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闇夜の蠢動と欠けた月

第1章:深夜の研究室と“死んだ女性”のサイト

水野隆也はデスクライトの青白い光を頼りに、大学の研究室に置かれた古いデスクトップパソコンの前でひっそりと息をひそめていた。
周囲の研究員たちはもう帰宅し、夜の静けさと蛍光灯のわずかな残光だけが部屋を満たしている。
いつの頃からか、深夜の研究室に残っては怪しげなアダルトサイトを巡回するのが小さな楽しみになっていた。
真面目な外見とは裏腹に、彼がひそかに抱える「ちょっとした好奇心」がこうして姿を現す。

「誰にも見つからなきゃいいんだけどな」
そうつぶやきながら、隆也はメガネを指で押し上げる。
ややクセのある黒髪が画面に映り込み、鬱陶しそうにかき上げながらも、新たなサイトを探す手だけは止まらない。
大した悪気はない。
ただ、いつもと違う刺激を求める気持ちが後ろめたさを押しのけている。

その夜は、検索ページの奥深くへ潜り込んだ末に、いかにも危うそうなサイトのリンクを見つけた。
うっすらとピンクがかった背景に、“ソフトSM”的な雰囲気を匂わせる女性の写真がちらつく。
自分が普段見ているサイトとは少し趣が異なる。
彼はまるで呼び寄せられるように、そのサイトへとクリックを重ねた。

目に飛び込んできたのは黒髪の華奢な女性が手首を軽く縛られ、あどけない表情でこちらを見つめる一枚の写真だった。
「ずいぶん挑発的なイメージだな」
そう感じながらも、隆也の視線はその女性の表情から離れない。
写真に添えられた短い文章には、甘ったるい言葉と痛々しさが混ざったような記述があった。
サイト内をあちこちクリックしていくと、その女性がかつて自身のメンタルヘルスに関する体験談を日々書き残していたらしいことが分かってくる。
そして、ふとリンクを辿ると、その女性がすでに「ベゲタミンA」の過剰摂取によって命を失ったことが小さな文字で語られていた。

突然の事実に思わず息をのんだ。
深夜の研究室に響くのはパソコンのファンの音と、自分の鼓動だけになったような気がする。
「この人…亡くなってるのか」
画面を凝視したまま、茫然とつぶやく。
それまでの好奇心は影を潜め、背筋に小さな寒気さえ走る。
脳裏には、ついさっきまで見ていた生々しい写真と「亡くなった」という言葉が奇妙に同居している。
まるで写真の女性が訴えかけてくるかのように感じられて仕方ない。

さらにサイトをスクロールすると、トップページの隅に「メンタルヘルス掲示板」の文字があった。
「生前に運営していたって書いてあるな…」
その掲示板へのリンクはいまも有効らしく、隆也は迷った末にクリックする。
真夜中の衝動は恐ろしい。
暗い興味に引かれるまま、彼は掲示板の書き込みを一つ一つ読んでいく。

書き込みの大半は、日常で抱える不安や孤独、薬の副作用に対するぼやきだった。
しかし、ときおり誰かが「昨日は調子が良かったよ」「会って話そう」といった言葉を投げかけ、そっと希望めいた光を示しているかのようでもある。
薬品名がずらりと並んだ投稿を見ると、彼らが置かれている現実が重くのしかかってくるのを感じる。
「こんな世界があるんだ」
興味とも同情ともつかない感情が胸に湧き起こり、隆也の指は止まることを知らない。

掲示板には「ボーダーだけど質問ある?」「浮気されたけどもう立ち直れない…」といったスレッドが次々と立ち上がっていた。
書き込みを眺めるにつれ、その世界の独特な温度感が隆也の心をとらえ始める。
「自分も書き込んでみたいな」
ふとそう思った瞬間、彼は聞かれもしない本名を掲示板にさらすつもりはなかったが、別のハンドルネームをつけてみることにする。
緊張半分、好奇心半分。
ささいな一歩が取り返しのつかない深みに足を踏み入れるかもしれないなどとは考えていない。

「こんばんは。
初めて書き込みします。
興味本位で来たんですが、みんな色々大変なんですね」
書き込みボックスにそう綴り、投稿ボタンを押すと、自分が知らない世界へ向けて言葉が放たれた気がした。
何かが胸の奥で小さく弾けるような感覚がある。
そうしてモニターをじっと見つめていると、誰かからレスポンスがつくかもしれないと思うと落ち着かない。

深夜の研究室はますます静まり返り、床から冷たい空気が染み上がってくる。
気づけば夜が深くなり、外では虫の鳴き声すら聞こえなくなっている。
「やべ…そろそろ帰るか」
隆也は研究室に一人きりで残っていることを思い出し、モニターの電源を落とした。
先ほど見つけたサイトの女性の写真が脳裏に焼き付いたまま、なんとなく胸の奥がざわつく。
まだ古い蛍光灯の明かりが微妙にちらついている。
ギシギシと音を立てる椅子から立ち上がり、夜の廊下へと足を向けた。

「ベゲタミンAって、そんなに強い薬なのか…」
誰に聞かせるでもなく、小さな声でつぶやく。
普段は他人の悩みなど気に留めない自分が、妙にその名前に囚われているのが不思議だった。
暗い廊下を歩きながら、亡くなった女性の写真と薬品の名前が頭のなかをぐるぐると回り続ける。
人はほんの少しの縁で、未知の世界に触れることがある。
その世界で何が起きているのかは、まだ知るよしもない。

部屋を出ると、建物の外階段からは鈍いオレンジ色の街灯が遠慮がちに差し込んでいた。
夏の終わりを感じさせる風が吹き込み、背中にかいた汗をひやりと冷やす。
「帰って風呂に入ろう…」
いつもの帰り道は変わらないはずなのに、今夜は少しだけ足取りが重かった。
まるで、かつて存在したはずの誰かの苦しみを少し背負わされたような気になっている。

そうして外へ踏み出した隆也の心には、メンタルヘルス掲示板の画面がくっきりと焼き付いていた。

第2章:掲示板の住人たちとオフ会


水野隆也――掲示板では「ナイトワーク」と名乗っている――があのメンタルヘルス系のサイトを再び訪れたのは、ほんの数日後のことだった。
いつものように狭い部屋でノートパソコンを開き、迷うことなくブックマークから掲示板を呼び出す。
画面上には新しいスレッドがいくつも立ち上がり、誰かの夜を彩っているらしい。

「こんばんは。
ナイトワークです。
また来ました」
そう書き込みを投稿すると、しばらくしないうちにレスポンスが表示される。
「ナイトワークさん、初めまして。
もしよかったら、オフ会に来ませんか?
週末にやる予定で、人が集まりそうなんです」
その誘い文句が目に飛び込んできたとき、彼は少しだけ背筋を伸ばしていた。
ネット上の名前で呼び合う関係が、そのまま現実に接続されることに戸惑いを覚えるものの、どこかで胸が騒ぐ。
亡くなった女性の痕跡と、同じ場所で言葉を交わしていた人々と出会えるかもしれない――そんな小さな期待が、彼を動かしていた。

週末の夕方、隆也は人通りの多い駅前に降り立った。
掲示板の書き込みによると、飲み会の会場は雑居ビルの二階にある居酒屋だという。
「ここか…」と店先でつぶやき、暖簾をくぐって店員に声をかける。
予約名を告げると、迷うことなく奥の個室へ案内された。
扉を開けると、すでに先客らしき数人が座布団に腰を下ろしている。

「あなたがナイトワークさん?
待ってましたよ」
そう声をかけてきたのは、“ウクレレ”と呼ばれている男性だ。
実際に背後には小さなウクレレケースが置いてあり、古着屋で買ったようなシャツとジーンズをゆるく着こなしている。
細身の長髪に人懐っこい笑みを浮かべ、その口調にはなんとなく頼りがいを感じさせるものがあった。
「初めてだと緊張しますよね。
僕も昔はオフ会なんて絶対無理って思ってたけど、慣れたら意外と大丈夫でした」
隆也が「よろしくお願いします」と頭を下げると、ウクレレは手招きして奥へと促してくれる。

その隣に座っていたのは、黒いゴシック調の服を着た女性。“ゴスM”と名乗っているらしい。
くせ毛のセミロングを大胆に染めており、ネイルやメイクも派手めだ。
「わざわざ来てくれるとか、度胸あるじゃん。
うちらも別に怖い人たちじゃないけど、初参加の人ってすぐ帰っちゃうことあるんだよね」
そう言いながらも笑顔を見せると、次の瞬間に険しい表情をつくったりするあたり、心情が変化しやすいのだろうか。
「でも、ゆっくり慣れてくれればいっか」と呟いたあと、スマホをいじり始める。

そしてもう一人、ややうつむき加減で座っている男が軽く会釈した。
「はじめまして。
自分は“サイレント”って呼ばれてます」
スポーツウェアのようなラフな服装で、背筋は伸びているが表情は硬い。
「しゃべるの得意じゃないし、会社も休んでて。
こういう場に出てくるのも、しんどいときあるんですよね」
力なく笑う顔には、どこか陰のある優しさが混ざっているようだ。

メニューを一通り注文したあと、全員で乾杯する流れになる。
それまでネット上でしか繋がっていなかった人々が、こうして同じ空間で向かい合っている。
隆也が座布団に腰を下ろすと、自然と言葉が交わされ始めた。
「ねえ、みんな薬手帳持ってきた?
見せ合おうよ」
ゴスMのその提案は一見突飛だが、ここでは当たり前の行動のようだ。
ウクレレもサイレントも、特にためらうことなく手帳を取り出す。

テーブル上に並べられた手帳には、抗うつ薬や抗不安薬などの名前がずらりと書かれている。
「なんか…たくさん飲んでるんですね」
隆也がそう声をもらすと、ウクレレが苦笑いを浮かべる。
「僕らにとっては日用品みたいなものだからさ。
よく効く薬もあれば副作用できつい薬もあるし、試行錯誤だよね」
そう言いながら、ウクレレは手首を軽くまくって白い跡を見せる。
「こういうことしちゃうときもあったし…」
そこには古いリストカットの跡が淡く残っている。

ゴスMがその手首に目をやったあと、「あー、私もこのへんすごいんだよね」と腕まくりをして見せる。
彼女の場合は何本もの線が走っていて、縫合痕のようなものまで混ざっている。
そこに哀れみを含んだ言葉をかける空気ではないが、隆也の胸には痛みのような感情が広がる。
「それだけ苦しい時期があったんだな」
そう呟くと、ゴスMは短く肩をすくめた。
「ま、今はそこまで深刻じゃないし。
でも、またいつ波が来るか分かんないからさ」

サイレントも黙って腕をまくる。
無言で示された痕が、彼の苦しみを物語っていた。
そして気まずそうに手首を隠しながら、「人に見せるもんじゃないんだけど…まあ、ここならいいか」とポツリと漏らす。
隆也は自分の腕をちらりと見た。
もちろんそんな痕跡はない。
だけど、自分の知らないところで、彼らはこんなにも戦っているのだと実感する。

店員が揚げ物やサラダを運んできて、一旦は話題が変わる。
気分が沈みすぎないようにか、ウクレレが少し冗談を飛ばし、ゴスMもチョコレート味のカクテルを頼んでは「甘いの最高」と喜んでいる。
サイレントは黙々とソフトドリンクを飲みながら、ときおりスマホをちらりと見ている。
そんな光景が、普通の飲み会ともまったく違う独特の空気を作り出している。

「ところで、ナイトワークさんはさ、どうしてこの掲示板に来たの?」
ゴスMが唐突に問いかけると、隆也は少し息を呑んだ。
亡くなった女性が運営していたサイトを見つけたという経緯を、正直に話すべきか迷う。
それでも、なにかしら話してみたいという衝動が勝り、意を決して口を開く。
「実は、ソフトSMっぽい写真を載せてた女性のサイトをたまたま見つけて…
その人がベゲタミンAのODで亡くなってたって知って、すごく衝撃を受けたんです。
サイトに掲示板のリンクがあったから…」
テーブルの空気が一瞬止まり、ウクレレがグラスをゆっくりと置く。
「その人のことは、俺も知ってると言えば知ってる。
直接会ったことはなかったけど、昔から噂はあったんだ」
そう言いながら、どこか複雑そうな表情を浮かべた。

ゴスMはタバコをくわえて火をつけると、淡々と言った。
「掲示板の仲間にとっても重い話なんだよね。
彼女のことがトラウマって人もいる。
だから…何も言わないこともある」
サイレントは目線を落としながら、テーブルの上のコースターを指先でいじっている。
「そういう経緯でここに来たのか。
まあ、俺たちは別に嫌な気はしないけど…」

会話はそれ以上深くは踏み込まなかった。
ただ、彼らがそれぞれ抱えているものの重さや、過去の痛ましい記憶が根を張っていることは、隆也にも察することができる。
話題が変わると、ゴスMは持ち前の感情の揺れ幅を見せながら、他の誰かの噂話に熱中し、サイレントはスマホの画面をにらんでふっと苦笑する。
ウクレレは「ちょっと場を和ませるね」と言ってウクレレを取り出し、即興のメロディを爪弾いていた。
その音に合わせて、ゴスMがリズムを取るように頭を軽く揺らし、サイレントは小さく肩をすくめて息をつく。

隆也はグラスを握りしめたまま、彼らのやりとりを見守る。
リストカットの傷や薬手帳を見せ合いながら、それでも笑おうとする姿は、どこか痛々しくもあり、強さを感じさせるものでもある。
初めてのオフ会は、想像以上に心をかき乱される瞬間の連続だった。
それでも、ここには彼らなりの支え合いがあるのかもしれない。

夜が深まり、店員がラストオーダーを告げに来る頃、ゴスMがスマホを見て急に顔を曇らせる。
誰かから送られたメッセージに苛立ったらしく、声を荒らげて「また私のこと悪く書いてるやつがいる」とテーブルをどんと叩いた。
サイレントはさっと目を伏せ、ウクレレは肩に手を置いて落ち着かせようとするが、彼女の怒りはすぐには収まらない。
「ボーダーだって分かってて煽ってくるんだから、ほんと最悪なんだけど」
タバコの煙を深く吐き出しながら、ゴスMはグラスの酒をあおる。
隆也はどうしていいか分からず、顔をこわばらせる。

そうした空気の中でも、やがて時間が経つにつれ少しずつ落ち着きを取り戻し、ウクレレのなごやかな歌声が狭い個室にかすかに響き渡る。
終電が近づき、店を出る頃には「また集まりたいね」という声が自然に上がった。
ゴスMはツンケンした態度を取りながらも「…じゃあね」と去り、サイレントは「お疲れ」と小さく手を振り、ウクレレは最後まで笑顔を崩さず「また今度!」と声をかける。

隆也は一人で夜道を歩き出し、ビル風に肩をすくめながら深く息をついた。
今まで縁のなかった世界に踏み込んだ高揚と戸惑いがないまぜになり、胸が妙にざわつく。
ちらりとスマホを取り出すと、掲示板の通知が届いていた。
ウクレレからの短いメッセージには「今日はありがとう。
また一緒に飲もう」とだけ書かれている。
リストカットの傷や薬手帳を笑い合う不思議な集まりに、どこか温かいものを感じた自分がいる。
彼らの過去を知れば知るほど、もっと別の面が見えてくるのだろうか――そんな考えが頭をかすめると、足取りは少し重いながらも先へ進んでいった。

第3章:新たな出会いと交際

隆也はあれ以来、掲示板に入り浸ることが増えていた。
夜中にメッセージを送れば、誰かしらがすぐに反応してくれるため、不思議と孤独を感じなくなる。
ゴスMの気まぐれな書き込みや、ウクレレの軽妙な返事があると、なんとなく安心するのだ。
そんなある日、見慣れないハンドルネームからレスが返ってきた。

「はじめまして。
“ルナミ”です。
今度のオフ会、行ってみようか迷ってるんです」

文章の雰囲気がどこか繊細で、隆也は自然と興味を引かれた。
言葉づかいこそ丁寧だが、投稿の端々に不安定な気配が感じられる。
以前ウクレレたちと話した“浮気で心を病んだ人”や“ボーダー気味の人”を思い出しながら、彼はモニターに向かって短く返信を打つ。

「隆也です。
もしよかったら、今度のオフ会でお会いしましょう」

週末になると、居酒屋の個室にまた掲示板のメンバーが集まった。
ゴスMがさっそく派手なゴシック調の格好で座っており、タバコをくゆらせながら新作のネイルを自慢している。
ウクレレは入り口近くでウクレレケースをいじり、サイレントはいつものように少し離れたところで静かに座っていた。
「今日、新しい子来るんだっけ?」とゴスMが言いながら店員に注文を飛ばす。
隆也は「そう、ハンドルネームは“ルナミ”っていうみたい」と答える。
するとウクレレが、「なんか名前からして月っぽいね。
ロマンチック」と相槌を打つ。

やがて、のれんの向こう側が揺れ、顔を覗かせたのは小柄な女性だった。
肩までの黒髪ストレートがさらりと揺れている。
ぱっと見は地味とも言えるが、肌の白さと瞳の黒さが際立っており、儚げな印象を受ける。
「こんばんは…ルナミです」
そう言って控えめに入ってきた彼女は、掲示板で書き込んでいた桜井美月――つまり、ルナミその人だった。

ゴスMが「ルナミちゃん、こっちこっち」と手招きし、ウクレレが「初めまして」と柔らかく笑う。
サイレントはチラリと彼女に目をやって、短く会釈した。
隆也も「こんばんは、ナイトワークです」と挨拶する。
彼女は椅子に腰を下ろすと、緊張した面持ちのまま「みなさん、初めてお会いしますね」と言う。

注文がひととおり落ち着いたころ、ゴスMがいつものように「薬手帳見せようか?」と持ちかける。
すでにそれがオフ会の定番になりつつあるため、ウクレレとサイレントは苦笑いを浮かべながらお馴染みの手帳を取り出した。
ルナミも表紙に小さなシールを貼った薬手帳をカバンから出す。
隆也は、手帳の見た目のかわいらしさに気づいて「あ、猫のシール?
好きなんですか」と声をかける。
彼女は少し笑って、「そう、かわいい動物大好きで」と答える。

「俺らには珍しく女の子らしいシールだね」とウクレレが言うと、ゴスMが「それ偏見でしょ」と毒づくが、その表情はどこか楽しげだ。
サイレントは静かに手元のコースターをめくりながら、「俺はあんまり動物好きじゃないけど…でも、猫とか犬はかわいいか」とポツリと漏らす。

「ルナミちゃんは、どんな薬を?」とゴスMが軽く覗き込むと、彼女は恥ずかしそうにページを開き、抑うつ薬や睡眠薬の一覧を見せる。
「不安定になりがちで、眠れない日も多くて。
あと、解離っぽい症状っていうのかな…?」
そう説明する彼女の声は小さく震えている。
しかし、ゴスMは慣れた様子で「あー分かる分かる。
うちもいろいろあるから安心して」と返す。
ウクレレとサイレントも「大丈夫だよ」とうなずいてみせる。

そんなやりとりが一段落した頃、隆也は何気なく彼女と目が合った瞬間、胸が少しざわつくのを感じた。
ルナミの瞳は笑っているようで、どこか深く沈んでいるようにも見える。
声をかけようとしたとき、彼女が「ナイトワークさん…」とぽつりと話し始めた。
「さっきから、なんだか私、うまく話せてるか分からなくて。
でも、あなたがいてくれるから少し安心してます」

彼女はそう言いながら、小さくはにかむ。
思いがけない言葉に戸惑いながら、隆也は「いえ、たいしたことしてないですよ」と苦笑した。
ルナミは「そういうのが助かるんです」と声を落とす。
その姿を見たウクレレが、「二人でいい感じじゃない?」と軽くからかい、ゴスMが「すぐそうやってくっつけようとするんだから」と笑う。
サイレントだけは「まあ、いいんじゃない?」とつぶやき、ドリンクの氷を鳴らした。

その夜の飲み会では、ルナミの口数は多くはなかったが、ふとした拍子に衝動的な発言が飛び出すことがある。
「なんだかナイトワークさんと話してると落ち着くかも。
私、もしよければ結婚してください…なんてね」
唐突に言ったあと、彼女自身が驚いたように口を押さえ、「ごめんなさい、変なこと言った」と赤面する。
しかし、ゴスMとウクレレは顔を見合わせて笑う。
「いや、ここじゃ別に珍しいことでもないから」とウクレレが言い、サイレントは苦笑しながら「そうそう。
みんなそんな感じ」と付け足す。

隆也も笑いながら「びっくりしたけど、嫌じゃないですよ」と返す。
ルナミは「よかった」とほっとしたような声をもらすが、その目の奥にはどこか危うさが宿っているようにも見えた。

オフ会が終盤に差しかかったころ、ゴスMのスマホがまた鳴り、「あ、悪口書いてるやつ、まだやってる」とボソリと口にする。
ウクレレが「落ち着こう」と笑顔でなだめ、サイレントがさりげなくタバコを差し出してみせる。
ルナミはその光景を見つめて、「みんな仲いいんだね」と言葉を落とした。
隆也は「トラブルも多いけど、なんだかんだ助け合ってるんだ」と説明する。

やがて、店を出る時間になると、ルナミは隆也にやや近づき、「今日はありがとう」と小声で礼を言った。
「私、あんまり人に言えない話が多いんです。
でも、あなたには不思議と話してみたくなる」
彼が「また会えますよね」と答えると、彼女は大きくうなずいた。
そんな二人のやりとりをちらりと見やったゴスMが「やっぱいい感じじゃん」とこっそりウクレレに耳打ちし、ウクレレは楽しそうに笑みを浮かべる。
サイレントは店の扉を開けながら、わずかに肩をすくめて見せた。

その後、隆也とルナミは掲示板を介してしばしば連絡を取り合うようになる。
「いつ暇?」という何気ないメッセージに始まり、深夜に「眠れない…ナイトワークさんと話したいです」と打ち明けられることもあった。
彼女の文面には、唐突に感情が弾ける瞬間があるかと思えば、急に不安を吐露するような陰りも混ざっている。
隆也はそのたびに返信をどうしたらいいか迷うが、彼女とのやりとりがどこか新鮮で、眠気を我慢して返事を書くことも多くなった。

ある日の昼下がり、大学の研究室でこっそり掲示板を覗いていると、ルナミから個別メッセージが届いていた。
「あなたに会いたいです。
あのときの優しさが、また欲しくなりました」
短い文面に込められた気持ちを感じ取った彼は、すぐに「じゃあ、週末にお茶でもどうですか?」と返す。
彼女から「行きたいです」と返事が来ると、胸の内に小さな喜びが灯った。

そんな流れで二人きりで会うようになったのは自然なことだった。
しかし、ルナミ――本名が桜井美月だと知ったのは少しあと。
いつものように会話している最中、ふとした拍子に彼女が別人のように早口で「私は美月…ミヅキ…?」とつぶやき、すぐに「ごめんなさい、時々こうなるんです」とうつむいた。
隆也は咄嗟に何も言えなかったが、その日を境に「美月」と呼ぶことも増えていった。

美月の状態は日によって激しく揺れ動く。
待ち合わせに遅刻するかと思えば、いきなり「すごく好き!
今日一緒にいられない?」と感情を爆発させることもある。
隆也は戸惑いながらも、彼女に惹かれていくのを止められない。
なんでもないメッセージや、会ったときの笑顔が、これまでに味わったことのない胸の高鳴りを呼び起こす。

しかし、二人の関係を公にしようとすると、美月は微妙に言葉を濁すことがある。
「他の人たちに言われるの嫌だから…」と、曖昧な言い方で秘密を匂わせてくる。
同時に彼女は「私は誰にでも好きって言っちゃうけど、それでもいいの?」と問いかける。
隆也が苦笑いで「大丈夫、気にしないよ」と答えると、美月は安心したように笑うが、その笑顔にはどこか不安が透けて見える。

オフ会で再び会ったとき、ウクレレやゴスMが「そろそろ付き合ってるんじゃないの?」とちゃかしてくるが、美月は「内緒ですよ、ね」と隆也の腕を引っ張ってその場を離れようとする。
わざわざ隠すことで余計に目立つと感じるが、彼女の抱えているものを考えると、強く否定はできない。
サイレントはそんな二人を見て「まあ、うまくやればいいんじゃない」と苦笑し、ゴスMは「絶対トラブルになるって」と半ば呆れたようにタバコをくわえている。

それでも隆也は、美月の笑顔を守りたいという気持ちが募っていく。
彼女の甘えたような口調や、不意に人前で「結婚して」と言い出す破天荒さに振り回されながらも、心を奪われていく自分がいる。
「俺がそばにいれば大丈夫だろう」とどこか楽天的に思う一方で、先が見えない不安もこっそり胸の奥に沈殿していく。

そんなある夜、美月から「怖い夢を見た。
今すぐ声が聞きたい」と電話がかかってきた。
受話器の向こうからは震える声が聞こえ、「私、離人症っぽいのか、今自分がどこにいるか分からないかも…」と涙声で訴える。
隆也は必死に彼女を落ち着かせようとするが、どう言葉をかければいいか分からない。
「平気だから。
俺がいるから大丈夫だよ」
そう繰り返すうちに、ようやく美月の泣き声は少し収まっていった。

通話を切ったあと、彼はベッドに倒れ込んで深いため息をつく。
思わずスマホの画面を見つめながら「俺は本当に彼女を支えられるのか」とつぶやいた。
だが、その問いに答えは出ない。
美月の笑顔と、不安定な声の両方を抱えていく覚悟が、自分にあるのかどうか。
静まり返った部屋で、彼は時計の秒針を聞きながら、そっと目を閉じた。

第4章:同棲とOD騒動

美月――掲示板上では「ルナミ」というハンドルネームを使っている――とのつき合いが深まるにつれ、隆也は彼女の精神状態が想像以上に危ういことを徐々に実感するようになった。
仕事へ行く日も、まるで身体に重りでもついているかのように動きが鈍く、彼女は朝から目をうるませて「行きたくない」と嘆くことが増えた。
遅刻や欠勤が続けば当然職場での評価も下がる。
それでも彼女は何とか勤め先へ足を運び、辛うじて毎日を乗り切ろうとしていたが、ある日、「もう来なくていい」と上司に言い渡され、実質的にクビを宣告された。
隆也の前で美月は堰を切ったように泣きじゃくり、唇を震わせながら「私、だめだね…全部だめ」と自虐的にこぼした。
彼女の仕事用のバッグが床に落ち、ガラガラと中身が散らばっても拾う気力さえないらしい。
隆也はそれらを黙って集めながら「そんなことないよ」と声をかけるが、彼女は虚ろな目をしたままうなずく気配を見せなかった。

その数日後、美月のスマホから鳴った着信を受け、彼女が「ちょっと外に行く」とだけ言い置いて部屋を出たきり戻らない夜があった。
連絡が途絶え、不安になった隆也が彼女の知人たちに当たると、ほどなくして「美月がOD(薬の過剰摂取)で救急搬送されたらしい」という知らせが舞い込む。
病院に駆けつけると、彼女は点滴につながれたまま静かに目を閉じていた。
医師からは「幸い致死量には達していません。
ただ、このままだと危ないので、しばらく入院が必要かもしれません」と告げられる。
彼女の白い肌がさらに透き通るようになっているのを見て、隆也は全身から力が抜けていくような感覚に襲われた。

退院してからしばらくの間、美月は隆也の部屋で過ごすようになる。
もともと一人暮らし用の狭いスペースだが、彼女は「一人にはなりたくない」と言い、隆也も「それなら」と即答する。
以来、小柄な彼女の姿が部屋のあちこちで見られるようになったが、いつも眠れずに夜中に起きては「ごめんね」と謝り、冷蔵庫を開けてチョコレートを探したり、逆に昼過ぎまで眠り込んで起きない日があったりと、不規則な生活が続く。
時折、優しい笑顔を見せて「私、幸せだよ」と呟く一方で、深夜に泣き出してスマホを投げ出す場面も多い。
彼女の波の激しさに戸惑いつつも、隆也は受け止めるしかなかった。

そんな生活を続けるうちに、美月は突然「犬が飼いたい!」と目を輝かせ始めた。
小さな体をさらに丸めるようにして「ワンちゃんと一緒に寝たいの。
そしたら寂しくないでしょ」と言う。
隆也は怪訝そうな顔をして、「でも、このアパートはペット禁止じゃ…」と返すが、美月は聞く耳を持たない。
「それでも飼いたい。
絶対かわいいよ。
一緒に散歩したら気分よくなるし」と、一気にまくし立ててしまう。
彼は折れそうな気配を察しながらも、どうにか説得を試みるが、彼女は「私、もうダメかもしれないのに…このままじゃ死んじゃうかも」と極端な言葉で泣きそうな目をする。
結局、彼女の衝動的な熱意に押し切られる形で子犬を迎え入れることになった。

ある休日、二人でペットショップへ行くと、ガラス越しに見える小さな子犬を見て美月は「かわいい…」と声を震わせる。
しかし、店員から飼育環境の確認をされると、マンションのペット禁止を正直に言うわけにもいかず、隆也は曖昧に「大丈夫ですよ」と答えてしまう。
内心で「これはまずい」と思いつつも、店を出る頃には美月の腕の中でぬくぬくと眠る子犬の姿があった。
二人はそのまま帰り道、管理人に気づかれないようにキャリーバッグを隠しながら部屋へ戻り、美月は大喜びで子犬を抱えて部屋中を駆け回る。

数日間は、彼女の沈みがちな様子が嘘のように明るくなった。
「この子といると元気出るよ。
見て、すごく甘えてくるの」
彼女の言葉は久々に弾んでいて、隆也はほっと胸をなで下ろす。
ところが、それから間もなく管理人が巡回に来た際、子犬の鳴き声を聞きつけたらしく「ペットは禁止なんですよ。
すぐに出て行ってもらわないと困ります」ときっぱり告げられる。
隆也は「何とかならないですか」と必死に頼むが、管理人は聞く耳を持たない。
結果、二人は部屋を退去せざるを得なくなった。

急いで新しい住まいを探し回った末、ようやくペット可のマンションを見つけて引っ越したのは、夏の終わりのことだった。
エレベーターも新しく、少し家賃は高いが、部屋には日が差し込んで明るい。
美月は早速子犬をリビングで遊ばせ、隆也はダンボールの山を一つずつ片づけながら「なんとか落ち着いたな」とため息をつく。
しかし、新しい環境になっても美月の離人症状や不安定さは変わらない。
夜中に「私、消えたいかも」と呟いたり、突然過呼吸を起こしたりすることが続いた。

頭にレジ袋をかぶせて、「大丈夫?」と問いかけても、美月はうまく言葉にできない様子で、体を丸めながら「ごめんね、こんな私で」と泣くことが多い。
隆也は大学での研究やバイトもあるため、帰りが遅くなることもしばしばだったが、彼女からのLINEには頻繁に「まだ帰ってこないの?」「今すぐ来て」「助けて」といったメッセージが届く。
家にたどり着く頃にはヘトヘトになりながらも、部屋の扉を開ければ「よかった、やっと帰ってきてくれたんだね」と、彼女が半ば泣き笑いで抱きついてくる。
そんな姿を見ると、彼の疲れもいったんは薄れるが、心のどこかに「この先どうなるんだろう」という不安が残るのも確かだ。

子犬の世話に追われ、家賃や引っ越し代で懐事情も厳しくなり、部屋の中は片づけきれないダンボールが積まれたままになっている。
美月は「私がちゃんとやるよ」と言うが、調子のいい日と悪い日の差が激しく、結局片づけは隆也がすることが多い。
彼女がほんの些細なことをきっかけに、泣き崩れたり何時間も沈黙したりするのは、もう日常の光景になりつつある。
「こんな生活、普通じゃないのかな…」と隆也が呟いても、彼女は「ごめんね」と力なく笑うだけだ。

そんなある日、彼女がまた小さく震えながら「もう、しんどい…」と呟き、薬を手のひらいっぱいにあけて「飲んじゃおうかな」と零す場面があった。
隆也は慌ててそれを止め、医師に相談するように促したが、美月は「どうせ行っても変わらないし」と投げやりな態度をとる。
押し問答になりかけたとき、足元を子犬がまとわりついてきて、美月はハッとしたようにその子犬を抱き上げた。
「ごめんね、こういうときに助けてくれるのはワンちゃんだね」と言いながら泣く顔は、どこか幼子のようにも見える。
隆也は背中をさすりながら「俺だって助けたいよ。
一緒にいるから、もう少しだけ頑張ろう」と言った。
彼の心にも疲労が積もっていたが、いまはそれを口にできない。

こうして始まった同棲生活は予想以上に混乱に満ちていた。
ペット禁止のマンションを追われてきたという後ろめたさに加え、ようやく借りた新居も美月の不安定さを根本的に変えてはくれない。
隆也はSNSの掲示板で仲間に相談したり、わずかな時間を使ってバイト先に「すみません、少し早く上がれませんか」と掛け合ったり、日々を綱渡りのように生きている。
それでも、新しいマンションの窓から差し込む陽の光のなかで、美月が子犬を抱いて微笑んでいる姿を見つけると、彼はごく短い安堵を覚える。
その微笑みにどれほどの重みが隠れていようと、いまはただ彼女を抱きしめるほかに方法を見つけられない。

彼らの暮らしは、そのまま落ち着くわけでも安定するわけでもなく、ゆっくりと進んでいく。
美月は日によって眠り込んでしまい、日によっては夜中に子犬に話しかけ続け、あるときはふいに「ごめんね、私ほんとに迷惑かけてばかりだね」と呟いて涙を落とす。
隆也は「そんなことないよ」と繰り返しながらも、自分自身の疲れを持て余している。
引っ越し先での時間は、まるで薄い氷の上を歩くかのような危うさに満ちていた。

部屋の隅にはまだ片づけ切れないダンボールが並び、子犬の足音が床をコツコツと鳴らすたびに、美月は「ああ、やっぱり飼ってよかったかも」と微笑む。
そして彼女は手を合わせるようにして「私、もう少しだけ頑張るね。
一緒にいて」と、小さな声で頼み込む。
隆也はその言葉にうなずき、さらに強く抱き寄せることでしか応えられない。
二人の暮らしは、危ういバランスを保ったまま続いていた。

第5章:突然の別れ

美月が体調を崩すことが増えていたある朝、彼女はいつになく元気そうな顔で「美味しいパンケーキが食べたいな」と隆也に告げた。
彼は戸惑いながらも「じゃあ行こうか」と笑顔を見せる。
マンションの通路を出たとき、子犬を抱いた美月は少しだけ顔色が悪かったが、「大丈夫、今日は調子いいから」と笑ったまま外に出る。

ところが、パンケーキ屋へ向かう途中で、美月は突然足元から崩れ落ち、膝をつくようにして倒れ込んだ。
「ごめん…ちょっと息苦しい」
青ざめた顔が汗に濡れているのを見て、隆也は慌ててタクシーを拾い、彼女を抱え込むようにして帰宅する。
部屋のベッドに横になった美月はか細い声で「ごめんね…まただめみたい」と呟く。
彼が救急車を呼ぼうとすると「少し休めば平気だから」と首を振るが、やがて夜になっても呼吸は乱れ、熱が収まる気配もない。

「やっぱり病院に行こう」と隆也が決断しかけた矢先、美月の瞳の焦点が合わなくなり、呼吸が浅くなる。
「美月!」と声をかけても反応がなく、彼は震える手でスマホを探し出し、急いで救急車を呼んだ。
しかし、救急隊が必死に処置をして運び込んだ先の病院で、彼女は再び目を覚ますことはなかった。
医師の説明は曖昧だったが、彼女の持病や薬の副作用、そして身体の弱さが重なり合った結果なのだろうという。
やけに静かな病室の片隅で、隆也は立ち尽くしたまま、自分に何が起きているのかうまく理解できなかった。

数日後、葬儀が行われたとき、掲示板の仲間や友人たちが集まり、皆それぞれの思いを抱いて花を手向ける。
ゴスMは終始無言で涙をぬぐい、ウクレレは肩を震わせながら焼香を済ませる。
サイレントもわずかにうつむいて顔を覆い、花を供えることしかできない。
美月の写真はやさしい笑みを浮かべており、斎場の奥に飾られたその顔を見つめながら、隆也は悲しみの実感が遠のくような、不思議な浮遊感に包まれた。

美月の葬儀を終えてから、今回の出来事の連絡も兼ね、美月のかかりつけ医の元へ訪れた。
医師は小さく息をつきながら、「桜井さんは、過去に大切な人を失ってしまった経験があったようです」と伝える。
「家族だったのか、恋人だったのか…詳しくは分かりません。
ただ、その喪失感が引き金となって、抑うつや解離を深刻化させたのではないかと思います」
深い悲しみを抱えたままの彼女が、さらに孤独や不安に苛まれていたのだと知り、隆也は立ちすくむ。
自分は本当に彼女を救えたのだろうかと、苦い思いがこみ上げてきた。

しばらくして、隆也は家族にも会ってはみたが、彼女との日々について胸を開いて語ることができなかった。
両親は「大変だったろう」「無理するな」と声をかけてくれたが、その優しさすらどこか空回りしているように感じる。
友人たちに話してみようとしても、「気の毒だったね」「つらかったね」と同情の言葉ばかりが返ってきて、深いところではかみ合わない。
彼女を失った痛みを共有したいのに、誰もその痛みに触れられないように避けている気がする。
バイト先でも皆がねぎらいの言葉を掛けてくれたが、深い共感は得られなかった。
離婚したばかりのバイト先店長が「わかるよ、独り身になると大変だよな」と言ってくれたが、違和感を感じていた。
同じ喪失体験を経験した者でないと共有しきれないもどかしさを感じた。

やりきれなさを抱えながらも、遅れてやってきた実感が彼の涙を呼び、大学のトイレや帰宅途中のコンビニ、そして自室の布団の中で、何度も声を殺して泣いた。
しかし、人と話しても気持ちを解放できず、むしろ孤立感だけが増していく。
そんなとき、彼が頼ったのはSNSのどうしようもなくバカバカしいアカウントだった。
大喜利やくだらないネタ投稿を延々と続けるユーザーたちが、「家族あるある選手権」「職場でやらかした失敗選手権」といったテーマで、あり得ない妄想を積み重ねて笑い合っている。
「ばあちゃんの背中で目玉焼きが焼けるレベルの説教」という投稿を見て、不覚にも噴き出してしまう自分がいる。

美月と一緒に飼い始めた子犬は、マンションの一室でご主人がいなくなってしまったことなど理解できないまま、隆也の足元をクンクン嗅ぎ回っている。
その毛並みを撫でながら、彼はSNSを何度もスクロールし、傍から見れば意味のないような冗談に救いを求めた。
痛ましい現実とまったく関係のない場所で、人々が笑顔を見せている投稿に触れると、少しだけ呼吸が楽になる気がした。

そんな日々が続くなか、ウクレレから「もし興味があれば催眠療法とか試してみる?」というメッセージが届く。
「時間退行で美月さんに会えるかもって思うなら。
まあ、効果は人それぞれだけど…」
隆也はスマホの画面を見つめる。
正直、半信半疑だが、彼女の笑顔にもう一度会えるなら試してみたいという思いがある。
同時に、何をやっても美月は帰ってこないのだという冷静な自分も心のどこかに潜んでいた。

彼はこの喪失感を抱えながら、だれとも共有できずに彷徨う。
大変だが幸せだった日常がフラッシュバックのように次々と襲い掛かる。
両親の優しさも、友人の慰めも、掲示板の仲間たちの労わりも、表面的に感じられてしまい、心にしっかりと根づかない。
だからこそSNSのバカアカウントにすがるように、薄暗い中で画面を見つめ、笑おうとしている。
深夜に響く子犬の寝息を聞きながら、失うという絶望に苛まれる。

だが、時間は無遠慮に流れていく。
やがて彼は気づくだろう。
膨大な日々の積み重ねだけが、痛みを少しずつやわらげていくのだということを。
朝が来れば起き上がり、犬の世話をし、バイトへ行き、帰ってきては意味もなくSNSの大喜利を眺める。
無為なようでいて、その繰り返しの中で、彼の胸に鋭く刺さっていた悲しみはいつしか鈍く、重く、そして慣れ親しんだ痛みへと変わる。

それは救済でもなければ完全な癒やしでもない。
ただ、時の流れが彼に新たな皮膚を与え、ひどく深い傷口をやがてかさぶたに変えていく。
美月を失った穴は埋まることはないかもしれないが、その穴を抱えたまま生きていく術を、時間がゆっくりと教えてくれるのだろう。
大喜利のくだらない投稿にクスッと笑い、子犬の丸まった背中を撫で、ちいさく「ありがとう」と呟く。
見上げた先に、はっきりと美月の姿はないが、それでも彼は日々の中へ戻っていく。

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