ダジャレ殺人事件 ~ 耳を蝕む言葉の牢獄
序章:血に濡れたデスク
重たく湿った空気に包まれたオフィスの一角で、渡辺健二は血溜まりの中央に立ち尽くしていた。
いつもは散らかった書類とパソコンだけが置かれた山田義男のデスクが、暗い赤色の液体に染め上げられている。
半ば崩れ落ちるように横たわる山田の胴体は、小刻みに震えていたが、やがて不自然な角度で動かなくなった。
夕刻の蛍光灯の下、渡辺の足元から鼻を突くような鉄の匂いが立ち上る。
「渡辺さん……何があったんだ!」と誰かが言う。
声の主は若い同僚の一人だったが、その瞳は驚愕と恐怖に見開かれていた。
彼の周囲にも、上司の断末魔を聞きつけて集まってきた社員たちがいる。
しかし一人として近寄ろうとはしない。
渡辺は大きく広げた両手のひらを眺め、そこについている血の感触から意識を逸らせようと瞼をきつく閉じる。
これほど耳鳴りがひどいのは初めてだった。
まるで天井から巨大な鈍器が落ちてきて頭を叩き続けているかのようだ。
いっそ気を失ってしまえればどんなに楽か、とさえ考える。
けれど現実は容赦なく、山田の横に倒れた椅子のきしみと同僚たちの絶句した息づかいを突きつけてくる。
数分もしないうちに警察のサイレンが社内のざわめきをさらに増幅させた。
オフィスのドアを開けて入ってきた刑事たちは、血の臭いと異様な静寂に一瞬息を呑んだようだった。
先頭に立つ佐伯刑事は、淡々とした視線で周囲を見回し、何が起きたのかを冷静に整理しようとしているのがわかる。
その後ろにいるのが坂口刑事で、短く刈り込んだ髪と鋭い目つきが特徴的だ。
彼はわかりやすく顔をしかめ、よほど衝撃を受けているのだろう。
「あなたがやったんですか」と佐伯刑事が渡辺に向かって問いかけた。
その声に、渡辺はようやく動かせるようになった身体をぎこちなく振り向かせる。
口を開こうとするのに言葉が出てこない。
何かを吐き出そうと喉が動くが、しびれた舌はただ乾いた息しか吐き出せなかった。
自分の手が何をしたのか、頭では理解しているはずだ。
けれど心臓から送り出される血流が混乱を煽り、言葉と理性を奪ってゆく。
その様子を見かねた坂口刑事は、すぐさま渡辺の腕を掴んで手錠をかけた。
金属が擦れる音が、オフィスの暗い照明の中に残酷に響き渡る。
他の社員がこわごわと後ずさる中、渡辺はまるで人形のように連行されていく。
頬に冷たい汗が垂れ、足がもつれて転びそうになっても、佐伯刑事の無表情な横顔がそこにあった。
「どうして殺してしまったんですか」と彼はもう一度静かに問いかける。
その声だけが妙に鮮明で、神経を逆撫でするように耳に染みついた。
第1章:取り調べ室にて
硬質な金属製の扉が重々しく閉まる音に合わせるように、渡辺健二は簡素な椅子に腰を下ろした。
一面の壁には灰色のペンキが荒く塗られ、その冷たい色が視界を奪う。
細長い蛍光灯がしんとした空気を切り裂くように白い光を落としているが、眩しさよりも苛立たしさが胸を突き上げてくる。
「顔色が悪いようですね」と言いながら、佐伯刑事が隣の席に座った。
低く落ち着いた声には、感情の起伏を最小限に抑える職業的な作法が感じられる。
テーブルの向こうでは坂口刑事が腕を組み、苛立たしげに足を動かしている。
視線が渡辺の衣服に向かい、そこにこびりついた血痕をまざまざと見つめていた。
「しゃべれるか」と坂口刑事が声を荒らげるように促す。
渡辺は顔を伏せたまま、薄汚れたコンクリートの床を凝視していた。
すぐ隣にいる佐伯刑事の呼吸まで感じられそうなほど距離が近いが、部屋全体の空気はどこか突き放すように冷たい。
渡辺の鼻腔には自分の血の匂いと、他人の血の匂いが交じり合って残っていた。
事件現場で感じたあの鉄のような刺激が、まだ嗅覚の奥でゆらめいている。
いつものオフィスの匂いとはかけ離れたそれが、自分自身を蝕んでいるようで息苦しかった。
「ここに来るまで、何かを飲んだり食べたりしましたか」と佐伯刑事が問いかける。
渡辺は首を小さく振り、唇を震わせる。
声にならない囁きが何度も喉を通り過ぎるが、思考がそこに追いつかない。
坂口刑事は苛立ちを隠さず、「殺人があったんだ。あんたは被疑者なんだよ。なぜやった?」と一気にまくし立てた。
その目は理解不能な行為を前に、どうせこいつはろくな理由を話さないだろうという疑念に満ちている。
渡辺は震える指先を自分の膝の上に置き、佐伯刑事の方へゆっくり顔を向けた。
鼻筋が通った痩せぎすの顔は、脂の抜けたような肌の色をしている。
血走った眼の下に深いくまがあり、ある種の疲弊がにじみ出ていた。
「……ダジャレのせいで」
その一言が唇からこぼれるまで、何度も息を詰まらせながら声を出そうとした。
ぽつりと落ちた言葉が小さすぎて、坂口刑事は「は?」と怪訝な声を返す。
佐伯刑事はわずかに眉を寄せたまま、「ダジャレ……?」と繰り返した。
渡辺の肩が痙攣したように一度大きく揺れた。
どこからどう言葉を紡げば伝わるのか、まるで見当がつかない。
それでも自分がここまで落ちてしまった原因の発端を説明しなくてはならない。
うまく説明できずとも、あの耐えがたい言葉の連鎖と、そこに執着してくる誰かの姿だけは頭から離れない。
椅子の背にもたれかかりながら渡辺は小さく息を吐き、瞼を閉じた。
「…上司の、寒い冗談ばかりで」
まるで自分に言い聞かせるように呟いた声を聞いた坂口刑事は、苦々しげな面持ちになる。
また大声で何かを言いそうだったが、佐伯刑事が制するように腕を伸ばした。
そのしぐさには、まずはじっくりと動機を解きほぐしていくという意志が感じられる。
「すべて教えてほしい。何があったんですか」
佐伯刑事の声は限りなく穏やかだったが、渡辺にはそれがどうにも遠い響きに感じられた。
声の震えを押し込むように、彼はガリガリと頬をかいてから言葉を捻り出そうとする。
「一人でいるのが好きなわけじゃないんです。
だけど、いつも言われるんです。
『もっと笑え』とか、『ちゃんと反応しろ』とか」
その声に宿る後悔とやるせなさは、今しがた罪を犯した男の姿には見えないほど弱々しく聞こえた。
坂口刑事は「くだらない冗談にリアクションを強要された程度でどうして殺人に至る?」と追及する。
まるで答えがわかりきっているという調子だ。
渡辺はこわばった拳を握り締め、それをテーブルの上に置いた。
血で汚れたシャツの袖口が、何度も拭い取ろうとした跡を残している。
「……わかりません。
だけど、毎日が地獄だった」
かろうじてそう言い切ると、彼はまぶたの裏に焼きついた光景を追いやろうとするかのように目を強く閉じる。
取り調べ室の照明が、その表情を淡々と照らしていた。
佐伯刑事は視線を落としながらペンを転がし、坂口刑事は肩の力を抜いたように小さく舌打ちをする。
小さな机をはさんだ三人の距離は、ごく近く見えるにもかかわらず、閉ざされた溝があるかのようだった。
やがて佐伯刑事が努めて柔らかな口調で言う。
「他にも話せることはありますか」
渡辺は無言のまま、肩に残る痺れをさする。
自分の口から出たダジャレという言葉をもう一度思い出しては、そのあまりに些細な響きに居心地の悪さを覚える。
けれどそれが何かを歪ませ、凶器に手を伸ばさせるまでに追い込んだことは事実だった。
暗くくすむ壁に目を向けると、そこには灰色の影がすうっと伸びている。
その輪郭のかたちは、自分にも誰にもはっきりとわからない。
第2章:静かなる毒 – オフィスの風景
午前の社内放送が終わるころ、渡辺健二はいつもの席でこつこつとパソコンのキーボードを叩いていた。
室内には静かなエアコンの風が流れ、規則正しい打鍵音が響いている。
書類の山や雑然としたデスクの上は、どこか無機質な光に包まれていた。
「おい、みんな揃ってるか。
‘ジム’行ったか?
俺は ‘事務所(じむしょ)’ にいるから、わざわざジム通いなんていらねえんだよ、なんちゃって」
いつものように山田義男がオフィスに入ってくると、周囲の部下たちは反射的に笑みを作り、ほとんど儀礼のように拍手をする。
彼は背広の上着を小脇に抱え、やや乱れたネクタイを気にも留めず、大柄な身体をゆさゆさと揺らして自席に腰を下ろした。
渡辺は薄く笑みを引きつらせたまま、自分の端末に視線を戻す。
こうしたダジャレに大仰なリアクションを求められる日々が続くうち、それらが微細な針のように精神の内部をちくちくと刺してくるのを感じていた。
本人は場を盛り上げるつもりで言っているのだろう、そうわかってはいても、心のどこかで何かが逆撫でされる。
「いやあ、昼飯は ‘たい(鯛)’ をたべたいなあ。
だって ‘めでたい(目出度い)’ だろ?
はっはっは」
昼休み前の社内に響いたその声に、周囲の部下たちは一瞬だけ沈黙し、間を埋めるように笑い声をあげる。
渡辺は口をわずかに開いて笑顔らしきものを作ったが、体の内側で生まれる嫌悪感を拭いきれない。
ほかの同僚はそこそこ器用に話を合わせられるらしく、山田の言葉尻を拾い、愛想笑いをしたり冗談を言い返したりする光景が目に入る。
しかし渡辺は、声を上げて笑うという作業そのものに疲弊していた。
普段の会話でもほとんど口を挟まずにやり過ごす性格ゆえ、ダジャレへの巧みな返答など最初から期待されていないはずなのに、山田は執拗に彼の反応をうかがってくる。
「お前さ、そんなに固い顔してたら ‘肩が固い’ って肩が文句言っちまうぞ。
もっとほぐしてやらねえと、俺のジョークも息苦しいだろ?」
会議が終わったあと、廊下で山田が渡辺に声をかける。
その表情は底意地の悪い笑みではなく、むしろあっけらかんとした明るさを帯びていた。
そこに妙な後ろめたさや罪悪感はまったく漂っていない。
渡辺はその無自覚さこそが、自分をずたずたにしていく凶器なのだと感じ始めていた。
会社という場は、どこまで踏み込んでも仕事の成果や連帯感といった大義名分がまかり通る。
山田にとっては、部下を鼓舞するためのジョークのつもりなのだろう。
一方、それを真面目に受け止めて苦悩する渡辺の姿は、傍から見ればただの「空気の読めない男」にしか映らない。
「こんなことくらいで」と笑い飛ばせない自分への苛立ちが、日々の疲労に拍車をかけていく。
昼休みになり、食事を終えた同僚たちはデスクに戻って雑談を始める。
山田はデスク脇で電話を取りながら、時折こちらを振り返っては、何か新しい言葉遊びを見つける機会をうかがっているようだった。
どこかで時計の秒針がカチカチと鳴る音が聞こえる。
渡辺は空調の風にのせて運ばれる不安と苛立ちを、どうにも抑え込めないでいる。
「あ、そうだ。
今日の仕事が終わったら、みんな ‘もぐらのようにモグモグ’ 食って元気出せよ。
酒もほどほどにしとけよ?
‘さけをのみすぎるのをさけろ’ ってな。
はっはっは」
山田の声が響くと、部下たちは動きを止め、仕方なく相槌を打った。
渡辺は凝り固まった笑顔を作ろうとしながら、胸に広がる痛みを奥歯で噛み殺す。
そんなある午後、山田が遠くから「今日の夜(よる)はどこか ‘寄る(よる)’ つもりか?」と言いながら近づいてきた。
「俺は 飲み屋に寄りたくなるタイプでな。一緒に行くか?
はっはっは」
笑う同僚の視線が突き刺さり、わずかに残った渡辺の自尊心を削るような空気が漂う。
胃のあたりがひどく重く、目の奥で炎のような痛みが瞬間的に熱を放つ。
孤立しそうな気配を察したのか、隣の席の同僚が気遣うような視線を向けたが、それが余計に惨めな自分を照らし出すようだった。
小さなダジャレの積み重ねが、どれほどの殺意や絶望を生むだろうかと自問する。
常識的に考えれば、言葉のやりとりなど些細なストレスでしかないはずだ。
それでも、渡辺にはその些細さがどうにも我慢ならず、笑顔を取り繕う時間が増えれば増えるほど追い詰められていく自分に気づいていた。
日が落ちる前から残業が決定することも多く、山田の言動は夜になるとさらに冗談めいてエスカレートしていく。
「おい、今度は ‘いるかはいるか?’ なんて聞いてくる客がいるって話、聞いたか?
そんな奴いないか。はっはっは。」
そう言って自分で笑う山田の背を見ながら、渡辺は小さくため息をつく。
指先はキーボードに触れたまま硬直し、脳内では何度も「笑わなきゃ」と繰り返すのに、顔の筋肉は思うように動かない。
こうした何気ない一日一日が、ひび割れた笑いの殻で覆われた地獄に感じられるようになっていく。
渡辺の視界の端で山田が新たな冗談を思いついたのか、ほくそ笑むように口角を上げていた。
その瞬間、どうしようもないほどの疲労と苛立ちが、胸の奥から絶えず沸き上がってくるのを彼はまた感じた。
第3章:歪む視界 – 孤立への道
朝一番に届いた社内メールを眺めながら、渡辺健二はいつものようにパソコンの画面に集中しようと試みていた。
しかし言葉の端々が頭に入らない。
先ほどからこみ上げる頭痛が視界を霞ませ、思考の流れを寸断するようだった。
周囲の同僚たちは笑顔で雑談を交わし、書類を手にオフィスを行き来している。
「また山田部長、ダジャレ言ってるよ」と誰かが小声で呟いても、皆はそれを聞き流すか、あるいは苦笑いで済ませてやり過ごしていた。
渡辺だけが、どうしてもうまく笑えない。
笑えないことを指摘されるのが怖くて、さらに萎縮してしまう。
その堂々巡りから抜け出せなくなっていた。
「おい渡辺。
聞けよ、俺がな、この前 ‘屋根ってやーねー’ なんて言ったら、みんな大爆笑だったんだよ。
面白かったろ?
ほら、笑ってみろよ」
山田義男がわざと人の多いフロア中央で声を張り上げる。
背広の上に羽織った薄いコートの襟をいじりながら、誇らしげに胸を張っていた。
渡辺は咄嗟に愛想笑いの形だけ作るが、喉の奥から苦い感覚がこみ上げる。
同僚たちは見て見ぬふりをするか、気まずそうに仕事の作業に戻っていた。
誰もが何とか、できる範囲で日常を保っているように見える。
けれど渡辺は、その日常の只中でひとり気が遠くなりそうな苛立ちを抱えている。
「昨日さ、犬のフンを踏んだんだわ。
踏んだら踏んだで、俺のオレンジ色の靴下が悲鳴をあげちまったよ。
はっはっは。
何だよその顔、もっと盛り上げろって。
部下の靴がぶかぶかって話もあるぞ」
山田はそう言いながら、自らの言葉のおかしさに大声で笑う。
すぐ隣では女性社員が困ったように口角を上げ、渡辺をちらりと見やる。
部長のダジャレを楽しんでやり過ごす者たちは、たとえ内心うんざりしていても、それが社会人としての処世術だと思っている。
だが、渡辺にはどうしてもそれができない。
笑顔を演じる時間があまりに苦痛で、呼吸が詰まりそうになる。
自席に戻ったとき、彼の携帯電話が震えた。
画面に表示された母の名前を見ても、渡辺は受話ボタンを押さない。
ここのところ実家との連絡を避けている。
家族にも相談しにくい。
何度か言葉を濁しながら話そうとしたことはあったが、「そんなことで悩むなんて甘えている」と一蹴された過去が胸に刺さっている。
「渡辺、ちょっといいか」
山田が硬い声で呼び止める。
「お前、この前の会議でまともなリアクションなかったよな。
俺が ‘キノコを食って生きのころう’ とか言って場を和ませようとしたのに、全然笑わないから空気悪くなったじゃないか」
不機嫌そうに腕を組む山田の目には、部下が上司の顔を潰したという怒りすら宿っている。
「別に、お前に嫌われたいわけじゃないんだよ。
でも俺のギャグにしらけた空気を作られたら、困るんだよな」
渡辺は「すみません」とだけ呟いて視線を逸らす。
山田はそれを聞き流すように、デスクの上に放置したプリントを手に取り、あからさまに大きな溜息をついた。
「いくら真面目に仕事してても、周りがぎすぎすするだろ?
たまには ‘愛しい糸’ を紡ぐような会話をしろっての。
そうしないとチームワークが乱れる」
部長としての説教だと言わんばかりの口振りだったが、渡辺には何も返す言葉が見つからなかった。
その日を境に、彼はますます周囲との温度差を意識するようになる。
仕事で多少の成果を出そうが、笑っていない限り山田の機嫌を保てない。
無理やり微笑めば「大げさだよ、もっと自然に笑え」と叱られ、笑わなければ「何か不満なのか」と詰問される。
職場の同僚たちも、山田の言い分に素直に従えない渡辺を腫れ物のように扱い始める。
家に帰っても静まり返った部屋があるだけで、会話をする相手もいない。
夜中に目が覚めることが増え、ふと真っ暗な天井を見つめながら幻聴のようなものを耳にしてしまう。
山田の声が、頭の中で反響している。
「俺のオレンジ、もらってくれよ。
オレンジ食って、オレん家でパーティとかどうだ?」
空耳だとわかっていても、息苦しさは消えない。
汗ばんだシャツを着替えても、頭痛がまったくおさまらない。
翌朝、出社した渡辺は鏡に映る自分のやつれた顔色を見て、小さく嘆息した。
頬がこけ、目の下に薄黒い影がはっきりと浮かんでいる。
昨日の会議で山田から受けた叱責を、まだ思い出すたびに胸がざわつく。
始業後、渡辺が書類整理に没頭していると、山田が背後から肩を叩く。
「池の鯉に恋するって言葉、知ってるか?
まあ俺は別に鯉に恋してないけどな。
はっはっは。
ほら、ちょっと笑えって」
声を詰まらせたまま振り返ると、山田の目は笑っていない。
乱暴とは違うが、一方的な威圧感だけが押し寄せてくる。
周囲にいた同僚たちが自分のモニターに視線を戻す音まで聞こえてくるようだった。
渡辺は口角をわずかに持ち上げるが、どうしても嘘くさい。
この場しのぎの表情など山田にはすぐ見透かされるだろう。
それでも従わなければ、また執拗に叱責される。
「笑わないなら、お前はチームの輪を乱す厄介者だ。
そんな風にレッテルを貼られるのはもうたくさんだ」
そう自分に言い聞かせ、どうにかかすれた声で相槌を打つ。
ふと気づけば、机に並んだ書類の文字が二重に見え始めている。
視界の端がゆらゆらと揺れ、めまいがする。
「やばい」と思いながら背筋を伸ばそうとするが、首のあたりに力が入らない。
幻聴じみた山田の声は耳から離れず、夜中に何度も襲われた頭痛がぶり返してくる。
職場のざわめきと笑い声に紛れて、渡辺の思考はどこか遠い地点まで飛んでいってしまいそうだった。
無理に現実へ引き戻そうとすると、息苦しさが増すばかりだ。
逃げ出す先を探すように視線を動かしても、そこにあるのは淡々と続く労働の空気と、上司のつまらない冗談に従順に笑う人々の姿だけだった。
どの顔も、一見すると穏やかで優しげな表情を浮かべているように見える。
しかし渡辺には、その笑顔の奥から、自分を非難する視線を感じ取ってしまう。
「なぜ合わせられないのか」と。
「なぜこんな些細なことで悩むのか」と。
自分の居場所を探そうとしても、そこに用意されているのは、耐えきれないほど寒々しい言葉の応酬だった。
山田のダジャレは誰にとっても些末な雑音でありながら、渡辺にとっては深い裂け目を生む猛毒のような存在へと変わっていく。
そして、その猛毒が徐々に彼の心の針路を歪ませていく。
第4章:限界と焦燥 – 黒い衝動
渡辺健二は会社を早退して、細い路地の奥にある心療内科のドアを押した。
差し込む夕方の光がかすかに赤みを帯び、廊下の壁をじんわり照らしている。
受付を済ませると、狭い待合室で自分の番が来るのを待ち続けた。
どこかから聞こえる時計の秒針が一つひとつ頭の中を殴るようなリズムを刻むたび、胸がざわつく。
「渡辺さん、どうぞ」と名前を呼ばれ、簡素な診察室に通される。
白衣をまとった医師は初老の男性で、柔らかな口調で席を勧めてくれる。
渡辺は微かに震える手を膝の上で組み、肩を縮めたまま「夜が眠れなくて…」と切り出した。
それから、上司の執拗なダジャレ強要と、その幻聴に悩まされる経緯を端的に説明する。
医師は真剣に耳を傾けながら診断を進め、メモを重ねていく。
「かなりのストレス状態に加え、不眠症の傾向が強いですね。
必要なら抗不安薬も考えますが、まずは軽めの睡眠導入剤を出しておきましょう」
渡辺は力なく頷き、「ありがとうございます」とだけ告げて処方箋を受け取った。
会社を出た時にはひどかった頭痛が、診察を終えてもまったく軽くならない。
処方された薬が効いてくれるのだろうかという不安ばかりが胸に残る。
だが何もせず限界を超えるよりは、少しでも措置を講じた方がいいのではないか。
そう思わなければ、自分を繋ぎ留めておく手立てが見つからなかった。
翌日の昼下がり、渡辺が書類整理に没頭していると、山田義男が勢いよくデスクを叩く。
「お前、今朝の ‘髪が抜けている事をカミングアウト。神に頼んでふさふさにしてもらわないと’ ってギャグ、聞き逃しただろ?
せっかく俺が朝イチで披露したのに、リアクションが足りなかったぞ」
自信たっぷりのその目が、部下に従順な笑いを要求してやまない。
渡辺は書類の文字が急にぼやけたような感覚を覚え、のどの奥が焼けるように熱くなる。
山田はさらに声を張り上げる。
「昨日も ‘私が渡したいモノがある’ って言ったら、みんなわははと笑っただろ。
でもお前だけだよ、まともに笑わないのは。
何か文句でもあるのか?
ああ、そうか。
お前少し暗いから、趣味作れよ。スキーが好きとか言えよ。
はっはっは」
周囲には苦笑がかすかに漂い、それとなく席を外す者もいる。
しかし山田は気づかないふりをして、渡辺の反応を執拗に待ち構えていた。
「すみません…」と呟くように声を出しても、どうしても笑顔に繋がらない。
眠れない夜を幾度も過ごし、医師から処方された薬を飲んでも幻聴のように頭を離れない山田の声。
「いくらの値段はいくらかなあ」とか、「ドラえもんが『どら、えーもん(いい物)見つけた』って言うかもなあ」とか。
そんな駄洒落の断片が脳内で延々とリフレインするたび、全身がこわばっていく。
不意に山田が声のトーンを落として、「この前のミス、どう責任取るつもりだ?」と問い詰める。
渡辺はどこか遠い場所の音を聞いているように、ぼんやりと相手の口元を見つめる。
「腹が空いて集中できないのか? ‘腹持ちの良い餅’でも食べとけ。
‘なかなかお腹が空かない’ なんて言うなよ。
お前がしっかりしないと ‘俺の腹がハラハラするんだよ’」
ダジャレとは名ばかりの、押し付けがましい言葉が喉をふさぐ。
渡辺は何とか声を出そうとするが、呼吸が詰まって気管から先に言葉が通らない。
夕刻を迎える頃、山田が新たな資料を持ってきて、イライラした調子でデスクを指さす。
「なあ渡辺、 お前のその辛気臭い顔見てると ‘イスラエルの椅子’ に座って瞑想でもしたい気分だ。
はっはっは、面白いだろ?
笑えよ」
まるで正気を失いかけたように、高揚と苛立ちが混じった声が耳元に突き刺さる。
渡辺は頬をひきつらせながらもうつむき、その場に居続けるしか選択肢がない。
夜が深まると再び訪れる悪夢。
ベッドに横たわり、目を閉じても耐えがたい耳鳴りと声の渦が押し寄せる。
幻聴のように浮かび上がる山田のダジャレが、今や十個や二十個では収まらない。
「田端でバタバタしてたら、疲れただろう?
カバのかばん持ちでも雇ったらどうだ?
亀の仮面舞踏会に参加してこいよ。
お前は ‘まわしをまわしたい’ のか?
ラーメンすすってたら ‘ああ麺(アーメン)’ と祈りたくなったわ。うまくねえか?
プールで泳いだら ‘プル(ぷる)ぷる’ 震えが止まらんか?
家から駅まで走ったら ‘いえき(胃液)’ 出そうになってな、はっはっは。
ミーティングが延びたら ‘のび太(のびた)’ みたいに昼寝しそうになるな。
夜道でこけたら ‘よみちがい(読み違い)’ して足くじいたってか。笑えよ。
夏にやたらとうるさいセミナーがあってな。セミのセミナー。なんてな。
悪の十字架(開くの十時か)にかけられて、恐怖のみそ汁(今日、麩のみそ汁)でもすするか?」
ひび割れた上司の声が一斉に耳朶を打ち、渡辺は布団の中で叫びそうになる。
薄い睡眠導入剤を飲んだところで、この執拗なざわめきが消えるわけではない。
薄闇の中で天井を見つめながら、渡辺は何度も呼吸法を試みるが、肺が思うように膨らまない。
「いっそ、あの存在が消えてしまえば…」
そんな危険な願望が、いまだかつてない鮮明さを伴って意識の底から立ち上がってくる。
明くる朝、目の縁に血走った赤みを湛えたまま出社した渡辺は、書類を見つめるふりをしながら落ち着かない視線を机上に彷徨わせる。
「本当に…殺してしまえば楽になるのか?」と、頭の中で問いが形を持ち始める。
相手が病的なまでにダジャレをぶつけてくるというだけで、殺意が芽生えるなんて、到底理解されないだろう。
それでも、呼吸も睡眠も奪われつつある心境で、ただ逃げ場なく追い詰められる未来を考えると、思考が極端に走るのを止められない。
山田の足音が遠くから近づいてくる。
その音だけで鼓動が早まり、指先に汗が滲む。
笑わなければまた叱責され、笑っても更に突き回されるのがわかっている。
断ち切るにはどうしたらいい?
刹那的な疑問が、渡辺の理性をかすかに侵食し始めていた。
第5章:犯行 – 引き返せない夜
朝の満員電車を降りた途端、渡辺健二は胸の奥を蝕む嫌悪感を抑えようと顔を背ける。
頭痛がひどい。
昨晩も睡眠導入剤を飲んだのに、また幻聴のようなダジャレの囁きが夜通し続いて、結局一時間ほどしか眠れていない。
うつろな視線のままオフィスに足を踏み入れると、既に机に腰掛けた山田義男の笑い声が聞こえてきた。
「おい渡辺。
‘あんこをアンコール’ なんて言ったら、みんな腹が ‘あんこ’ でパンパンになるだろ?
はっはっは」
ぱん、と無造作に手を打ち鳴らす山田の動作が、妙に大げさに見える。
周囲の部下はすでに苦笑を浮かべ、そそくさと業務に戻ろうとしている。
渡辺は細かく震える指先を、ズボンのポケットに無理やり突っ込んだ。
彼らがうまくこの場をやり過ごすたび、自分ひとりが取り残されているようで息苦しくなる。
「そもそも ‘駅そばの蕎麦屋でソバージュ掛けたそばかすまみれの女がローリングソバット決めてた’ って話、聞いたことあるか?
あれ聞いた瞬間、笑わない奴はバカだろ?
だってローリングソバットだぜ?
そばだけにソバットってか?」
アハハ、と山田が意地のような声をあげる。
渡辺は口の端だけで笑おうとするが、脳内に鋭い痛みが走る。
引き出しを開け、書類を取り出そうとする瞬間、山田の言葉が鼓膜を鋭く刺す。
「なあ渡辺、魚の気持ちを逆なでしてないか?
お前みたいに愛想もクソもないと ‘魚(さかな)を逆(さか)なでする’ よりタチが悪いぜ。
ふっ、釣れない奴だなあ」
渡辺は下を向いたまま背を強張らせた。
その表情には余裕がまったくなく、まぶたの裏には明け方まで聴こえてきた幻聴がちらついている。
仕事を始めようとパソコンを立ち上げても、頭がぼんやりとして集中できない。
それどころか、画面の文字が二重に揺れ、こめかみを押さえても痛みが引かない。
「薬が ‘クスリ’ と笑う、なんて言われてもな。
医者から貰った薬じゃ俺は笑えねえんだよ」
渡辺は心の中でそう呟くが、声には出せない。
山田のダジャレは現実だけでなく幻聴としてもこびりついてきて、昼夜の区別なく精神を壊しにかかる。
昼休みが明け、再びデスクに戻った渡辺の耳に、あの声がずっとまとわりついて離れない。
今度は「虫が無視してきた、なんて笑い話があるんだけどな」などという呟きが、不意に頭の中でこだまする。
山田が口にした覚えのない台詞でさえ、渡辺にははっきり聞こえる。
現実と幻聴の境がわからなくなっている。
夕刻になるとオフィスに立ちこめる空気は重く、ほとんどの社員が先に帰宅した。
山田は珍しく最後まで残業している。
そして渡辺も、今日に限っては逃げるように帰ることができず、まだ雑務を残していた。
階下から上がってくる外の風が、生ぬるい埃の臭いを運ぶ。
薄暗い照明の下で、二人きり。
「お前、まだ残ってるのか。
まったく、 ‘森の葉っぱがモリモリ’ なんて話もできないくらい疲れてんのか?
ほら、少しは笑えよ。
この ‘草花をバーナーで焼く’ みたいな無慈悲な態度、やめてくれよ。
俺だってさ、楽しもうとしてるんだよ」
山田は苛立ちからか、わざと資料を机に叩きつける。
渡辺は陰鬱な視線を動かさず、一瞬だけ呼吸を止めた。
身体が異様に熱い。
喉はカラカラだというのに汗が滲む。
夜中に繰り返される悪夢と、この執拗なダジャレの洪水が頭の中でごちゃ混ぜになり、山田の声がどこから響いてくるのか判別できない。
「アメリカで理科を習うってどうよ?
インドでインドアの男に引導を渡すって話は最高だろ?
ほら、笑えって。
イギリスのリスがスイスの湖をスイスーイと泳ぐ話とか、面白くないのか?」
今も聞こえてくるのは、現実か幻聴か。
渡辺には見分けがつかない。
視界に映る山田の背中が、どこか揺れているように見える。
残業で散らかった書類とPCのモニターが薄い青白い光を放ち、その光が不気味に揺らめく。
「眠りたい…」と小さく呟いても、脳裏にはダジャレがこびりついて離れない。
「睡魔に襲われたスイマーがクロールで泳ぐのは苦労するだろ、はっはっは」
突然、耳もとで囁かれたような感覚に、渡辺は立ち上がりそうになるが膝が震えて崩れかける。
「渡辺、ちょっとこっち来い。
資料にミスがあるぞ」
現実の声か、幻聴か。
とにかく上司が呼んでいるのは確かだ。
渡辺は項垂れたままゆっくり立ち上がり、薄暗い通路を歩く。
無数のダジャレが、頭の中で渦を巻く。
「マグロがまっくろでもおかしくないだろ?
なあ、クマが言った『くまったなあ』ってのはどうだ?
鴨カモーンとか、課金した野球ゲームでホームラン打った ‘カキーン’ とか。
これら全部、めちゃくちゃ面白いだろ。
どうしてお前は笑わないんだ」
渡辺は目の奥が熱くなる。
怒りか悲しみか、もう自分でもわからない。
息を吐き出すと同時に、しびれた指先が強く握りこんでいた何か固いものに触れる。
半ば闇のように沈んだオフィスの片隅、山田はプリンタの横で書類をチェックしている。
「こっちだ、早くしろ」と苛立ち気味に手招きする山田の背に、渡辺の足音が近づいていく。
幻聴の声が頭の中でこだまする。
あのひどく退屈で、それでいて人の心を抉るように迫ってくる雑音が、しばし止まらない。
「タイでムエタイを習いたいだろ?
ナイフが無い。ふふふふ…。
ミス日本がミスをするなんて、ミステリーだよな」
言葉が瓦礫のように積み重なり、渡辺の心の余裕を奪っていく。
山田の背中が視界を塞ぎ、夕暮れに染まった窓ガラスに渡辺の姿がうっすらと映る。
そこに映る自分が、自分とは思えなかった。
「いい加減、笑えよ」
山田が振り向いた瞬間、渡辺の胸に電撃のような衝動が走る。
手を伸ばす自分を、まるで客観的に見ているような気がした。
平静さはない。
あるのは息苦しさと、顔をこわばらせた上司がそこにいるという事実だけ。
「やめろ――何してる、渡辺」
山田が焦った声を漏らすが、その声すらダジャレの雑音にかき消されるように聞こえた。
頭は割れそうに痛み、歯を食いしばりながら渡辺は勢いのまま山田の身体を何度も突き飛ばす。
「笑えって言うな…頼むから、もう言うな…」
瞳が涙と血のような赤い色彩を滲ませ、最後まで何かを必死に訴えるような山田の姿が、やがて地面に崩れ落ちる。
冷房の効いた室内に充満していた熱量が、一気に引き払っていくような感覚がする。
濡れた床、無造作に転がる椅子、そして山田の微動だにしない身体。
渡辺の耳にはまだ、幻聴のダジャレがこびりついていたが、現実の風景は驚くほど静かだった。
血だまりの輪郭が少しずつ広がっていくのを目にしても、渡辺は何も感じられない。
「あのダジャレを、もう聞かなくていいんだろうか…」
思考が焦点を失い、揺れ動く蛍光灯の明かりをぼんやり見上げる。
誰かが駆け寄る足音と、遠くで悲鳴をあげるような声が聞こえる。
現実と幻聴の境目がようやく切り離されたのか、それともすべてが壊れてしまったのか。
渡辺の手のひらからは、生々しい温度だけがゆっくりと伝わって消えていった。
最終章:残響の行方
佐伯刑事は薄暗い取調室のドアを開け、机に向かう渡辺健二を静かに見つめた。
書類の山が無造作に積まれたスペースには、坂口刑事が腕を組んで佇んでいる。
部屋の中には重苦しい空気が垂れこめていた。
一歩足を踏み入れると、渡辺の傍らの椅子を指して坂口が小さく頷く。
佐伯は黙ったまま腰を下ろし、ファイルを開いた。
「山田義男さんを殺害した理由ですが」
佐伯は声を落とし、視線を渡辺の硬直した横顔へと向けた。
「あなたは ‘ダジャレのせい’ と語りました。
それがどれほど苦痛だったのかも、これまでの供述で見えてきました」
隣から聞こえる坂口の息遣いには、まだ理解しがたいという気配が混じっている。
「くだらない冗談で人を殺すなど、常識では考えられない」と彼はぽつりと漏らす。
だが佐伯は机上の資料に目を落としたまま言う。
「渡辺さんの会社は、人間関係が相当歪んでいたように思います。
山田さんのダジャレや執拗な強要は、ただの冗談を越えていた。
それを ‘場を和ませるため’ と称していたけれど、実態は一種のパワーハラスメントと言える」
渡辺は荒い呼吸を落ち着かせるように、両手の指を擦り合わせている。
顔色はひどく蒼白だが、瞳の奥には疲弊しきった狂気の名残がにじむ。
ときおり唇が動くが、言葉にはならない。
佐伯がファイルを閉じ、声を低める。
「過労やパワハラに苦しみながら、逃げ場のない社員は珍しくありません。
日本の職場は、実績や上司の機嫌を最優先にして、まともなコミュニケーションが後回しになることが多い。
仕事ができても笑わなければ責められる。
笑えなければ疎外される。
そんな空気に押し込められた人間が追いつめられたら、何が起きても不思議じゃありません」
坂口は唇を噛みながら言葉を探すようにし、やがて視線を渡辺へと移す。
「けど、殺すまでいくってのは……」
言いかけた声が尻すぼみになってゆく。
そこには、理屈だけでは片づけられない深い闇が横たわっている。
逮捕後、渡辺は検察に送致され、裁判が始まった。
会社の同僚たちは法廷で証言し、山田のダジャレ攻撃を「たしかにきつかった」「笑わないと機嫌が悪くなった」と口々に述べたが、誰ひとりとして「殺意が芽生えるほど深刻なものだった」とは想像していなかったと言う。
彼らは自分たちがしてきた「やり過ごし」が、ある種の共犯関係を生んでいたとは気づかず、あるいは気づかぬふりをしていた。
法廷に集まった証人の言葉からは、山田の言動が日常的なパワハラ行為に近かった事実が浮き彫りになる。
裁判官は「殺人という結果は到底許されないが、会社内での精神的圧迫は社会全体としても看過できない問題」と述べ、結果として渡辺に懲役の実刑判決を下した。
殺人の重大性を認めつつも、職場の空気や上司との歪な関係が彼の精神を破壊に導いた点を斟酌する形になった。
判決後、同僚たちは職場の在り方を問い直すための調査委員会を立ち上げたが、当の会社は「対外的な信用問題」を懸念してか、報道陣には曖昧な回答を繰り返すばかりだった。
山田のダジャレが引き金とは信じがたい、という声が多かった一方で、過酷な勤務体系や上司への盲従を余儀なくされる風土が、いつしか当たり前になっている現状もあぶり出される。
佐伯刑事は判決後、坂口刑事と一緒に喫茶店のテーブルを囲んでいた。
坂口は苛立ちを隠せないまま、砂糖を入れすぎたコーヒーをかき混ぜている。
「理解しにくい事件だな。ダジャレで人を殺すなんて。
けど、たとえ小さな言葉でも、狂わせるほどの毒になり得るってことか」
佐伯は頷き、窓の外を通り過ぎる人波を見つめる。
「他の誰かにとっては取るに足らない一言が、ある人にとっては生き地獄のような重圧になる。
それを見過ごしてしまうのが、閉鎖的な職場という場所なのかもしれない。
誰も深く踏み込まないし、誰も進んで助けない。
日本の労働環境には、そんな病理が巣食っている」
坂口は空になったカップをそっと置き、「被害者も加害者も、不幸だな」と苦い表情をつくる。
佐伯は静かに目を伏せ、口を開きかけるが、そのまま何も言わない。
彼の脳裏には取り調べの最中、渡辺が呟いた言葉が再生されていた。
「……わかりません。だけど、毎日が地獄だった」
そう呟く男の姿は、社会というシステムのひずみに押しつぶされた哀れな影でもあり、憎悪に彩られた一人の犯罪者でもある。
決して単純に「加害者と被害者」だけで割り切れない闇を、佐伯は見た気がしていた。
法廷で読み上げられた判決文を聞いた渡辺は微動だにせず、瞼を閉じたまま看守に連行されていったという。
それを後に伝え聞いた佐伯は、長い溜息をついて手帳を閉じた。
この事件が、多くの人にとって一時のスキャンダルで終わらず、日本の職場環境の在り方を見直す契機になればいいと、それだけをぼんやりと考えていた。