深淵に喰われた大魔導士
第1章「闇の城の返り討ち」
漆黒の雲が垂れ込める夜だった。
王国騎士団長ライオネルは、荒れ果てた高地にそびえ立つ城門を睨みつけながら、呼吸を抑えて足を進める。
背に翻る傷だらけのマントは、これまで幾度となく血と鋼が交錯した激戦をくぐり抜けてきた痕跡そのものだった。
周囲の兵たちが彼の手の合図で慎重に隊列を組もうとするが、夜陰に溶け込む異様な気配が身体を内側から凍らせ、武具の鳴る音すらごく小さく感じられる。
「全員、抜剣しろ」
ライオネルは低く命じる。
金髪碧眼の瞳にはいつもの猛々しさがうせ、焦燥の色がかすかに浮かんでいた。
鎧の隙間をすり抜ける冷たい空気がいやに皮膚にまとわりつき、汗も凍るかのような不気味さを感じさせる。
それでも彼は剣の柄を乱暴に握り締め、心の奥に沈む恐れを断ち切ろうとしていた。
木製の門が腐ったような軋みを上げる。
そこから吐き出される空気は生温かく、鼻を刺すような腐臭を伴っていた。
ライオネルの背後では複数の騎士が息を呑み、抜いた剣先がかすかに震えている。
「まさか、これほどとは……」
後方に位置していたイシュランが声を落とす。
三つ編みにまとめた黒髪の先がしっとりと湿っていて、彼女の瞳には拭いきれない不安が宿っている。
かつての彼女なら、師と共に優しい笑みを浮かべて薬草の手入れをしていたはずだが、今は闇の底に踏み入る焦燥しかそこにない。
彼女の胸には、偉大な大魔導士だった“師”の記憶が未だ鮮明に焼き付いていた。
その慈悲深い人柄が、いつからか恐怖の象徴に変わってしまった――どうしても受け入れ難い事実が脳裏を離れない。
それでも、イシュランは後ずさりするよりも自らの足で突き進む道を選んだ。
残酷な現実を悟りながら、師を想う心だけが彼女を支えている。
ライオネルは荒い呼吸を抑え、意を決したように片手を高く上げる。
「突破するぞ。後戻りは許されん」
無謀なほどの決断に見えても、ここで止まればそれこそ死あるのみ。
兵たちは声を上げて応え、門を壊す勢いで突入を開始した。
城内へ踏み込んだ瞬間、血臭の濃さに目と鼻が刺激され、視界がわずかに揺らぐ。
薄紫の瘴気が廊下を満たし、粘りつくような闇が壁を覆っている。
頑丈だったはずの石壁は苔とこびりついた黒い体液に覆われ、無数の騎士の亡骸が踏みつけられた形で散乱していた。
潰れた兜からは赤黒い脳髄がはみ出しており、甲冑の胸元を真っ二つに裂かれた身体が折れ曲がるように横たわる。
血の混じった粘液が、わずかに生暖かい蒸気を立ち上らせている。
誰かが鋭い声で何かを叫んだ。
その方向を向いたとき、壁際の闇から恐ろしい叫び声とともにアンデッド化した魔物が躍り出る。
腐りかけた顔面に張り付いた皮膚は青黒く変色し、下顎は歪んだ角度でぶら下がっている。
ライオネルは剣で首を断ち切ろうとするが、魔物は切断された部位から膿のような液を垂らしながらも、恨めしそうに喉を鳴らし、なお足を引きずって近づいてくる。
「くっ……魔法班の援護を頼む」
ライオネルの声は焦りに震えている。
すると、後方からイシュランが術式を詠唱する。
「《聖障壁》」
柔らかな輝きが半球を描き、魔物の手足を焦がすように弾き飛ばした。
だが、その瞬間別の廊下から同様のアンデッドが続々と押し寄せてくる。
いずれも腸や内臓を垂れ流し、舌だけが異様に伸びた者や、両腕がもぎ取られたまま引きずる者まで混じっていた。
やがて、廊下の突き当たりから不自然に開いた扉がぎしりと音を立てる。
そこに立っていたのは、見るからに生きてはいない肉体が、宝珠の輝きによって動かされているような存在だった。
衣装の破れ目からのぞく骨と乾いた皮膚が、まとわりつく血煙の中で際立つ。
どう見ても、かつて生者だった名残は薄い。
「師匠……」
イシュランの声がこぼれ落ちるように震えた。
先端に不穏な紫光を宿す杖と、その宝珠から放たれる脈動が、石床を妖しく照らしている。
アンデッドリッチとなったアールヴェルトの眼窩は、空虚な闇に満たされていた。
「お前たちが、また来たのか」
しわがれた響きが耳を突き、兵たちの心を締め付ける。
一見、ゆっくりと杖を振っただけなのに、空気が激しく渦を巻いて闇の電撃へと変わる。
それは前線にいた騎士たちの身体を何本もの黒い矢で貫き、内臓を飛び散らせながら壁に叩きつけた。
悲鳴が交錯する。
何度も戦場をくぐり抜けたライオネルの部下たちが、意思とは無関係に断末魔を上げて崩れ落ちる。
脳漿や血が勢いよく噴き出し、まとわりついた瘴気がそれらを黒く染め上げる。
詠唱を仕掛けた魔法兵も、声を放つより早く首をねじ切られ、喉元から泡立つ赤黒い液体を吐き散らしながら命を落とす。
魔力の奔流が廊下全体を制圧し、破砕された肉片が床や壁に張り付き、血の鉄臭さが息苦しいほどに濃くなる。
ライオネルは激痛をこらえながら剣を握るが、まるで重圧に潰されるかのように膝をついてしまう。
「このままじゃ……全滅する」
声を振り絞っても、刹那に無惨な死を迎える仲間の姿ばかりが視界に飛び込んでくる。
鎧越しに伝わる魔力の衝撃は、心臓を握り潰そうとするかのように脈打っていた。
「師匠、どうして……」
イシュランのか細い問いかけは、血と硝煙の臭いにかき消されそうになる。
アールヴェルトの空洞になった瞳は、彼女をただ冷ややかに見下ろすばかりだ。
その瞳に慈悲の欠片は見当たらない。
「撤退しろ。生き残った者は急いで外へ」
ライオネルが肩で息をしながら叫ぶ。
鎧の継ぎ目から赤い液体が流れ、手足の震えが止まらない。
部下を見殺しにするのは苦痛だったが、この場に踏みとどまればさらに惨い死が訪れるだけ。
通路のあちこちで倒れ伏す騎士たちは、内蔵を吐き出しながら断続的に痙攣し、もはや武器を持ち上げることさえできない。
片腕だけが残った者が呻き声を上げながら助けを求めようとするが、闇の魔力に再度貫かれ、瞳から光を失った。
アールヴェルトは、まるで死神のように静かに近づいていく。
すでに人間とは違う時間の流れを感じさせる動きで、一つひとつの命を無遠慮に刈り取るような冷酷さだった。
イシュランは涙を溜めた瞳で師を見つめるが、その姿は悪夢の化身にしか思えない。
かつての慈悲深い笑顔はどこへ消えたのかと、胸が張り裂けそうになる。
だが、濁った紫電の放つ閃光をかいくぐるだけで精一杯だ。
傷ついた兵の呻き声が耳を刺し、血にまみれた床に足を取られそうになる。
切断された腕や脚が転がる通路を、ライオネルたちは必死に後退していく。
一部の兵が石壁の崩落に巻き込まれ、狂乱の叫び声を上げて息絶えるが、救う暇はなかった。
城内では背後から絶叫がこだまするが、それを振り返るという行為は死に直結する。
「くそ……」
ライオネルは深手を負った腕を押さえ、悔しげに奥歯を噛み締める。
騎士団長として誇り高くあろうとする意志は潰え、それ以上の犠牲を出さないためには撤退しか手段がないと悟っていた。
イシュランも最後に振り返ったとき、師のアンデッド化した手足が生々しく闇の中でうごめくのを目にし、足がすくむ。
砕けた兜、折れた剣、内臓を散乱させたまま動かなくなった兵。
異形と化した魔物たちは飢えた喉を鳴らし、人間の死肉に舌を伸ばしている。
その無残な光景から目を背けるように、ライオネルとイシュランは残ったわずかな兵を連れて城門を突破した。
薄暗い夜空が見えたとき、凍った風が吹き抜け、血まみれの身体を切り裂くように通り過ぎていく。
ライオネルは片膝をつきながら必死に息を整え、視線を再び城へ向ける。
崩れかかった石造りの尖塔が紫色の妖光に揺れ、すぐ背後からは亡者たちの唸り声が追ってくる。
イシュランは震える口元を必死に噛み、杖を握る手の力が抜けきりそうになる。
遠くから見た城は底知れぬ闇そのもので、そこに今も師がいるという事実が心の奥に突き刺さる。
しかし、助けを求めて倒れ込む兵たちに回復魔法を施そうとしても、あまりの闇の毒気に術式が阻まれ、思うように治癒できない。
「まだ、死なないで……」
イシュランが震える声で呼びかけるが、その多くは虚しく血泡を吐き、ぐったりと沈黙していった。
ライオネルは兵士の一人を抱え上げようとするが、あちこちに開いた深い裂傷と噴き出す黒い血を見て、死の濃厚さに思わず目を伏せる。
「……悪いが、耐えてくれ」
まだ動ける兵士たちは、互いに肩を貸し合いながら茫然自失のまま荒野へと退却していく。
振り返れば、城の中から狂気に満ちた視線を感じる。
荒れ果てた夜空の下、その場所に踏みとどまろうとする者は、もはや誰ひとり存在しなかった。
イシュランは渇いた唇をきつく噛み、血と硝煙の立ちこめる風に逆らって歩みを進める。
声にならない慟哭が胸に溢れ、記憶の中の優しかった師の姿が凶悪な幻影に重なる。
その表情を見て、ライオネルは声をかけることができなかった。
喉まで上り詰めてくる感情を無理やり飲み下し、残った兵の命をつなぐために動くことが最優先だと自らを戒める。
再度、耳に届く城内からの断末魔に、誰もが震え上がる。
門の外壁を回り込んだとき、また数名の騎士が血塗れの姿で倒れていたが、すでに助ける術はなかった。
ライオネルはうめき声を上げる死にかけの兵士に視線を落とす。
が、彼の肩越しに見える城の影は、まるで闇そのものが意志を持って形を成しているかのように歪み、蝕み続けている。
不気味な光が外壁の割れ目から漏れ、そこから瘴気の帯がうごめいているのが見えた。
狂信とも思える破滅の力を宿したその場所に、アールヴェルトがいる――そう実感しただけで、イシュランは息が詰まるほどの恐怖を覚える。
「ライオネル、急ぎましょう。これ以上、被害が広がれば……」
彼女はわずかな声で言い、悲愴な面持ちの騎士団長もまた無言でうなずいた。
城の方角からは終わりなき叫びと咆哮が交錯し、砕かれた骨と金属がぶつかる音が風に乗って響いてくる。
その夜の闇の下、わずかばかりの生存者は決死の思いで退却を続けた。
振り返る者などいない。
まだ息のある者たちは、ただ地獄を脱するために足を引きずるように前へ進むだけだ。
死と呪いの只中にある城を背に、ライオネルとイシュランは下を向いたまま言葉を失っていた。
そこには、師への敬愛が砕かれた弟子の嘆きも、仲間を喪った騎士団長の痛切な後悔も、やり場のない憎悪の炎も共存している。
ふたりの視線は交わらない。
ただ、生き残りたちの呻き声だけが暗い大地にこだまする。
第2章「栄光と禁断」
白亜の大広間に光が満ちていた。
王宮の窓から差し込む朝陽が、硬質な光彩を床一面に描き出し、そこには一人の魔導士が人々の喝采を受けて立っていた。
背筋を伸ばし、白髪交じりの黒髪をきっちりと束ねた彼は、褒章を手渡す国王に向かって深々と頭を下げる。
堂々とした姿勢と気品ある面差しは見る者の心を打ち、宮廷の一角で見守っていた人々から惜しみない賛辞が飛び交っていた。
その魔導士こそアールヴェルトだった。
大陸を脅かしていた凶暴な魔獣の群れを封じ、疫病の蔓延を食い止めた功績が評価され、この日、王国最高位の栄誉を賜ったのである。
多くの民は彼を英雄と称え、師の弟子たちも誇らしげに胸を張っていた。
その中には黒髪を三つ編みにしたイシュランの姿もある。
彼女は師の背を視線で追いかけ、喜びを噛みしめていた。
「師匠、本当におめでとうございます」
授賞式を終えたあと、イシュランは興奮を抑えきれない様子で声をかけた。
実務的なローブの胸元が小さく上下に揺れ、いかに彼女が高揚しているかを物語っている。
アールヴェルトは微笑を浮かべ、紫色の宝珠が付いた杖をそっと床に預けて、イシュランの髪を軽く撫でた。
「ありがとう。
お前の支えがあったからこそ、ここまでこれた」
落ち着いた声音からは、慈悲深い人格が滲んでいた。
その頃、王国では数々の脅威が同時に表面化していた。
小さな村を次々と蝕む疫病と、王都の近郊を荒らす魔獣の襲来が被害を広げており、どれも一筋縄ではいかない問題ばかりだった。
人々は必死に救いを求め、教会や騎士団も懸命に対応にあたったが、状況の改善は容易でない。
アールヴェルトは誰よりも熱心に民を救う術を探り、時には夜を徹して研究に没頭した。
調合薬から始まったその探究心はやがて、より強力な魔術体系の解明へと向かっていく。
しかし彼の胸の奥には、誰にも言えないもう一つの動機があった。
それは、かつて愛した者──家族だったのか、友人だったのか、あるいは大切な弟子だったのか──今はもう誰も知る由もない“失われた存在”を、どうにかして取り戻したいという強い思い。
その面影を秘めたまま、アールヴェルトは研究に没頭し続けていた。
彼の書き残すメモにはしばしば「永久の救済」や「死を越える方策」という言葉が現れ、イシュランも薄々、その根底に深い喪失があるのではと感じていた。
そんな中、王国宰相グレイヴァスが静かにアールヴェルトへ近づいてきた。
豪奢な衣服と宝飾品を身につけた彼は、品のある口調で王宮の廊下を歩き回り、政治的駆け引きで巧みに権力を拡大しようとしていた。
ある日、アールヴェルトが研究室にこもって書物の山と格闘していると、グレイヴァスがほほ笑みながら扉を開ける。
「最近、師の働きには感謝しておりますよ。
王国を蝕む疫病や魔獣の件は、あなたの力がなければ手の打ちようもなかった。
ただ、まだ不安が残りますな。
もし我々が“もっと深い力”を手にできたなら、民の苦しみも一気に解決できるはずだが」
柔和な声色の裏には、一筋の策略が透けている。
アールヴェルトは書物から目を上げる。
小柄な宰相の身振りはどこか過剰なほど丁寧だが、そこに鋭い下心を感じ取るのは難くない。
「それは、どういう意味でしょうか」
問い返す声は穏やかだったが、アールヴェルトの瞳には警戒の光が宿っている。
グレイヴァスは室内を見渡し、散乱する古い魔術書の表紙をちらと眺めた。
「ご存じではありませんか。
王都の地下保管庫には、封印された『禁術』の研究資料があると聞きます。
過去に一度だけ陽の目を見たものの、そのあまりの危険性に教会が禁止した代物なのです。
もっとも、それだけ強大な力ということでもありますからな。
アールヴェルト師の頭脳ならば、その正体を解き明かせるのではないかと。
結果がどうなるかは、お任せしましょう」
その言葉を発したとき、宰相の唇は微妙な笑みを浮かべていた。
人々を救うためなら、どんな手段も辞さない――というアールヴェルトの性格を、グレイヴァスはよく知っているようだった。
アールヴェルトは文献を読みふける手を止め、グレイヴァスの言葉に耳を傾けながら考え込む。
疫病に苦しむ民の姿や、魔獣の脅威に怯える子どもたちの姿が頭をよぎり、眉間の皺が徐々に深くなる。
「……確かに、それが王国のためになるのなら。
ただし、教会との協議を欠かすわけにはいきません。
闇の研究はリスクもある」
そう静かに答えるアールヴェルトに、グレイヴァスはわずかに肩をすくめた。
しかし、闇の力への興味は疑いようもなく、アールヴェルトの心に芽生えていた。
夜更けにロウソクの灯りだけを頼りに書物を読み、封印された文献の断片を探し出すたび、彼の探究心はますます激しく燃え上がる。
禁忌を破るか否かという境界線は、医術の発展や魔法のさらなる高みを求める意欲によって、ほんのわずかずつではあるが曖昧になっていった。
“どうすれば死を克服できるのか”“生と死を越える術はあるのか”――そんな言葉をノートに書き付けることさえ増えたのもこの頃だった。
とある夜、イシュランが研究室を訪ねてきたとき、アールヴェルトは目の下に影を落とし、机一面の魔術書に没頭していた。
「師匠……少しはお休みになってください。
最近は徹夜が続いています」
彼女の声には心配の色がにじんでいたが、アールヴェルトは軽く首を振って文字を読み進める。
「ありがとう。
だが、まだ確かな手掛かりを得られそうなんだ。
この術式が完成すれば、病も魔獣も一度に封じられる可能性が見えてくる。
民を救うには、急がねばならない」
イシュランは師の真剣な表情を見て、言葉を飲み込む。
体調を案じる気持ちと、尊敬する気持ちが複雑に混ざり合って、胸が苦しくなる。
さらに数日が経ったころ、王国内の疫病は一時的に収束に向かったものの、より強大な魔獣が国境付近に出没する情報が入った。
前線で応戦する騎士団からの報告は惨憺たるもので、いつ大規模な被害が王都へ押し寄せてもおかしくない状況だった。
王や教会はアールヴェルトに頼らざるを得ず、彼の研究に資金や人材を投入するようになる。
その様子を見ていたグレイヴァスは、まるで思惑通りというように微笑みながら、さらなる発破をかける。
「師ならできるはずですよ。
王国が救われれば、誰もあなたを責めることなどないのです」
その言葉は、アールヴェルトの胸の奥を微かな不安と、同時に高揚感で満たしていった。
もし、闇の魔術を制御できれば、誰もが苦しまなくて済むのではないか――そうした高潔な思いが、ゆっくりと歪みはじめる。
恐るべき力を求める彼の姿勢を危ぶむ声はあったが、ひとたび成果が出れば人々は熱狂し、崇めるように称賛する。
アールヴェルトが闇の禁術の扉に手をかけようとするたび、周囲の期待が背中を押し続ける。
イシュランは師の名誉を認めつつ、どこか不安に胸をかき乱されていた。
王都の図書館の地下区画には、無数の巻物や呪具が封じられた保管庫がある。
そこには、闇の力を悪用して世界を破滅させかねない古代の呪術も眠っていると伝えられていた。
アールヴェルトは古い鍵を借り受け、立ち入りを禁止された扉の向こうへ足を踏み入れる。
ほの暗い灯火に浮かび上がる石造りの通路を進むうち、彼は手にした杖を強く握り締める。
胸中には人々を救う熱意があると信じながらも、心の片隅で理性の歯止めが外れかけているのを薄々感じていた。
さらには、その“失われた存在”を取り戻す糸口がここにあるかもしれない――そう考えると、彼の足は止まらなかった。
そして、誰も立ち入らない闇の書架の奥で、くぐもった空気に包まれた禁術の書を見つけたとき、アールヴェルトは瞳を大きく見開いた。
「これが……」
呟きながら、本の表紙を軽く撫でる。
深い紫の文様が呪術的な光を帯び、その瞬間、彼の手首に鈍い痛みが走る。
まるで何かが読み手を選んでいるかのように、歪んだ魔力がひそやかに胸を突き上げてきた。
外の世界では、まだ誰も知らない。
アールヴェルトがいま、どんな闇の淵へ足をかけようとしているのか。
かつて救いの象徴だった偉大な大魔導士が、“結果を出すためには手段を選ばない”という危うい一線を越えかけていることを、イシュランも教会も気づいてはいなかった。
書物から立ち上る瘴気に似た匂いが、微かに鼻を掠めるたび、アールヴェルトは背筋に疼くものを感じ取る。
その疼きが、王国を覆う災厄を一掃するための鍵だと信じたい気持ちと結びつく。
そして同時に、失った者を再び手にできるかもしれない――その幻影が彼を大きく突き動かしていた。
そうして、引き返す道はどこにもなくなりつつあった。
第3章「決裂への道」
夜の風が研究塔の窓から薄く吹きこみ、蠟燭の火を揺らしていた。
卓上には古文書や魔術書が無造作に積み重なり、その間には暗い色合いの試薬瓶が並んでいる。
アールヴェルトは白髪交じりの黒髪を乱れたままにし、静かな筆の音だけを響かせていた。
しかし、彼の眼差しはかつての穏やかさを失っている。
師として振る舞うときに見せた優美さや落ち着きは微塵も感じられず、紫色の宝珠をときおり撫でながら、何かに取り憑かれたような熱を帯びている。
扉の向こうで足音が止まった。
イシュランが恐る恐る部屋を覗き込み、怯えた様子で口を開く。
「師匠。
また、生きたままの魔物を塔に持ち込んだのですか。
この前の実験は……あまりにも」
声はかすかに震え、細身の体がローブの上からでもわかるほどこわばっている。
かつては師の言いつけを忠実に守り、心から尊敬していた彼女が、いまは苦しげに視線を伏せるばかりだ。
アールヴェルトは筆を置き、イシュランへ視線を向ける。
「イシュラン。
お前ならわかるはずだ。
強大な力を手にしなければ、国境に潜む魔獣も疫病も断ち切れん。
そのためには、犠牲が必要だ」
淡々とした声音には、どこか冷徹な響きが混じっていた。
書物の上には黒く染まった血痕のような跡が散見され、どれも生々しく拭いきれない。
「しかし、生きた生物をそのまま……。
これはあまりにも酷い」
イシュランは師のそばに歩み寄り、静かに訴えようとする。
だが、彼女の凛とした瞳は、アールヴェルトの紫宝珠から漂う奇妙な光を目にした瞬間、言葉を失う。
それは見ている者の心を抉るような暗い輝きで、まるで空洞に落ちていく感覚を呼び起こす。
イシュランは鼓動を早め、何か大切なものが崩れていく気配を抱いた。
そんな折、廊下の奥から白銀の髪を後ろに束ねたセレスティアが足早に姿を見せる。
清らかな白衣が塔の暗がりと対照的だが、瞳には強い意志が宿っていた。
彼女は教会を代表する高位聖職者として、闇の気配を見逃すつもりはないらしい。
イシュランの横をすり抜け、アールヴェルトと向き合うように立つ。
「大魔導士アールヴェルト。
あなたの研究が国にとって多大な恩恵をもたらしたのは認めます。
ですが、近頃は許し難い噂が絶えません。
禁忌に触れるような実験を繰り返し、多くの犠牲を伴っていると聞いています」
アールヴェルトは杖を軽く握り直す。
宝珠が紫色に脈打つように輝き、彼の周囲の空気がざわつく。
「噂というのは常に誇張されるものだ。
セレスティアよ、教会は私を何度も頼ってきたではないか。
ならば最後まで見守ってくれたらどうだ。
私の成果が、いずれすべてを救う」
彼の低い声には不気味な響きが混ざっており、セレスティアの眉がわずかにひそめられる。
「救うために、その手を汚しているのなら本末転倒です。
王国に必要なのは正道であり、闇の力などではありません」
セレスティアは強い口調で応じながら、純白の杖を構えた。
清らかな光が塔の床に一瞬だけ広がる。
しかしアールヴェルトは動じず、その手の甲にはいつの間にか異形の痣が浮かんでいる。
「私が正しい道を踏み外しているというのか。
ならば、お前たち教会が今まで成し得なかった問題をどう解決するつもりだ。
私が救わなければ、多くの命が散る。
この力を手放すわけにはいかない」
彼は痣を覆うように袖を引き上げ、すでに尋常でない魔力をまとっていることを隠そうとはしない。
狂気じみた眼差しが、塔の壁に映った影を歪めている。
そこへ足音を響かせながら、プレートアーマーを纏ったライオネルが現れる。
真っ直ぐな金髪碧眼の騎士団長は、逞しい体躯を揺らして魔導士の前に立ちはだかろうとする。
「アールヴェルト。
頼む、もうやめてくれ。
騎士団はこれ以上、民の悲鳴を聞き続けたくない。
お前なら、まだ引き返せる」
その懇願は、王国を守る責務を背負った騎士としての真摯な叫びだった。
アールヴェルトはライオネルを見下すように視線を送り、微かに唇を曲げて笑う。
「正義感だけでは世界を変えられん。
力なき正義は、ただ無力という言葉にしか過ぎない」
瞬きをする間もなく、紫の光が走り、ライオネルの足元に衝撃が走った。
砕けた石床が破片を撒き散らし、騎士団長の逞しい身体が大きく後退させられる。
闘い慣れたライオネルでさえ反応が遅れるほどの魔力の奔流が、空気を切り裂いた。
イシュランは悲鳴を上げ、セレスティアも咄嗟に結界を張る。
聖なる光が塔の内部を淡く染め上げるが、アールヴェルトの魔力を完全には封じ込めない。
「こんなにも……強大に」
セレスティアが苦々しく呟き、白衣の裾を翻す。
闇の魔術が塔の壁際を這うように広がり、二人の聖なる結界を軋ませていた。
アールヴェルトは杖をついたまま身体を反らし、何事かを小声で唱え始める。
その呪文の断片は聞き取れないが、嫌な金属音のような響きが混じり、塔全体の空気が淀む。
明らかに尋常な術式ではない。
イシュランは凍りついたように立ち尽くし、意を決して魔力を込めた回復魔法でライオネルの傷を癒そうとする。
だが、それよりも早くアールヴェルトが指先を翻した。
先ほどまで血生臭い試薬瓶のあった机が揺れ、震えるように霧散する。
紫宝珠の光が一際強く脈動し、部屋中に禍々しい輝きを放つ。
アールヴェルトの周囲に集まる闇の瘴気は、まるで一体の生物のように蠢き、彼の体躯を包み込む。
その瞬間、彼の背筋から骨ばった何かが突き出し、口元には乾いた笑みが浮かんだ。
セレスティアは驚愕の表情を浮かべながら後退する。
「まさか、そこまで堕ちてしまうのですか。
あなたは……人間であることを捨てる気ですか」
イシュランもまた立ち尽くし、涙をこぼしながら首を左右に振る。
視界の端には、アールヴェルトの体から生えた骨のような突起がはっきりと見えていた。
かつて多くの人々を救い、慕われていた師の姿は、もう目を凝らしても見当たらない。
冷たい息を吐く彼の胸の内には、もはや倫理や慈悲の片鱗すらないように思える。
ライオネルが再び立ち上がり、折れかけた剣を握り締める。
「くそ……どれだけの力を得たんだ」
赤い血がまだ彼の腕から滴っているが、それでも勇者としての意地でアールヴェルトに向かおうとする。
セレスティアは前に出るライオネルを止めようとするが、アールヴェルトが杖を叩きつける衝撃で二人の聖なる結界が砕かれ、轟音が塔を揺るがした。
その衝撃のただ中で、アールヴェルトの背に生えた骨ばった突起がさらに形を変え、彼の身体を覆う闇の鱗のようなものへ変質していく。
それは生者の常識を逸脱した姿で、アンデッドの力を象徴するかのようだった。
イシュランは恐怖と絶望の狭間で師を見つめる。
口を開きかけたが、震えで声が出ない。
アールヴェルトはそんな弟子を一瞥しただけで、儀式の最後の工程へ意識を集中した。
「この身を捧げよう。
いにしえの深淵より流れ込む力を、我が血と魂に刻む」
濁った呪文を唱えると同時に、塔の床から黒い霧が噴き出し、周囲の空間が歪む。
ライオネルとセレスティアは防御の魔法を唱えるが、この邪法に対抗するには力が足りず、身動きが取りにくい。
イシュランは最後の希望をかけ、護りと回復を組み合わせた呪文を必死に準備した。
しかし、その光すら闇に飲み込まれる。
アールヴェルトの身体が激しく揺れ、白髪交じりの黒髪がごう然と舞う。
骨が軋む嫌な音が響いたあと、彼の目にかすかに生者の色が戻ったように見えた。
だが、すぐにそれは打ち消され、瞳の奥は闇に沈む。
同時に塔の外壁が轟音とともに崩れ、アンデッド化の儀式は完成した。
何らかの拍動が周囲の空気を震わせ、アールヴェルトは淡く光る紫宝珠を握り締める。
視線を正面に戻すと、人間らしさを剥奪した狂気の雰囲気を漂わせていた。
ライオネルもセレスティアも、打ちひしがれるようにその変貌を見つめる。
イシュランは両手を杖に添えて立ち尽くす。
彼女の瞳には熱いものが込み上げるが、師に近づくこともできない。
わずかに残っていた温もりを捨て去り、完全にアンデッドと化した瞬間を目撃しながら、誰も言葉を発することができなかった。
アールヴェルトは杖を握りしめたまま一歩を踏み出し、その様子はもはや人間という種から逸脱している。
冷たい石床に残る血の跡を踏みしめ、魔力の余波で闇がわずかに揺らめいた。
塔の内部にいた生き物の叫びや呻きが、遠く遠くへ消えていくように響く。
そして、一歩、また一歩と歩を進める彼は、慈悲深い大魔導士ではなく、倫理をかなぐり捨てたアンデッドリッチとしての姿だけを映し出していた。
第4章「最終決戦の火蓋」
王国の広場には、かつてない数の兵士と魔導士が集結していた。
どこを見渡しても甲冑のきらめきと、戦意を奮い立たせるような怒号が入り混じっている。
教会もまた動員令を出し、聖職者たちが回復・防御魔法の準備に奔走していた。
美しい白銀の髪を後ろに束ねたセレスティアは、結界の儀式を指揮しながら周囲を厳しい眼差しで見回している。
教会に集う者たちは一斉に祈りの声を上げるが、その端々に感じられるのは焦燥と不安の混ざった重苦しい空気だった。
王国騎士団長ライオネルは、傷だらけのマントを翻しながら兵たちの列の合間を行き来している。
金髪碧眼の瞳に、いつもの勇壮さはさほど浮かんでいない。
「皆、怯むな。
あの闇を放置すれば、もっと多くの命が失われる」
彼の言葉に応じるように、兵士たちが刀剣の柄を握り締めた。
だが、どこか神経質な動きが目立ち、隊列にも硬直が見える。
離れた場所では、宰相グレイヴァスが貴族や商人を囲んで談笑している。
豪奢な衣服や宝飾品を目立つように誇示しながら、言葉の端々に“国家存亡の危機”を織り込んでいた。
「この未曽有の脅威に対抗し得るのは、我々の結束しかありませんぞ。
兵糧や資金の協力を惜しまぬ方には、戦後の褒美も十分に検討させていただきます」
軽やかな口調と品のある表情の裏で、計算高い思惑を巡らせているのが見え隠れする。
彼はこの危機を最大限に利用して、自らの権力をさらに押し上げようとしていた。
その一方、イシュランは遠巻きにその光景を見つめている。
黒髪を三つ編みに束ねた細身の姿は小刻みに震えていた。
やがて彼女は意を決したように顔を上げ、ローブの裾を握りしめる。
周囲の喧騒が遠く感じられ、師のアンデッド化を目の当たりにしたときの惨状が脳裏を離れない。
「あのままでは……本当に全てが滅びてしまう」
か細い声には、深い悲痛がこもっていた。
黄昏の空が赤く染まる頃、王国を挙げて結成された討伐軍は出発の時を迎える。
前方には、教会から派遣された聖職者や結界術師たちが並び、後方にライオネル率いる騎士団の重装兵が続く。
さらに遠巻きには、グレイヴァスの差し金で臨時に徴集された傭兵や、名誉を求める若い貴族たちが騎馬をそろえていた。
巨大な軍勢が街道を埋め尽くし、足音と馬蹄の響きは大地を震わせている。
イシュランはその列の中ほどで、ぎこちなく杖を携えながら歩を進めていた。
日が沈むと同時に、彼方にそびえるアールヴェルトの城が闇の中に不気味な影を落とし始める。
既に周囲の大地には見慣れない紫の瘴気が漂っており、枯れた木々が腐ったように傾いている。
ライオネルが拳を突き上げ、隊を止める。
「結界がこちらまで張り巡らされている。
あれがアールヴェルトの仕業か……」
彼の声には怒りとわずかな動揺が感じられる。
セレスティアが馬から降り、白衣の裾を翻して地面に膝をつく。
魔術陣を展開し、聖なる光を放とうと試みたが、遠方から押し寄せる闇の力がそれを阻むように揺らめいた。
「強力な結界です。
これほど広範囲に闇を行き渡らせるとは……」
彼女は額にうっすら汗をにじませ、周囲を伺う。
すでに森の奥からアンデッドの唸り声が響き、無数の亡者がうごめきながらこちらに迫ってきた。
グレイヴァスは自らの護衛を従え、軍勢の後方で口元だけをにやりと緩める。
「ふむ、見た目以上にあの“怪物”の力は規格外のようだ。
ならば、ここで一気に蹴散らしてもらわねば困るな」
その視線には、戦況を操れるという自信が垣間見えるが、実際には城から生まれる闇の結界が予想を超える勢いで広がり始めていた。
誰もが目撃する形で、周囲の景色が徐々に闇の帳に覆われていく。
「このままでは分断されるぞ。
前衛を厚くして城門まで突き進め」
ライオネルが声を張り上げ、騎士団へと合図を送る。
先頭に立った重装兵が槍を構え、聖職者たちは聖水の瓶を手に唱和を開始した。
イシュランは一瞬だけ目を閉じ、意を決して師を止めるための呪文を頭の中で組み立てる。
時々、ローブの下で震える手を必死に握り締めながら、前方を見据えた。
いざ進軍が始まると、森の闇から腐り果てた兵士の亡骸がわらわらと這い出してくる。
皮膚が崩れ落ち、白骨がむき出しになった死者たちが、異様な声を上げて突撃してくる。
騎馬隊は一時的に突破口を開くものの、地面からはいくらでもアンデッドが湧き出して途切れる気配がない。
ライオネルが剣を振り下ろし、イシュランが回復と防御の複合魔法で味方を支援する。
セレスティアは浄化の光を広範囲に照射しようと力を込めるが、結界の干渉で術の威力が思うように出せない。
「あの城を直接叩くしかない」
ライオネルの声が背後の兵に轟く。
彼は自身が前に出ることで士気を高めようとし、血まみれのマントを翻して亡者の群れをかき分けて進んでいく。
その背後でイシュランは必死に唱えた呪文を味方へ注ぎ、何とか前線を持ちこたえさせる。
一方、グレイヴァスは軍の後方で複数の将校と地図を広げている。
「いまここで討伐軍が苦戦すれば、私の権力はさらに……いや、そうなる前にこの“危機”を解決するというシナリオも悪くはない。
いずれにせよ、勝敗を見極めてから動けばよい」
彼の言葉に、顔色を曇らせる部下もいるが、何も言い返せないまま黙り込む。
やがて戦場の中心には、アンデッド化した騎士や魔物が絶え間なく出現し、討伐軍の隊列は混沌と化していった。
ライオネルとイシュラン、そしてセレスティアの三人がかろうじて前衛を支え、突破口を探ろうと試みる。
そこへ、もの凄い衝撃波が闇の方向から放たれ、地面が吹き上がるほどの轟音が鳴り響いた。
「あれは……!」
イシュランが息を呑んで視線を向ける。
遠く城の尖塔が紫色の閃光に包まれ、周囲の空気が震えているのがわかる。
アンデッドの軍勢の背後に、かつての大魔導士の面影をわずかに残す恐るべき支配者が立っているはずだ。
ライオネルは鎧の隙間から吹き出る血を押さえながら、剣を握りしめて前を睨む。
「アールヴェルト……今度こそ……」
彼の言葉は、自分を鼓舞するというよりも、呪いのように繰り返す響きを帯びていた。
討伐軍は暗闇のなか、軍勢を建て直そうとしても絶え間なく襲ってくる死者の波に足を取られ、徐々に進軍速度を落とし始める。
それでも退けば、この闇が王国中を覆い尽くす。
イシュランは息を詰め、師を救える可能性を捨てきれないまま、戦線を維持する回復魔法を周囲へと放つ。
しかし、すぐ近くで断末魔が上がり、兵士が一人、また一人と地面に沈んでいく。
やがて、紫の瘴気が城からさらに濃く吹き荒れ、夜空にまで黒い雲が渦を巻いて広がっていった。
世界そのものが闇の魔力に浸食されるかのような錯覚を覚える。
どこからか風に乗って、低く不気味な声が響いた。
あれほど華々しかった討伐軍の出陣も、いまや戦慄と苦悶が支配する地獄絵図へと変わり果てている。
大地が軋み、腐敗した匂いが広がり、兵たちは己の武器を握り締めながら絶望と隣り合わせに立ち向かうしかなかった。
遠く、城の尖塔から怪しげに揺らめく光の中心に、アールヴェルトの姿があるのだろうか。
その姿を想像するだけで、誰もが背筋を凍らせる。
ライオネルは崩れかけた防御陣をどうにか立て直しながら、城へつながる唯一の道を見出そうと奔走する。
イシュランは涙を必死に拭い、少しでも多くの命を守るために杖を握り続ける。
セレスティアは大規模浄化の儀式に賭ける覚悟を固め、白衣をたくし上げて詠唱の準備を急ぐ。
グレイヴァスだけは、深い闇を前にしながらもどこか冷静なまなざしを宿している。
この混乱がいつまで続くのかを推し量りつつ、自分に最適な勝ち筋を探り続けているのが明白だ。
それぞれの思惑が交錯するなか、狂乱に満ちたアンデッドの叫び声が戦場を震わせる。
もはや誰にもこの戦いを止める術はないのかと、兵たちが一瞬自問する。
しかし、立ち止まるわけにはいかない。
ライオネル、イシュラン、セレスティア――誰もが失われていく命と、迫りくる闇を前にして、どうにか意志を繋ぎ止めようとする。
この強襲を突破しなければ、王国の明日は永久に閉ざされる。
空をかき乱す瘴気の渦の下で、最終決戦の火蓋はすでに落とされている。
第5章「世界の破局」
凄まじい雷鳴が夜空を揺るがした。
紫色の瘴気に満ちた空気が地平線まで覆い尽くし、討伐軍の兵たちはその圧迫感に息を呑む。
先ほどまで勇敢に隊列を維持していたはずの者たちが、アンデッドの猛攻を受けて次々と崩れ落ち、地面を転がりながら血の沼へ沈んでいった。
白銀の髪を後ろにまとめたセレスティアは、祈りを捧げるように杖を握り締めるが、その清らかな光は暗黒の結界に阻まれてじわじわと砕けつつある。
「浄化の光が、あれほどまでに……」
彼女は声を落とし、周囲に散る重傷の兵に向かって回復の術式を施す。
しかし結界の干渉は強大で、まるで岩を貫こうとするような手応えのなさがセレスティアの意思をへし折ろうとする。
「ここを乗り切らなければ、みんなが……」
イシュランは半ば泣き叫ぶように呪文を組み立て、崩れ落ちた兵士を必死に支援する。
彼女の細身の身体は震え、黒髪の三つ編みが血と泥で汚れていた。
けれど、師を止めるという自分の決意だけがかろうじて心を支えているようにも見える。
戦場の中央付近では、王国騎士団長ライオネルの傷だらけのマントが風に煽られていた。
金髪碧眼の瞳に宿る炎はいまだ消えていないが、剣を持つ腕は血を流し、甲冑の継ぎ目からは痛ましいほどの裂傷がうかがえる。
「アールヴェルト、出てこい……!」
呪詛にも似た声を上げ、亡者の群れをかき分けようとするが、その歩みは何度も闇の魔術に押し返される。
腐り落ちた屍兵が咆哮を上げ、ライオネルの足元にまとわりつくように群がってくる。
幾度目かの衝撃が戦場をゆさぶり、地面が大きく裂けた。
土煙の奥から見え隠れするのは、既に原型を失った城の砦壁だ。
かつて堂々としていた王国の防衛線が見る影もなく崩れ、そこからアンデッドや邪悪な魔物たちが際限なく溢れ出す。
宰相グレイヴァスは後方で護衛を従えながら地図を握り、顔を顰めている。
「どうやら予想以上の事態、か。
だが、まだ私が動く時ではない」
彼の視線の先では、兵たちが血まみれで必死に生存を図る姿が見えた。
それを誰が救うのかは、まるで他人事のように口元を歪める。
やがて、城の尖塔から凄まじい魔力の奔流が噴き上がり、空一面がくすんだ紫色に染まった。
恐ろしいほど鋭い音が耳を裂き、討伐軍の兵たちは悲鳴と恐怖に打ちひしがれる。
その視線の先に浮かび上がったのは、骨と干からびた肉体が衣装の合間から見え隠れする、不気味な影。
杖の先端に抱く紫の宝珠が脈動し、まるで心臓の鼓動のように世界を揺るがせていた。
「アールヴェルト……」
イシュランがその姿を見つけ、苦しげに低い声をもらす。
今ではアンデッドリッチと化した彼が、瘴気の渦を纏って城砦の上に立っている。
周囲に蠢くアンデッドの群れは、その意志に呼応するかのように一斉に吠え声を上げた。
ライオネルは剣を握り直し、玉砕覚悟の足取りで前へ進む。
「ここで終わらせるわけにはいかん。
皆が報われん……!」
金髪の束から流れ落ちる血は、彼が限界を超えていることを物語っていたが、騎士団長としての義務感はわずかな力を奮い起こさせる。
セレスティアは呼吸を整え、白衣の裾をたくし上げて大規模な結界の詠唱を開始する。
幾重にも重なる聖なる文字が宙を舞い、光の輪が彼女の周囲に幾層も広がる。
「これで……一気に浄化を……!」
だが、アールヴェルトの杖が一瞬だけ光を放つと、その聖なる陣は激しい軋みを立てて砕け散る。
結界の破片が空を舞い散り、セレスティアが短い悲鳴を上げて膝をつく。
「なんという力……教会の聖術すらここまで封じるのか」
彼女は震える声で呟き、唇を噛み締める。
突如として、アールヴェルトがゆっくりと杖を掲げた。
そこから放たれたのは見たことのない深い闇の奔流で、討伐軍の頭上を覆うように広がっていく。
空気そのものが黒く染まり、地表を揺さぶる振動が襲いかかる。
まるで世界が崩落してしまうかのような不穏な鼓動が大地に響き渡った。
イシュランは必死に目を見開き、師の姿を探る。
「師匠、聞いてください。
もう……こんなこと、やめて」
彼女が震える声で呼びかけても、アールヴェルトは振り向かない。
その姿はすでに“生前の大魔導士”とは全くの別人だ。
同時に、アールヴェルトの口から低い呟きが聞こえてきた。
「すべては、失われた愛する者を取り戻すため……」
イシュランはその言葉に思わず息を呑む。
アンデッドリッチとなった師の内面に残っていた執念が、今、世界を巻き込む破局の原動力となっているのだと痛感する。
アールヴェルトは紫宝珠を握り締め、深い闇のうねりをさらに増幅させる。
「私には…どうしても叶えたい願いがあった。
あの人を、あの子を、二度と失わないために――どれほど魔術を極めても、死という壁は越えられない。
ならば、生の側から届かないならば、自ら死の側へ踏み込むしかないだろう……」
途切れ途切れの声に混じるのは、かつて癒しと救いを与えた慈悲深い魔導士の苦悩だ。
しかし、アールヴェルトは視線を伏せたまま杖を胸に抱き、唇を歪ませるように微動させる。
「愛する者を蘇らせ、永遠に隣にいてもらう。
そのためには、私自身が死を支配しなければならないと知った。
生のままではいつかまた誰かが、この手からこぼれ落ちていくから……」
闇の力を宿したその独白は、かつてのアールヴェルトが払った代償の大きさを物語っていた。
王国の民を幾度も助けた名誉ある魔導士が、不死の領域へ自らを変質させるなど、普通ならばあり得ない選択。
だが、失ったものを取り戻すために深淵を覗き続けた結果、歪んだ答えへと行き着いてしまったのだ。
「死こそが永遠……この世界を死の領域へ変えれば、命は二度と失われることはない。
この手段以外に、どこに救いがある……?」
苛立ちと悲痛が入り混じった声が夜風にこだまする。
元々は慈悲深く人望を集めていた大魔導士が、死者の領域という極端な解法に狂信してしまった――イシュランはそれを理解してしまい、胸が締めつけられる。
ライオネルは血の滲む唇を噛みながら必死に叫ぶ。
「それが本当に救いなのか……!
お前が奪った命はどうなる。
お前を慕っていた人々が、どんな思いで……」
しかしアールヴェルトは聞く耳を持たない。
すでに狂気の淵でしか呼吸をしていないような瞳が、闇の儀式に没頭し、周囲を切り捨てていく。
セレスティアはふらつく体を支えつつ、浄化の光を再度試みようとする。
だが、アールヴェルトの放った“禁断の大魔術”が戦場全体を包み込み、その浄化の意志を根こそぎ砕きにかかる。
腐乱した亡者たちが結界の破片を踏み砕きながら前進し、討伐軍はさらなる苦境に陥る。
その混沌の只中、イシュランは師を説得しようと最後の力を振り絞った。
震える足で前へ進み、歯を喰いしばってアールヴェルトのいる高台へ呼びかける。
「師匠……私たちはあなたの理想を信じていた。
それは、人々が笑顔で生きられる未来を作ることだったはず。
なのに、どうして――」
彼女の言葉が闇の暴風にかき消されそうになりながらも、わずかに届いたかのように見える。
アールヴェルトは瞳を動かさないまま、かすかに口を開く。
「人々を救うために、あれほど努力した結果が、全てを失う痛みだった。
永遠に失わないためには、すべてが死のまま止まればいい。
この世界を、私の知る“永遠”へ導く。
それが、唯一の解だ」
その言葉を聞いた瞬間、イシュランの表情から血の気が失せる。
説得の余地はないのか、と痛感しながらも、どこかに師の良心が残っているかもしれないと希う気持ちが彼女を突き動かす。
だが、城の周囲を見回したとき、血塗れの兵とアンデッドの混沌が広がっている現実が否応なく目に映った。
世界が崩れ落ちていく感覚と、師を失う恐怖が同時に押し寄せる。
「イシュラン、下がれ!
あれは……もう、手遅れかもしれん」
ライオネルが声を振り絞り、イシュランをかばうように立ち塞がる。
その刹那、アールヴェルトの闇の奔流が再び炸裂し、討伐軍の兵たちが絶叫とともに吹き飛ばされた。
セレスティアも結界を破られ、膝をついた状態で苦しそうに呼吸を繰り返している。
戦場に轟く雷鳴のごとき魔力の衝撃が止まない。
腐敗した死体の瘴気がさらに勢いを増し、兵士たちはまともに呼吸もできないまま意識を手放していく。
ライオネルは咳き込みながらも、剣を地面に突き立てて必死に立ち上がろうとする。
「まだ終わってない……諦めるわけには……」
しかし、アールヴェルトの杖が再び空を指し示し、禁断の術式が完成へと向かっていく。
世界が闇の領域へ変わるその予兆は、もはや誰の目にも明らかだ。
紫色の宝珠が脈打つたびに、大地を覆う闇のベールが何重にも重なり、人々の叫びと嘆きが飲み込まれていく。
「師匠……」
イシュランは膝をついて杖を抱きしめながら、後悔と悲しみの狭間に取り残される。
どんな呪文を組み合わせても、この破局を止めるのは難しいと痛感しながらも、それでも彼女は杖に魔力を込めて唱え続ける。
せめて、わずかな命を救うことだけでも――その一心が、血に濡れたローブの裾を引きずらせながら術式を組み上げさせる。
アールヴェルトの目には深い闇の色が宿り、世界を死の領域へ変貌させる儀式は最終段階へと近づいている。
狂気と悲願が同居した彼の姿を、ライオネルやセレスティア、そしてイシュランが見つめる。
誰もがこの結末を変えたいと願いつつも、すべてを飲み込もうとする闇に飲まれかけていた。
そして、闇が一段と濃く脈打つ。
地平の果てまでも震わせる破滅の鼓動が、王国全土に響きわたる――。
エピローグ
黒い瘴気が大地を覆い尽くしていた。
折れた剣や斬り落とされた鎧の一部が、荒涼とした瓦礫の中に乱雑に散らばり、どこからか低い嗚咽のような音が響いては、すぐに闇に呑まれていく。
城の尖塔はもはや原形を失い、そこを吹き抜ける風はねじれた音を生みながら吹き荒んでいた。
かろうじて意識を保っていたライオネルが崩れた石壁に背を預け、荒い息を吐き出す。
血まみれのマントは裂け、鋼鉄の鎧の隙間からは黒ずんだ血がじわりと滲み続けている。
「……まだ、くたばるわけには」
震える声でそれだけ呟いたが、周囲に味方の姿はほとんどない。
息絶えた兵の亡骸ばかりが目に入り、彼はかすかに目を伏せる。
崩れた床の向こう、仰向けに倒れたセレスティアは白衣が泥と血で汚れ、か細い息を繰り返していた。
指先はわずかに動いているようだが、触れた結界の残骸は砕け散っており、もはやまともな浄化の術を組み立てる力は残されていない。
かつて清廉な意志を宿していた瞳も闇に曇り、紫色の瘴気が彼女の唇に触れるたびに絶望が深く沈み込むようだった。
不吉な響きが森の奥からこだまする最中、あの宰相グレイヴァスの姿もちらりと見えた。
豪奢な衣服は大半を失い、傷だらけの顔に絶望を滲ませながらも、闇に呑まれまいと必死に逃げ回っている。
その背後へ黒い霧がうねりを立てて押し寄せると、彼は護衛を捨て置くように走り去ろうとした。
だが、瘴気が足を絡め取ると、彼の細い悲鳴が小さく響き、光を失った瞳が揺らいだまま床へ崩れ落ちる。
そして、その身体は痙攣を繰り返すようにのけぞった後、緩やかに立ち上がる。
意識の残滓など感じられない、半ば朽ちた屍のような姿で。
砕かれた床の亀裂のそばに、イシュランが膝をついている。
ローブの裾は破れ、黒髪の三つ編みは乱れ、血と泥にまみれていた。
杖を握った手は震え続け、何度も回復の術を試みるが、闇の瘴気がそれを阻んでいる。
「師匠……」
それだけを繰り返すように呟く彼女の声も、やがて空気に溶けるようにかすれていく。
傷口から滴る血が紫色の霧に混ざり、彼女の肌は次第に死人のような色へ変わり始めた。
足元から黒い網目が走り、骨と肉がきしむ音がかすかに聞こえる。
かつて優しかった表情は悲しみを宿したまま、静かに崩れ――闇の支配に屈するかのようにイシュランは細いうめき声を上げる。
しばらくもがいた後、彼女はゆっくりと起き上がった。
だが、その瞳は先ほどまでの慈愛ではなく、濁ったアンデッドの光を宿している。
ライオネルは血の混じった咳を繰り返しながら、アンデッドへと堕ちゆく光景を遠巻きに見ていた。
自らもまた、この腐った空気を吸い込むたびに意識が薄れ、身体の感覚が死へ染まっていくのを感じる。
「ここで……終わるのか……」
震える腕に力がこもらず、剣を取り落とした。
鎧の継ぎ目から紫黒い瘴気が染み込むように広がり、金髪碧眼の瞳がゆっくりと色を失っていく。
やがて、かすかな咆哮とも呻き声ともいえぬ音が彼の喉を振るわせ、すっと立ち上がる姿はかつての誇りを感じさせない無機質なものだった。
王国騎士団長は今や、生きながらえた死者のひとりとして、闇の命令に従う屍となる。
白衣のセレスティアが宙をつかむように弱々しく手を伸ばした。
だが、その手は自らの意志で動いているというよりは痙攣のようにぴくぴくと曲がり、白目を剥いた瞳は焦点を失っている。
聖職者としての信仰は砕け、代わりに侵食する黒い紋様が肌を蝕んでいく。
最後の一呼吸とともに喉から血混じりの声が漏れ、セレスティアは地を這うように身体を起こした。
死の瘴気を取り込み、不浄な存在へと堕ちた高位聖職者は、もはや救いを説くこともなく人々を襲う亡者となって徘徊を始める。
アールヴェルトは杖を握りしめながら、この大陸そのものを覆う死の領域を見下ろしている。
無数の兵や市民の屍が立ち上がり、グレイヴァスをはじめとする権力者すら黒い網目に囚われ、国を守ろうとした騎士も聖職者も弟子さえも皆、死者の行列に加わっていた。
「皆、死で結ばれれば、もう失うものはない……」
その言葉には、どこか解放されたような憐憫と、取り返しのつかない悲しみが混在している。
ライオネルは血に濡れた剣を握りしめたまま、よろめきながらもアールヴェルトの背へ近づく。
しかし、その足取りには既に生の意志がなく、半分崩れかけた甲冑の隙間から覗く皮膚は青黒く変色している。
イシュランもまた、か細い足取りでその場に現れるが、複雑な面影を残したまま、アンデッドの瞳で師を見上げる。
かつての敬愛の情があるのか、ないのか、彼女の口は動かない。
セレスティアも腐りかけた白衣を引きずり、グレイヴァスは奇声を発しながら体を引きずるようにして城の跡へ集結する。
すでに人間だった面影は薄れ、複数の魂が死の共鳴を喉の奥から吐き出しているかのようだ。
静寂を打ち破るのは、アンデッドたちの無数の呻き声と、この荒野を満たす黒き霧だけ。
かつて王国を象徴した人々――ライオネル、セレスティア、イシュラン、グレイヴァス――その全員が生きながらに死に染められ、今や永遠の中を彷徨う屍と化した。
荒廃した王国の地平には、絶望の叫びが薄れながら轟き続けている。
黒い霧が巻き上がり、かつて栄華を極めた街や村、そして人々の営みを覆い尽くしていく。
誰一人としてこれを止める術を持たず、あらゆる希望が噛み砕かれていくかのようだった。
すべてが闇に呑まれた風景の中央に、アールヴェルトの姿がある。
紫色の宝珠は脈打ちを止めず、死と永遠をもたらす力をこの大陸に行き渡らせる。
かつては慈悲深く、人望を集めた偉大な大魔導士。
いまは彼が創り出した死の世界に、誰もが屍として付き従っている。
大陸のどこを見渡しても、闇の帳に覆われ、腐った空気が漂うばかり。
ライオネル、イシュラン、セレスティア、グレイヴァス――それぞれが黒い瘴気に染められたアンデッドとして大地を徘徊し、永遠に近い時を過ごすしかない。
かつて王国と呼ばれた土地は、今や死者の行進が続く荒野となり、風だけがそこを通り過ぎていく。
そして、沈黙。
暗黒が覆いつくした世界の中、わずかな時間だけが流れる。
やがて人間の言葉を発する者は完全に途絶え、黒い霧の中には亡者たちの低いうめき声だけが果てしなく行進を続ける音を響かせる。
朽ち果てた王国の中心で、アンデッドリッチのアールヴェルトは杖を握りしめながらただ立ち尽くしている。
紫色の宝珠が脈を打ち続けるたびに、彼の足下にはかつての弟子も騎士団長も聖職者も宰相も、皆が屍となった姿でひれ伏すかのように揺れ動いていた。
その干からびた口元がわずかに歪んでいるのか、あるいは微動だにしないのか――もはや誰も確かめる術はない。