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【短編小説】寝ゲロ

太一は、朝5時半に鳴り響く目覚ましの音に、重い体を無理やり引きずられるようにして起き上がった。
 布団の中でしばらく体を動かそうと試みるが、全身に染み付いた睡眠不足と疲労感で、手足は思うように動かず、まるで体が自分のものではないかのような感覚に囚われた。

 薄暗い部屋の中、壁に映る自分の無表情な顔を見つめながら、太一はもう一度深いため息をついた。
 その瞬間、どこか虚ろな目で時計を見ると、今日もまた、逃げ場のない一日が始まるのだと、心の奥底で重い現実を噛みしめた。

 満員電車の中で、太一はぎゅうぎゅうに詰め込まれた人々の中、無機質な雑踏に溶け込みながら、ただ前を向いて歩く。
 駅に降り立つと、彼の足取りはまるで鉛のように重く、やがてたどり着いたオフィスの冷たいエントランスは、ただの通過点に過ぎなかった。

 オフィスに入ると、太一は薄暗い蛍光灯の下で並ぶデスクに着く。
 上司の田中は、決して派手なパワハラを振るうタイプではなかったが、その一言一言には、計算された冷徹さと、どこか皮肉まじりの厳しさが漂っていた。
 「太一、この報告書は今朝中に仕上げてくれ。締め切りは絶対だ。」
 田中の声は、怒鳴るわけでもなく、しかし冷たく刺さるように、太一の心に直接突き刺さった。
 その声の裏に潜む、無機質な数字と結果至上主義の圧力は、まるで見えない鎖となって、太一を縛り付ける。

 デスクの上には、前夜から溜まった膨大なメールと、未整理の資料の山が無言の重圧となって積み重なっていた。
 太一は、クリックするたびに次々と現れる新たなタスクに、体だけでなく心も鉛のように重くなるのを感じた。
 「この書類一つ一つに、自分の全ての力が吸い取られていくようだ…」と、内心で叫びながら、机に向かう指先は震え、目は虚ろな光を帯びていた。

 昼休み、冷え切った自販機の前に立ち、薄汚れた紙コップに注がれた冷水を無感情にすすりながら、太一は未来に対する絶望と、終わることのない責務に押しつぶされそうな不安を噛み締めた。
 「このままじゃ、俺はどこにも行けない…」と、声に出さずに呟くも、その言葉は誰にも届かず、ただ虚空に消えていった。

 午後になると、急な追加案件が舞い込み、田中は再び淡々と指示を出した。
 「このデータも、明日朝までにまとめてくれ。」
 その冷徹な言葉は、単なる上司の指示以上に、太一の体と心に無形の重圧を与え、デスマーチのような一日の始まりを告げるものだった。
 太一は、会議室の隅で震える手で資料に目を通しながら、次第に自分の存在が無色透明な数字とデータにすり減っていく感覚に苛まれた。

 定時を過ぎても、山積みのタスクは終わる気配を見せず、夜の帳が下りる頃、太一は疲労困憊の体でオフィスを後にした。
 外はすでに冷たい風が吹きすさび、彼の心の闇と呼応するかのように、孤独な夜の静寂が広がっていた。

 帰宅途中、ぼんやりと明かりがともるコンビニの前で、太一は足を止めた。
 無造作に手に取ったストロングゼロの缶を開けると、苦く冷たいアルコールが、痛む喉を一瞬だけだけど、僅かに慰める。
 「今日も、もう何もかも捨て去りたい…」
 そう心の中で呟くと、その缶の中の液体が、疲れ切った体に染み渡っていくのを感じた。

 自宅の狭いアパートに戻った太一は、錆びた鍵を回し、重い扉を開けると、ひとり静かな部屋の冷たさが彼を迎えた。
 床に力なく身を投げ出すと、彼は次々とストロングゼロを口にし、アルコールが体中に流れ込むのをただ待つしかなかった。
 しかし、その瞬間、溜め込んだストレスと絶望が、一気に内側で爆発し、太一の意識は深い闇へと沈んでいった。

 気が付けば、太一は布団の上で深い酩酊状態に陥っていた。
 夢と現実の境界が曖昧になる中、彼の体は突然制御を失い、無意識のうちに激しい吐き気に襲われた。
 口から放たれるのは、ただのアルコールではなかった。
 喉を突き抜ける瞬間、鋭い痛みと共に、強酸性の胃液が勢いよく噴き出し、胃の奥からは胆汁が混じり合った苦く腐食性の液体が、一気に全身を駆け巡った。
 その液体は、内側から喉を焼き付けるかのように痛み、太一の顔は激しい嘔吐に染まり、部屋中にその痕跡が無惨に散らばった。
 吐くたびに、彼の内側に溜まっていた怒りや苦悩、そして絶望が、容赦なく外へと放たれていく。
 太一は自らの顔を手で覆い、必死に吐き出す中で、命の灯が消えかけるかのような苦しみに耐えていた。
 その瞬間、呼吸が詰まり、顔をうずめたまま、ほとんど窒息寸前の状態にまで陥った。

 そんな苦痛の最中、玄関のチャイムがかすかに鳴った。
 朦朧とした意識の中で、太一はその音に微かに希望の兆しを感じ、重い体を何とか起こしてドアへ向かった。
 ドアを開けると、そこには長年の友人である美咲が、心配そうな表情で佇んでいた。
 「太一、LINEが全然既読にならないから心配になって来たけど大丈夫?」
 彼女の問いかけは、冷え切った夜の中で、温かい灯火のように太一に迫った。

 美咲は、太一の顔に浮かぶ激しい苦悶と、吐瀉物で汚れた衣服を一目で見抜くと、すぐに彼に駆け寄った。
 「無理しないで、私がいるから」と、彼女は太一の背中にそっと手を添えながら、温かく声をかけた。
 「色々辛かったんだね。全部聞かせて」と、美咲はその柔らかな声で太一の頬に触れ、優しく促した。

 ふらつく体を必死に支えながら、太一はかすれた声で語り始めた。
 「うちの上司が、今日も俺を無理難題に追い込んできたんだ。朝、会議室に集められて、『この報告書、明日の朝までに必ず仕上げろ』なんて、冷たく命じられて……」
 太一は、震える手で空中に描くように、自分が背負わされた無数のタスクと、延々と続くデスマーチの現実を思い出す。
 「終わりのない残業に追われ、昼休みすらも、冷えた自販機の前でただ未来への絶望を噛みしめていた。俺は、もうこれ以上耐えられなくなっていたんだ」
 その声は、痛みと絶望に押しつぶされ、まるで全ての苦しみを吐き出すかのように、かすかに漏れた。

 美咲は、太一の告白を静かに受け止め、そっと彼の髪を撫でながら、温かい声で告げた。
 「私がいる。あなたは一人じゃない。今日の苦しみも、私が一緒に受け止めてあげる。もう逃げ出すのはやめましょう」
 その一言に、太一は長い間閉ざしていた心の扉が、かすかな光と共にゆっくりと開かれていくのを感じた。
 美咲は、太一の頬にこぼれる涙と、吐き出された苦しみの痕跡を優しく拭いながら、静かに語りかけた。
 「どんなに厳しい夜でも、必ず朝は来る。あなたの痛みは、決して無駄じゃないよ。」

 美咲の温かな介抱と、真摯な眼差しに、太一は再び自分自身を取り戻す決意を固めた。
 「もう、すべてを内に抱え込むのはやめるよ」と、太一はかすかに微笑み、涙を拭いながら呟いた。
 あの夜、激しい吐瀉によって全ての苦しみと絶望を吐き出した瞬間は、太一にとって、過去の自分を捨て去るための痛ましくも救いの儀式となった。
 美咲と共に歩むその先に、太一は、やっと新しい朝と未来へのかすかな希望を見出し始めたのだった。

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