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【短編小説】深淵に戯れる饗宴

 夜の闇が濃い藍色のヴェールを下ろしたころ、一室に集った者たちは、いわゆるクトゥルフ神話TRPGと呼ばれる遊戯の準備を整えていた。
かすかな蝋燭の光が放つ揺らめきが、長い影を壁に映し出す。
そこにはやや古びた書物や何種類ものダイスが卓上に散りばめられ、地図やメモが無造作に積み上げられていた。
「さて、皆も揃ったことだし、始めようか」
軽やかながら低い声がそう告げると、卓を囲む者たちは互いに視線を交わし、それぞれ手元のキャラクターシートを改めて確認した。

 部屋には湿った空気が漂い、床板の隙間からは冷たい風がかすかな音を立てて吹き込んでいる。
窓の外には月が昇っているらしく、淡い光がカーテンの切れ目をかすめて細い帯のように差し込み、その中に舞う埃の粒がまるで小さな生き物のように浮かび上がっていた。
卓の中央にはひび割れたガラス瓶が置かれ、中には不気味な色合いの液体が揺らめく。
それを視線の端に捉えながら、卓の主であるゲームマスターが一枚の紙をひらりと広げる。
「では――舞台は海沿いの街としよう。
濃い霧に覆われた晩、一隻の小さな漁船が行方不明となった。
君たちが演じる探索者たちは、謎を解くために船着き場へ向かうところから始める」

 ゲームマスターの語り口はどこか異様な力を孕んでいるかのようだったが、卓を囲む者たちはむしろ心待ちにしていたという様子で、深くうなずきながらダイスを手になじませる。
やがて物語はゆっくりと動き始め、冷たい潮風に立つ桟橋や、さびついた鉄柵で囲まれた倉庫が次々と脳裏に描かれていく。
「倉庫の扉は固く閉ざされているようだが、どうやら中から海水の滴る音が聞こえる。
まるで、そこに何かが潜んでいるかのようだ」
その囁きに呼応するかのように、彼らの一人が静かにダイスを振った。

 ピタリと止まった出目を確認したあと、淡々とした宣言が続く。
「扉をこじ開けるには成功…だが、同時に中に溜まった暗い水が足元に流れ込んでくる。
血のような色をしていて……」
その先の言葉に、卓を囲む者たちは微かな身じろぎを見せる。
だが、その姿はあまりにも落ち着いていて、普通のプレイヤーならもっと言葉を交わしたり、恐怖を演技してみせたりするはずなのに、その場の空気は不思議な沈黙に包まれていた。
狂気への期待か、あるいは淡泊な冷徹さか――そのいずれにも似つかない雰囲気が漂っている。

 次の探索が進むにつれ、彼らのキャラクターが不気味な足跡を追い、濃霧に包まれた波止場で名状しがたい生物の影を見た、という場面になる。
「ここでSAN値チェックを」
ゲームマスターの提案に、全員が静かにうなずいてダイスを振る。
その響きは空気を鋭く裂くような乾いた音ではなく、どこか湿った響きを帯びていた。
胸にすくうひやりとした恐れが、しかし彼らの口から感情的な叫びとして漏れ出ることはない。
あまりにも静かに、そして粛々と恐怖を受け止めているように見える。

 やがてセッションは一つの転機を迎える。
登場人物の正気度が大きく削られ、誰かが幻覚や狂気を垣間見るという定番の展開。
探索者のひとりが、霧の向こうで何か巨大なものが息づいているのを感じ取り、それが脈打つように迫ってきた瞬間、絶叫を上げながら地面に倒れ込んだ。
その様子を、卓の周囲の者たちは目を細めるようにして静観している。
驚愕の芝居ではなく、まるで“この瞬間を心待ちにしていた”とでも言わんばかりの穏やかな気配さえ感じさせる。

 そしていよいよ物語はクライマックスを迎えた。
霧の奥にある廃墟の礼拝堂へと足を踏み入れた探索者たちの前に、長く閉ざされていた地下への扉が姿を現す。
「この先には、かつて異形の神々を祀っていた痕跡があるかもしれない。
どうする?」
ゲームマスターの問いかけに、それぞれが自分のキャラクターの性格や目的を口にしつつ、最後の判定を行う。
そして、おそらくは多くの者がこの終わりで狂気の深みに堕ちるだろう――そう誰もが悟りながら、淡々とダイスを振るのだった。

 プレイ時間は長きに及び、蝋燭が短くなったころにセッションはついに結末を迎える。
異界の気配が満ちる地下祭壇で一人は命を落とし、もう一人は生きながら永遠に正気を失い、ある者はかろうじて外の世界に戻るも心には消えぬ禍々しい刻印が残る。
ゲームマスターが書物を閉じ、「今宵の戯れは、これで終わりとしよう。
いい幕引きだった」と静かに言い放つ。
そこには残酷ともいえる冷たさと、同時に深い満足感が漂っている。
一見すれば、同じゲームを嗜む仲間たちのやりとりのように見えなくもない。
だが彼らの表情には、どこか別次元の感慨がうかがえるのだ。

 全員が散らかったダイスやシートを片付け始めるころ、外からは鳥の囀りがかすかに聞こえていた。
どうやら夜明けが近いらしい。
「また次に集まるとしよう」と言う者がいて、残る者たちも無言のまま同意する。
そうして、しめやかな風が吹き込む中、彼らはそれぞれ自分の外套や仮の荷物を手に立ち上がっていく。
その姿も、何かしらぎこちない。
人の形を成しているようでいて、重心の置き方や関節の動きが少しずつずれているように感じられる。

 部屋の暗がりには、まだ熱を失わぬままの燭台が一つだけ残されていた。
最後の者が扉を開け、わずかな曙光が差し込んだ時、ちらとその姿が垣間見える。
黒いローブの裾から覗く爪先は、まるで甲殻を帯びた甲虫の節足のように反り返っており、肩のあたりには透明な膨らみの内部で液状の何かが蠢いている。
さらに、顔とおぼしき部分には並んだ眼球の形が不規則に配置され、視線が定まらぬまま幾重にも明滅していた。
それを眼差しと呼べるのかどうかさえも疑わしい。
けれど確かに、人に許されぬ理をまとった存在の証そのものを宿している。

廃墟じみた屋敷に響く彼らの足音は、床下でひしめく闇へと溶けていき、最後に残ったのは人ならざる臭気と、不吉なまでの静寂だけ。
崩れかけた壁に沿って這い出した奇妙な影が、名状しがたい意志を持つかのようにふわりと揺れる。
その奥では、鱗や甲羅、触手や膜を思わせるものが互いに擦れ合い、粘着質の音を微かに立てていた。

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