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汚れた花園の浄化

序章:静かな夜の始まり


夜が降りる――
都市は息を潜め、
月だけがすべてを見ていた。

冷えた窓ガラスが曇り、
風がカーテンを揺らすたび、
静寂の中にわずかな音が滲む。


部屋は灯りを失い、
椅子には男が座っていた。
背筋はまっすぐ、
首はうなだれ、
その顔に浮かぶのは――何もない。

影が壁を這い、
月光が男の背中に触れる。


時間は止まった。
時計の針は、
最後の一秒を抱えたまま。

何かが失われ、
何かがそこに咲いた。


机の上には一枚の紙。
赤いインクが滲み、
冷えた夜の空気に言葉を刻む――

「夜が見ていた
 影が摘んだ
 無言の椅子に
 咲く花ひとつ」


風が、紙を揺らす。
カーテンがわずかに開き、
外の通りが覗く――
人影はなく、
ただ夜だけが、
冷たく眠り続けている。


月は知っている。
だが、月は何も語らない。

第二章:消えゆく花


夜は深まる。
風は息を潜め、
月だけが冷たく、静かに街を照らしていた。
影は伸び、足音は残らない――


二つ目の花:少女

部屋は小さな箱庭のように整っていた。
窓辺には小さな靴が揃えられ、
その先に広がるのは、夜の深淵だ。

ベッドの上、少女の人形がぽつりと座る。
開かれた絵本――
言葉は途切れ、
物語の続きを語る者はもういない。

月明かりが部屋を満たし、
壁に映る影が揺れる。
何かが、ここから摘まれた――


机の上には詩が残されていた。
赤いインクが、まるで泣き声のように滲んでいる。

「夜の花よ、月の手に揺れ
 小さな夢を摘む時だ。
 窓辺の靴は語らない――
 影だけが揺れている。」


「咲かぬまま、
 穢れるよりも――」

声なき言葉が、月明かりに溶ける。


三つ目の花:老女

時が止まった部屋には、
冷えた紅茶の香りだけが残されていた。

椅子は倒れ、
壁の時計は止まり、
影はまるで死者のように部屋の隅で眠っている。

老女がかつて手にしたろうそく――
炎は消え、
過ぎ去った時間だけが嘲笑うかのように漂う。


机の隅に置かれた詩。
紙には、乾いた文字が刻まれていた。

「時間は枯れた、過去を閉じて
 花は静かに土へ還る。
 揺れるカーテンは風の声――
 もう、語る者はいない。」


「止まった時を、
 動かす価値などない。」

影が呟いたように、部屋は沈黙の中へ沈んでいく。


四つ目の花:若い男

教会の広場は、
鐘の音を忘れたまま眠っていた。

泥にまみれた黒いコートが
石畳の上に落ちている。

月明かりが、
その上に光の刃を落とす。
誰もいない広場、
ただ風だけが冷たく通り過ぎる――


コートの上に詩が置かれていた。
まるでそれが、彼の罪を覆うように。

「赤き花は語らない。
 罪の手が咲かせた影。
 広場の石は何も言わず、
 ただ月が数えるだけ。」


「信じたものは何だ?
 影の中で、光を見失った者よ――」

鐘が鳴らぬ教会に、
夜が静かに祈りを葬る。


五つ目の花:学者

書斎の空気は重く、
閉じた窓が世界を拒絶していた。

机の上には乾いた筆、
インク壺の底は枯れ果てている。

積まれた本、埋もれた知識――
そこに言葉はもうない。
彼は最後に何を書こうとしたのか?


ページの間に残された詩があった。
紙面には筆跡が震えていた。

「言葉の死を迎えた者よ、
 影はここに花を落とす。
 筆は折れ、ページは閉じ、
 月が最後に灯を消す。」


「言葉は意味を失い、
 書く者もまた――意味を失った。」

部屋の静寂が全てを飲み込む。


月は照らす――
冷たく、静かに。

花はひとつ、またひとつ、
影の手に摘まれ、
夜の底へと沈んでゆく。

誰も語らず、誰も気づかない。
だが、次の花が、
今夜も揺れている――

第三章:鏡の中の真実


月は静かに見下ろし、
鏡の破片が床に散る――
光と闇が、裂けた瞳に刺さるようだ。


鏡の中に私がいる。
だが、それは私ではない。
無数の顔が並び、
笑い、嗤い、問いかける――

「五つの花を摘んだ理由を、
 お前は本当に知っているのか?」


「最初の花――あの無気力な男。
 時間を浪費し続けた、
 ただ座って呼吸するだけの花。
 空っぽの眼、途切れた鼓動。
 私は終わらせた――
 美しく、静かに。」

「違う。」
鏡の中の影が笑う。
「終わらせたのではない。
 お前が奪ったのだ、
 お前自身から。」


「二つ目の花――少女。
 純粋な瞳、物語の続きを知らぬまま、
 彼女は穢れる未来を待っていた。
 だから私は摘んだ。
 美しいまま、時間を閉じたのだ。」

遠く、子供の笑い声が部屋を裂く。
鏡の向こうで人形が揺れる。
「穢れる前に?
 それとも、
 穢したのはお前ではないか?」


「三つ目の花――老女。
 過ぎた時間にしがみつき、
 止まった時計にすがる姿。
 もう枯れた花だった。
 だから風を吹かせ、
 私は彼女を還したのだ。」

影が床を這い上がる。
「時間にすがっていたのは、
 本当はお前だろう?」


「四つ目の花――信仰に縋る男。
 教会の影で祈る声。
 だがその信仰は仮面だ。
 光の向こうに罪を隠し、
 見ようとしない偽者だ。」

「仮面を剥がした?
 お前こそ何を隠している?」
影が囁く。
それは私の声だった。


「五つ目の花――学者。
 言葉を止めた筆、
 枯れた知識。
 書くことを諦め、
 ページは閉じられた。」

私の手のひらが震える。
インクは乾き、
赤い雫が机に滴る。

「言葉を閉じたのは、
 奴ではない――
 お前だ。」


鏡の中の影が、
ついに私を指さす。

「お前は誰だ?
 摘まれぬまま腐り、
 咲くことを恐れた花だろう?」


私は叫び、
震える拳で鏡を叩く。
割れた破片が飛び散り、
床に咲く赤い花びらのように光る。

だが、その破片ひとつひとつが私を映す。
笑い、泣き、叫ぶ――
すべて、私だ。


「最後の花は、お前だ。」


手が勝手に動く。
詩を書く手が止まらない。
赤い文字が踊り、滲み、
影を刻むように震える。


「影は咲く 影は問う
 咲かぬ花は誰だ?
 罪の手は鏡を裂き、
 花は揺れて 夜に消える――」


私は笑い続ける。
高く、鋭く、
それは狂気そのものだ。

笑い声は部屋に満ち、
破片は私を無数に映し、
影が揃って嗤い続ける――

「最後の花は、お前だ。」

第四章:月が照らす最後の夜


鐘が鳴る――
深く、重く、
夜の底から滲む音が、
都市の静寂に裂け目を穿つ。


広場は白い月光に染められ、
石畳は冷たく、
まるで広がる無数の墓標のようだ。

私は足を踏み出す。
影が足元に絡みつき、
声なき声が私に囁く――

「次の花は、お前だ。」


「そうだ……」
その言葉に頷き、
震える足で、ゆっくりと歩き出す。


広場の中心に立つと、
私は空を仰ぐ。
月が高く、孤独に浮かび、
私を見つめている――

まるで私の罪を数えるように。


「浄化だ……」

声が震えた。
だがその言葉はどこか、
掠れている。

私の指先から、
冷たい雫が滴る。
赤い花びらのように、
石畳の上で広がる――


「咲かぬまま腐る花を、
 私は救った。
 意味を与え、終わらせた。」


だが――
私の中で、
もうひとりの私が笑う。

「救った?
 お前はただ、
 その花に、自分を映しただけだ。」


「私は……咲かなければならない。」

その声は震え、
脈打つ音が胸に広がる。

何かが咲く――
私の中で、音もなく。

それは、心臓を掴むような痛みだ。


広場に紙を広げ、
震える手でペンを握る。
この手は、五つの花を咲かせた。
無意味な命を、終わらせた。

だが――
最後の花は、
私自身だ。


ペン先が紙を裂く音が、
夜の底に静かに響く。
言葉が、
影の中で咲いてゆく――


「夜に還る 花の庭
 影は笑い 風は歌う。
 最後の花は、私だ――
 咲いて、散る。」


ペンが音を立てて落ちる。
私は足元に広がる影を見る。
それは、まるで花だ。

静かに咲き、
静かに揺れて、
やがて私を飲み込んでいく――


「これで終わる……
 私も、浄化される。」


目を閉じた瞬間、
まぶたの裏に月が焼きつく。
その光は、
私の影を、永遠に縫い止めた。


鐘が鳴る。
一つ、二つ、三つ――
音は遠のき、
夜の闇へと沈んでゆく。


冷たい風が広場を吹き抜ける。
石畳の上には、
赤い雫と、落ちた詩の紙片だけが残る――

誰もいない、ただの夜。
ただ月だけが見ている。


都市は目を覚ます。
夜は終わる。
だが風はまだ冷たい。
それはまるで、
次の影を探しているかのように――

終章:残された詩


朝が来た――
灰色の光が都市を覆い、
夜の気配は静かに姿を消す。

冷えた石畳の上に、
一枚の紙がひらひらと舞う。
風がそれを運び、
やがて誰かの足元で止まる。


「夜に還る 花の庭
 影は静かに眠るだろう。
 だが花はまだ咲くだろう――
 風が運び、月が見守る。
 咲く手は誰だ?
 それはお前か? それとも――」


人々は通りを歩き、
誰も立ち止まることはない。
だが、その詩を拾い上げた小さな手があった。

指先が紙をなぞる――
赤いインクは、時間と風に滲んでいる。
だがその言葉は、なお鮮烈だ。


拾い上げた者は、
それをじっと見つめ、
何かを呟く――
それは囁きか、笑みか、涙か。


風がまた、紙を揺らす。
月はどこかで静かに見ている。
何も語らぬまま、
詩は新たな手へと渡る。


「夜は終わらぬ。
 花は枯れ、
 影は咲く。
 誰の手が、
 次の花を摘むのだろう――?」


広場には再び静寂が戻る。
だが、その静けさの中に、
何かが潜んでいる。

通りを行く者たちは、
今日も夜のことを忘れている。
それでも――

風は吹き続ける。
影は潜み続ける。
次の花が揺れる音が、
どこかで確かに聞こえた。


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