交換できるのが、オープンなSNSの利点なのだと思うし。
考えてみれば、私は誰かを羨ましいと思えるほどの特別な何者でもない。
今がゼロ地点と思えば、ただ自分にできることは自分オンリーと割り切って、誰の目も気にする必要もない。
気楽にいこう。