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砂上の楼閣 ~消えた常温核融合

第1章 予兆

イギリス南部のサウサンプトン大学にある電気化学の研究室で、マーティン・フライシュマンは小さく息をついた。
床に固定された実験台の上には、透明なガラス容器とパラジウム製の電極が並んでいる。
重水が満たされた電解槽の表面は静かで、耳を澄ますと空調の低い唸りがわずかに聞こえるだけだった。

1980年代後半、核融合という言葉を聞けば、誰もが太陽を連想していた。
高温高圧の環境でのみ可能と信じられる現象が、こんな室温の実験室で起こるはずがない――それが大多数の学者の認識だった。
けれどフライシュマンは、電気化学的な手法で重水素をパラジウム電極に高密度に吸収させれば、常温下でも何らかの核反応が起こる可能性があるのではないか、と大胆に考えていた。

試行錯誤を続けるうち、予想外の余剰熱が測定される瞬間があった。
当然ながら、多くの研究者は口をそろえて「誤差だ」「そんなことはあり得ない」と指摘した。
「もし本当に核融合なら、中性子線や放射線が大量に検出されるだろう」
「計測の初歩的なミスじゃないのか」
そのような反応を受けつつ、彼はなお装置の調整を重ねてきた。

実験台の隅に置かれたカロリメーターは、通電中にどれだけの熱量が発生したかを正確に測定するため、厳密な校正がほどこされている。
フライシュマンはノートをめくりながら温度変化と入力電力の数値を見比べ、ほんの少しだけ眉をひそめた。
「小さな誤差にしては繰り返し検出されすぎる」
そう心の中で呟き、蛍光灯の下で計算を繰り返す。

夜も更け、建物の廊下がひっそりと暗くなったころ、ガラス容器をのぞき込んだ彼は小さく息を漏らす。
「まるで、水槽の底に何か潜んでいるようだ」
重水の透明な表面が、声に応じるように揺れた気がした。
装置を見つめる彼の視線には、不安と期待の色が交錯している。

この時期、フライシュマンと共同研究を進めていたのが、アメリカ・ユタ大学のスタンレー・ポンズだった。
遠く離れたユタ州で、同じ種類の実験が並行して行われている。
フライシュマンはときどき国際電話をかけ、「装置の不調はないか」「カロリメーターの校正はうまくいっているか」などと確認していた。
ポンズもまた、誤差やノイズをどこまで取り除けるかに執着し、ユタ大学の研究費をやりくりしていた。

しかし、アメリカの研究環境は一筋縄ではいかない。
ユタ大学の近隣にはブリガムヤング大学があり、そこでミューオン触媒核融合を研究するジョーンズ教授との先取権争いがささやかれ始めていると聞こえてきた。
「どちらが先に“常温下での核融合”らしき現象を報告するか」
そんな競争めいた噂話が、自然と耳に入ってくるのだ。

さらに、ユタ大学やユタ州自身が財政難を抱えている、という背景も漏れ伝わってきていた。
新たな研究成果で一気に資金を引き寄せたい――そんな大学上層部の思惑がちらつくこともあるらしい。
実際、フライシュマンの知人経由で「アメリカ議会に呼ばれることになるかもしれないぞ」という冗談めいた話を聞いたこともある。
一歩間違えば、まだ十分に詰めきれていない実験データを政治の場にさらしてしまう危険性さえ感じる。

それでもフライシュマンは、もう少しここで実験を続けていれば何か大きな手がかりを得られるはずだ、と信じていた。
「計測装置を最適化し、パラジウム電極をもっと均質に仕上げれば、この余剰熱がはっきりした形で示せるかもしれない」
そう思うたび、夜更けまで白衣で装置を眺めている。

研究室の片隅に貼られた新聞の切り抜きには「エネルギー省、核融合研究への大型投資」と大きな文字が躍っていた。
だが、それは高温核融合に限った話で、常温核融合に関するニュースはどこにも見当たらない。
むしろ、もしそんな現象が本当にあるならノーベル賞クラスの発見だ、などという過熱した噂がメディアの断片的な記事で広まりはじめ、やがて嘲笑や批判も呼び寄せかねない雰囲気が漂っていた。

ふと時計を見れば、もう午前二時を過ぎている。
「実験を中断して休むべきか」
考え込むように額に手を当てるが、実験のデータを放置するのも惜しい。
わずかな熱量の違いが、誤差か現象の核心かを分ける鍵となりうる。

「ポンズがユタ大学で言っていたように、メディアが騒ぎ出すと厄介かもしれない。
私たちの研究はまだ途中段階にすぎない」
そう自分に言い聞かせるように、フライシュマンはデスクに戻り計算式を再確認する。
温度計と電力計の数値を慎重に拾い上げては、ノートに書きつけていく。

ユタ州では政治的な思惑も絡み、大学当局が注目するプロジェクトとして常温核融合を扱っているという話も小耳にはさんだ。
もしこのまま実験結果が出ないなら、資金面での締めつけが始まるかもしれない。
逆に、もし確たる証拠が出れば、州政府や企業の投資が一気に流れ込み、メディアがさらなるヒステリックな報道合戦を引き起こすのではないか――どちらにせよ不安材料ばかりが頭をよぎる。

けれども、今は純粋に研究に没頭するしか道はない。
装置のスイッチを入れ直すと、再び微かな電流の音が響いてくる。
「これが単なる思い違いか、それとも世界を変える発見か……」
そう小さく呟きながら、フライシュマンは実験台の上でかすかに揺れる重水の表面を見つめていた。

廊下を吹き抜ける風のような静けさが、研究室全体を包んでいる。
遠くアメリカのユタ大学では、このとき既にポンズが同じ手法で似た数値をつかんでいる。
二人の研究は、このまま進めば学界の枠を飛び越え、政治や社会をも巻き込む騒動へとつながりかねない――そんな予感が、まだうっすらと漂うだけの夜だった。

第2章 出会い

ユタ大学の研究室でスタンレー・ポンズがカロリメーターのデータを眺めていたとき、古い電話のベルが鳴った。
受話器を取ると、低く響く声でフライシュマンが言う。
「こちらも測定結果が出始めたが、どうも熱量が単なる誤差とは思えないんだ」
ポンズは椅子に深く腰かけ、目の前の計算ノートを見つめる。
「こっちも似た状況だ。入力電力を上回る発熱を何度か捉えている。
ただのノイズとは言い切れないし、でも、確信を持つにはまだ心許ない」

しばらく無言が続いたあと、フライシュマンの声が遠慮がちに聞こえた。
「今は誰にも公表すべき時期じゃないかもしれない。
それでも、別の研究チームが先に報告してしまう前に何らかの形を整えないと、僕らが築き上げてきた実験が埋もれる気がしてね」
ポンズは受話器を握り直し、机の端に置かれた新聞記事に目をやる。
そこには“ミューオン触媒核融合”で名を上げたブリガムヤング大学のジョーンズ教授の動向が小さく報じられていた。
「ジョーンズ教授が先取権を狙ってる、という噂は本当らしい。
ただ、僕らの現象と同じかどうかは別問題だが、ユタ大学の上層部が妙に早期の発表を急かしているのは確かだ」

電話を切ったあと、ポンズは研究室の奥へと足を運んだ。
試料を浸したガラス容器が微かに光を反射している。
近寄ってみると、重水の表面が静かにたゆたっているようだ。
パラジウム電極を通じて重水素を押し込んでいるこの実験装置は、ユタ大学の財政難を打破する切り札として期待されつつある――そんな噂を、学内のスタッフがささやいていた。
「話題になれば資金が集まる。
けれど、観測結果が誤差だと判明したらどうなる?」
彼は声には出さず、その問いを自分に向ける。

翌週、ふたりは学会のためにサンフランシスコへ足を運ぶことになった。
“常温核融合らしき現象”について口頭で少し触れるという計画だが、どこまで話していいものかポンズは迷っていた。
講演会場の廊下には、メディアの人間も混じっているらしく、どこか落ち着かない空気が流れている。
「スタンレー、今回はデータの断片を示す程度にしておいたほうがいい。
まだ再現性が十分じゃない」
フライシュマンがファイルを抱えたまま低くささやいた。
しかし、その背後で地元紙の記者らしき人物が手帳を広げているのが視界の端に見えた。

小規模なセッションで、ポンズはパラジウム電極を用いた実験で“興味深い熱の上昇”があるとだけ述べた。
質疑応答では、「中性子やガンマ線の検出はどうなのか」「仮に核融合なら放射線が必須ではないのか」と突っ込まれ、彼はなんとか曖昧に答えて切り抜ける。
「強い放射線は観測されないが、それが核融合を否定する決定打にはならないかもしれない。
化学反応では説明しきれない熱量が見えている以上、もっと多角的な検証が必要だ」
会場の片隅でメモを取っていた何人かの記者が動きを見せ、翌日には地元の科学雑誌に小さな記事が載った。
“ユタ大学のポンズ教授、常温核融合を示唆?”――その見出しは思いのほか刺激的に映る。

学会から戻ると、ユタ大学の上層部が彼らを呼び出してきた。
「研究費の増額を認めたいが、確固たる証拠が必要だ」
学長補佐という肩書きの男が、資料を机の上に並べながら言う。
「州政府も常温核融合の噂に関心を持ち始めている。
実際、1989年4月にはポンズ教授を議会に呼ぶ話も浮上している。
もし確立された成果として提示できるなら、大きな資金が得られるだろう」
ポンズは返事に困りながらも、すぐに首を縦には振らなかった。
「まだ不確定要素が多いんです。
ここで性急な結論を出せば、科学者としての信頼を失う可能性があります」

それでも大学関係者は、ユタ州の財政難と研究評価を一度に解決する道として、この常温核融合のプロジェクトを押し出そうとしているらしい。
フライシュマンもサウサンプトンで似た話を耳にしていた。
「ユタ大学の政治的事情とメディアの過剰報道が結びつくと、予想もしないかたちで世間に広まる恐れがある」
彼はポンズ宛ての手紙にそう綴り、同時にこうも書いている。
「僕らの実験が国家的関心事になるのは喜ぶべきなのか、恐れるべきなのか、正直わからない」

数日後、ポンズの実験室には“ユタ州エネルギー関連委員会”だと名乗る人物が訪れた。
まだ官職もはっきりしないような中途半端な立場の男で、大学当局から案内されたらしい。
「常温核融合がもし本当なら、ユタ州の経済は大きく潤う」といった話を一方的に語り、慇懃な態度で実験現場を見回していった。
書類には「1989年4月に予定されるアメリカ議会の聴聞会で報告する可能性を検討してほしい」と記されていた。
ポンズはその紙を読み、複雑な心境を押し殺したまま静かに頷くしかなかった。

同じころ、フライシュマンはイギリス側の研究予算をめぐって某企業との面談を調整していた。
「もし室温核融合が真実なら、莫大な投資を惜しまない」という誘いを受けたのだが、彼の心中は穏やかではない。
実験が不十分な段階で資金を巻き込めば、取り返しのつかないスキャンダルを引き起こしかねないからだ。
電話越しにポンズへとその話を伝えると、受話器の向こうで彼が苦笑するのがわかった。
「そういう類の提案が、こっちにも来始めているよ」

こうしてふたりは、科学者としての真摯さと、周囲の政治的・経済的圧力に挟まれるかたちになっていった。
「誤差かもしれない未知の熱」が、いつのまにか社会やマスコミの野心をも引き寄せている。
ポンズはある晩、ユタ大学の実験室で装置を眺めながら思わず天井を見上げた。
「僕らが見ているのは、単なる科学的興味の対象だったはずなのに……」
重水の中で揺れる電極の影が、微妙に歪んで見えた。

遠いイギリスでは、フライシュマンが自らの記録を精査しつつ、ポンズとのやり取りを日記に書き留めている。
「今の状況を例えるなら、燃えかけの火種を手のひらに乗せているようだ。
大きな可能性を秘めているが、焦って煽ればただの煙に消える危険性がある」
その一文の余白には、ミューオン触媒核融合を研究するジョーンズ教授の名前と、小さく“先取権”という文字が記されていた。

こうしてふたりは、驚くほど大胆な夢と、社会が生み出す歪んだ期待やプレッシャーに挟まれながら、手探りの日々を送ることになった。
互いの実験結果を突き合わせ、わずかでも“確信”と呼べるものを得ようと足掻いている。
しかし、まもなく訪れるアメリカ議会の聴聞会が、さらに大きな波紋を広げることなど、この時点で正確に想像できていた者はほとんどいなかった。

第3章 センセーションの始まり

ユタ大学の広報室でポスターを張り替えていた職員が、廊下を覗いて焦ったような声を上げた。
「ポンズ教授が会見を開くらしいぞ。ずいぶん急だな」
その言葉は、一瞬にして学内に広がっていく。
まばらだった建物の通路にざわめきが起こり、あちこちで耳打ちする学生たちの姿が見られた。

同じころ、スタンレー・ポンズは教授室に閉じこもったまま、電話でフライシュマンと話し込んでいた。
「アメリカ議会から正式に呼び出しを受けたと連絡があった。
どうやら向こうは本気で“常温核融合”を公的に審問するつもりらしい」
声にわずかな震えが混じる。
受話器の向こうでフライシュマンが低く答えた。
「メディアの過熱も手伝って、政治家たちまで動き始めたわけか。
もしこのまま研究結果に確たる根拠がないと判定されれば、僕らは大恥をかくことになる」

ポンズは書類の山から一枚の紙を抜き出す。
そこには“1989年4月 アメリカ議会にて聴聞会開催”という一文が印刷されていた。
「大学上層部は、『この機会に国を味方につければ資金問題も一気に解決する』って言ってるけど、逆に失敗すれば学問的信用も失う。
フライシュマン、そっちはどうだ」
すると受話器の向こうで、小さく息をつく気配がした。
「イギリスでも企業が妙に色めき立ってる。
真偽も定まらない段階で投資をちらつかせてくるが、リスクも膨大だ。
まるで砂上の楼閣を建てるような話を持ちかけられている」

電話を切ると、ポンズは広報室で急遽組まれた会見の準備へ向かった。
大学関係者から「短いコメント程度でいいから」と背中を押されているものの、気が進まない。
しかしユタ大学の財政難は深刻で、今回の動きに期待を寄せる理事も多いらしい。

会見室に入ると、既に数人の記者が座っていて、フラッシュの灯りが弱々しく点滅している。
ポンズは小さくうなずいて演台に立った。
「私たちは、常温核融合と推測される現象に関する基礎実験を進めております。
まだ最終的な結論には至っていませんが、近くアメリカ議会にて実験報告を提出する機会をいただきました」
その一言で、記者たちが一斉にメモを走らせる。

「議会側からはどのような内容を求められているのですか」
前列にいた地元紙の記者が質問する。
ポンズは少し言葉を探したあと、答えを絞り出すように言った。
「詳細はまだ調整中ですが、常温核融合が本当に存在するか否か、国レベルでの確認が必要だということのようです。
エネルギー省も調査団を組織すると聞いています。
つまり、私たちの研究が国家的に注目される状況に入ったというわけです」

場内がざわつく。
研究者の学会発表とはわけが違う。
政治家のいる場で“まだ確信の持てない現象”を披露する危険を、誰もが感じ取っていた。
ポンズの隣では、ユタ大学の広報担当者が微妙な顔をして立っている。
「今はできるだけ丁寧に情報を伝えつつ、確定的な表現は避ける」
そんな指示を与えられているらしく、たびたびポンズの言葉尻をフォローする。

会見が終わると、大学の外に待ち構えていたTVカメラがまるで暴風のように押し寄せてきた。
「ポンズ教授、常温核融合のエビデンスはどこまで固まっているんですか」
「もし核融合なら放射線は?
そこはどう説明するんです」
矢継ぎ早に飛び出す質問に、ポンズは歩きながら曖昧な返答を繰り返すしかない。
電気化学の穏やかな研究が、政治とメディアの渦に巻き込まれる速度に、心がついていかない。

ユタ大学の廊下を通り抜けると、研究室前には学生らが集まり、興味津々の表情を浮かべていた。
「本当ならすごい革命だ」
「テレビで“常温核融合がエネルギー問題を解決する”って言ってたけど、マジなのか」
こんな声が入り乱れる。
ポンズは視線を落とし気味に研究室に戻ると、広い机の端に腰をかけて大きく息をついた。

「学生たちにも夢を与えてるのか、無用な幻想を振りまいているのか、わからなくなってきた」
そう呟いたところへ、電話のベルが再び響く。
「こちらフライシュマン。
ニュースを見たよ。
そちらの勢いが想像以上だ」
ポンズは少し困惑しながら答えた。
「議会に呼ばれるまで想像以上に早かった。
ユタ州も、大学当局も、僕らの研究を政治利用したいんだろう。
おかげでメディアの報道はヒステリックなまでに煽り気味だ」

フライシュマンが低い声で言う。
「アメリカ議会で認められれば、一気に研究費や人材が集まるという期待は確かにある。
だが、調査が進むほど、誤差やデータの杜撰さを突かれる恐れも高まる。
エネルギー省の専門家が入ってくると相当に厳しい検証になるだろう」
一瞬、ポンズは答えを失ったように沈黙する。
それでも、まるで自分に言い聞かせるように口を開いた。
「僕らはありのままに実験結果を示すしかないよ。
ただ、議会やメディアがどう受け止めるかは……」

電話を切ったあと、ポンズは実験データのファイルに手を伸ばす。
“1989年4月 聴聞会予定”と書かれた付箋が貼ってある資料をめくりながら、彼は眉をひそめた。
「データの再現性と誤差範囲をこれでもかというほど検証しろ、と大学から迫られている。
正直、これほど短期間で詰めきれるのか」
研究室の窓の外では、メディアの車が何台も横付けされているのが見えた。
記者たちがぶらぶらと構内を歩き回り、学生に声をかけているのが確認できる。

一方、フライシュマンもイギリスの研究室にて、同様の書類を広げていた。
「エネルギー省の公式調査が始まり、ユタ州だけでなく連邦レベルでの検証が入る。
そこにジョーンズ教授の先取権争い、大学同士の資金競争、メディアの暴走……。
これ以上、純粋な実験として進められる隙間は残されていないのかもしれない」
ふと机の上の電話を見やりながら、彼は小さく苦笑する。
「常温核融合の存在を証明したかっただけなのに、いつのまにこんな大騒ぎになったんだろう」

この頃すでに“室温で核融合か”という刺激的な見出しが新聞を賑わせ、テレビニュースでは「人類が夢見た永遠のエネルギー」「新時代の幕開け」などと熱を帯びた特集が組まれていた。
ポンズとフライシュマンは“確証のないデータ”を武器に持ち上げられ、同時に“本当なのか”と疑われる立場にも立たされる。
そんな中、ブリガムヤング大学でミューオン触媒核融合を進めるジョーンズ教授まで「私の研究は理論的裏付けがある」とテレビで話し、間接的に二人を牽制した。

4月が間近に迫り、ユタ大学の廊下では「ポンズが議会でどこまで説明できるか」という憶測が飛び交う。
「もし議会が否定的な見解を下せば、大学も大恥をかくだろう」
「反対に認められれば、資金も名声も一気に押し寄せる。
今が正念場だ」
そんな声が教師や職員の間でも囁かれていた。

そして迎える3月23日の会見。
ポンズは微かな不安を抱きながらフライシュマンをユタ大学に招き、ふたり並んでカメラの前に立つことになった。
「私たちは常温核融合と思われる過剰熱を確認しました」
その短い言葉が、学内にとどまらず世界へ向けたセンセーションの引き金となる。
後に控えるアメリカ議会での聴聞会を前に、ニュース番組や新聞は一斉に「奇跡の発明か」「インチキか」といった煽り文句を見出しに踊らせた。

追いかけるメディアの足音が構内に満ちるなか、ポンズは白衣の袖口を握りしめている。
「真実を示したいのに、世間の期待が先走る。
議会でどう判断されるか、一体どうなるんだ」
遠く離れたイギリスでフライシュマンは同じ時間に、深夜の研究室で装置を覗き込みながら唇を引き結んでいた。
この会見がもたらす大反響が、やがて自分たちの研究そのものを飲み込もうとしていた。

第4章 世界の研究者たちの挑戦

フライシュマンとポンズがユタ大学で「常温核融合の発見かもしれない」と公表して間もなく、世界各地で再現実験が雪崩を打つように始まった。
MITやカルテック、ハーウェル研究所といった名だたる研究機関が、パラジウム電極を大量に取り寄せ、重水に浸すフラスコを次々と並べていく。
「もし事実なら、エネルギーの歴史が塗り替えられる」
そんな過熱した空気が、学問の枠組みを軽々と越えて広がっていった。

カルテックのナサニエル・ルイスは、自身のチームを前に「ここで何も見つからなければ、それはそれで重要な結果だ」と低く語った。
最新鋭のカロリメーターを組み上げ、誤差を極限まで絞り込む準備を進めながら、ルイスたちは警戒を怠らない。
学生が作業に追われる合間に「実際には何も起きていないんじゃないか」という声がひそかに交わされる。
そして数週間後、公表された初期報告では「検出される熱は計測誤差の範囲内」と発表された。
「やはり怪しい。
大騒ぎするだけ無駄だ」
そう揶揄する研究者もいて、メディアがやや冷ややかな目を向け始める契機となる。

一方、MITのグループは“中性子が出るなら見逃さない”を合言葉に、中性子カウンターの感度を徹底的に高める実験を始めた。
24時間連続で信号を監視するシステムを導入し、常温核融合の兆候を追うが、結果はほとんど空振りに終わる。
「核融合なら必ず放射線が増えるはずなのに、統計的に有意な変化を示さない」
そんな中間報告が学内で回覧されると、「そうだろう、常温核融合などあり得ない」と首を振る物理学者も多かった。

ところが、それとは正反対の報告を出した大学もあった。
テキサスA&M大学のジョン・ボックリス教授は、トリチウムをわずかに検出したという実験記録を記者会見で披露した。
「微量だが、通常の化学反応では説明しきれない数値を確認した」
カメラのフラッシュが瞬くなか、ボックリスは冷静に続ける。
「もちろん、汚染や装置のノイズを疑う必要があるが、我々はそれを排除するための手順を踏んでいる」
この発表が伝わると、メディアは「やはり何かがあるのでは」と再び熱を帯び始める。
しかし同時に「トリチウム汚染ではないか」「実験ノイズだ」といった批判が噴出し、学内や学外で対立が生まれた。

イギリス政府系のハーウェル研究所も、大掛かりな再現実験を計画していた。
パラジウム電極の結晶構造を徹底的に調べ、重水に含まれる不純物を分析する段取りが進められ、複数のチームが交替で装置を扱う。
「もし余剰熱が正確に計測できるなら、何か根本的な新現象を示唆することになる」
研究所の担当者がそう述べてから数か月後、最初のレポートでは「決定的な過剰熱は得られず」という結論になった。
ただし、電極の品質に差がある可能性を示唆する文面もあり、「まだ断定はできない」という但し書きが付された。

こうした矛盾した報告が世界中から錯綜し、メディアも煽る形で“大逆転”を期待し始める。
「どの大学が本当なのか」「捏造の噂は」「政治的圧力はないのか」
新聞記事の見出しが煽るほど、学界内部の困惑は深まっていく。
ジャーナリストのなかには「研究資金欲しさの一大スキャンダルでは」と疑惑を掘り下げようとする者もいれば、逆に「革命的発見を潰そうとする既存勢力の陰謀だ」と書き立てる者もいた。

さらに、アメリカ議会がフライシュマンとポンズの発表を踏まえて調査団を組織し、エネルギー省を中心に常温核融合の検証へと踏み込むのも時間の問題となっていた。
「もし国が動いた結果、『常温核融合は無意味』と判断されれば、これまでの研究費と評判は吹き飛ぶだろう」
そんな不安がユタ大学やサウサンプトン大学を包んでいく一方、「研究が本当ならノーベル級」という大きな期待も収まらない。

フライシュマンとポンズは、連日世界中から届く「再現に失敗した」「微妙な成果を得た」という連絡の対応に追われ、どの報告を信用すべきか頭を悩ませていた。
「実験条件が少し違うだけで結果が変わるのかもしれない」
ふたりはそう考えたが、次々に提出されるネガティブデータにはどう反論していいかわからない。
一方でボックリスのようなポジティブ報告者がいることも確かで、データの真偽をめぐる議論は絶えず火花を散らした。

「もう少し時間が必要なんだが」
ポンズはユタ大学の廊下を歩きながら、そう小声でこぼした。
学内には、再現実験の結果が芳しくないとして投資を引き揚げる企業も出てきており、研究費の未来が危ぶまれていた。
「フライシュマンも同じような立場だろう」
そう胸中でつぶやきながら、彼は急ぎ足で研究室へ戻る。
そこにはまた新たな電話メモが挟まれていた。
「ハーウェル、追加実験を検討。イギリス政府も関心」
そんな走り書きを見ながら、時代がどこへ向かっているのかを思わず考えてしまう。

誤差のかたまりなのか、未知の核反応か――。
この問いを曖昧なまま放置しておけるほど、社会の目は甘くない。
学術誌の査読をすり抜けて拡散された「常温核融合」という言葉は、いつしか政治や経済までを巻き込み、ブームというより混乱を生み出していた。
その混乱のただなかで、各研究所は自らの測定装置を信じる以外に道はなく、「ポジティブ」「ネガティブ」のレッテルが学問の境界を越えて人々の印象を左右する。

そして、フライシュマンとポンズにとって追い打ちをかけるように、議会聴聞会の日程が近づいていた。
「ここで決定的な再現データを揃えられなければ、すべてが崩れ去るかもしれない」
どこかのメディアがそう報じると、学内でも「本当はただの誤作動なんだろう」と言いたげに目を逸らす者が増え始めた。
一方で「まだ可能性は残っている」と語る学生や若い研究者もいる。
しかし、彼らの声が大勢を動かせるほど甘くはない。

こうして常温核融合の再現実験は、国内外の主要大学を巻き込む集団試行となり、互いの研究室から飛び出す矛盾だらけのデータがメディアに翻弄されていく。
フライシュマンとポンズは、その中心にいながらも結論を出す術を持たないまま、まるで嵐の只中に取り残されているようだった。

第5章 亀裂と疑念

カルテックのナサニエル・ルイスが多くの記者を前に会見を始めたと聞き、マーティン・フライシュマンとスタンレー・ポンズはそれぞれの研究室で固唾をのんで見守っていた。
「私たちの実験では、いわゆる過剰熱は確認できていません。投入電力と出力の差は計測誤差の範囲におさまる」
ルイスの穏やかな声とともにシャッターの音が響く。その結論に、集まった記者たちのペンが一斉に動き出した。

テレビ画面越しにそれを見ていたポンズは、大きく息を吐きながら隣のフラスコに目をやる。「ルイスがこう言い切るのもわかる。けど……」
そのつぶやきに、部屋の奥からフライシュマンの声が小さく重なって聞こえるわけではない。しかし、同じように電極を見つめる彼の姿が目に浮かぶほどだ。「向こうのデータが示すように、まったく何も出ていない実験があるのは事実だ。でも僕らは別の数値を捉えている」

MITのグループからも、追い打ちをかけるように再現実験のレポートが出された。
「中性子の検出量に有意差なし」
改良した中性子カウンターを用いても、明確な兆候が見られないという。
「核融合ならば大量の放射線が確認できるはず。いまのところ、その痕跡はない」
論文の草稿が学内を回覧し始めると、「ほらやっぱり常温核融合なんておかしい」という声が大きくなり、メディアの一部が疑問や嘲笑を煽る記事を書き始めた。

ところが、その一方でテキサスA&M大学のジョン・ボックリス教授は、トリチウムをわずかに検出したという報告を堂々と会見で発表する。「通常の化学反応では生成されにくいレベルのトリチウムが観測されました。もちろん装置の汚染やノイズを排除する必要はありますが、まったく無視できる現象ではありません」
この主張に対して、「トリチウム汚染ではないのか」「統計的に有意とはいえない」と批判する声が即座に学会内で飛び交った。ポンズはそのニュースを知ると、複雑そうに眉を寄せて小さく呟く。「まるで正反対の結果が次々に発表されて、どれを信じていいかわからなくなるな」

さらに英国のハーウェル研究所は、政府の資金を得て大々的な再現実験を始めていた。複数のチームが交替で装置を運用し、パラジウム電極の結晶構造や重水の純度を徹底的に検証する。しかし、最初のレポートは「決定的な過剰熱は確認できず」という結論を示した。もっとも「電極の品質ばらつきなどが実験精度に影響を与えている可能性もある」と但し書きされ、誰もが一方的な断定は避ける模様だった。

こうした“成功”と“失敗”の報告が世界中で乱れ飛ぶうち、メディアはさらに加熱していく。「常温核融合は幻か」「奇跡のエネルギーは本物なのか」といった見出しが新聞の一面を飾り、テレビ番組ではコメンテーターが賛否入り乱れて議論を繰り広げる。ジャーナリストのなかには、大学や政府の内部情報を探り、「研究費目当ての捏造では」「ユタ大学が財政難を打破するための政治的策動なのでは」という陰謀論を煽る者もいた。

「これでブームが萎んでいけばいいんですけどね」
ユタ大学の廊下で、ある若手研究者が小声でつぶやいた。ところが事態はそう簡単には進まない。アメリカ議会が正式にフライシュマンとポンズを呼び出し、エネルギー省の調査団を組織すると告げられたからだ。「今の段階で一気に結論づけられて、否定と判断されれば、大学そのものの信用問題だ」そう零す教授たちが学内に増えていく。

そのころ、フライシュマンはイギリスで実験記録を眺めていた。
「追加の再現実験がうまくいったという連絡はごく少数。却って“まったく観測できない”という報告のほうが多い」
深夜の研究室で独り言を漏らしながら、彼はテーブルの上に並ぶデータをじっと見下ろす。「装置の誤差にしてはあまりに規則性を感じるんだが……」

ポンズも同様に、山積みのファイルを捲りながら頭を抱えていた。「MITやカルテックの言うように、なんの兆候も出ないほうが普通なのか。ボックリス教授みたいにトリチウムを検出できるのは、電極の作り方や測定方法に特別な何かがあるんだろうか」研究室の奥にあるフラスコを見やりながら、一筋縄ではいかない複雑さを痛感する。

そこへ追い打ちをかけるように「雑誌の査読から厳しい意見が来ている」「あなたたちの実験は安易で杜撰だ」との指摘が大学を巡る。フライシュマンとポンズが記者会見を急いだ形になったことや、“センセーショナルな報道”が先行したことが批判の的となっていた。「まだデータの再現性が不明確なのに、世界中を混乱させるのは不適切ではないか」という声が大きくなり、査読付き論文の掲載も次々に見送られてしまう。

そして1989年4月の議会聴聞会が近づくころ、ユタ大学の廊下ではこんな噂が囁かれる。「もし議会で追及されて、常温核融合そのものが否定されれば、大学は大恥をかく」「逆に認められれば、研究費が一気に流れ込むかも」だが、フライシュマンとポンズはそのどちらにも不安を抱いていた。誤差なのか未知の現象なのか、確信を得ないまま人々の目は日増しに厳しくなる。

その最中に届いたのが、カルテックのルイスやMITのグループからの厳しい否定報告だった。「過剰熱は検出できない」「中性子は増えない」とテレビや新聞が一斉に伝え始め、大学の研究者たちも「もうダメなんじゃないか」という雰囲気に傾きかける。ポンズは唇を噛むように言葉少なに思案する。「本当に計測が間違いだったんだろうか。それとも、条件がほんの少し違うだけで結果が消えてしまうような儚い現象なのか」

フライシュマンはイギリスから電話をかけ、声を低く抑えて言った。「君と僕が見たあの熱は、一体なんだったんだろう。お互いの実験は何度も確認しているのに、なぜ外部で再現されないのか」ポンズは曖昧に答える。「仮に何か特殊な電極の状態があったとしても、それを客観的に示せない限り、誰も認めないだろう」

それでも依然としてわずかな“ポジティブ”報告を出す研究者が世界にちらほら存在するため、マスコミは最終的な決着を「議会の判断」に託し始めていた。もちろん、議会が科学的結論を出せるわけでもないが、“国としてどう扱うか”が焦点になり始めていたのである。「大いなる空騒ぎか、それとも革命前夜か」と見出しを打つ雑誌もあり、フライシュマンとポンズの姿は連日のように紙面を飾る。

こうして常温核融合への疑念が膨れ上がり、世界の研究室は“否定派”と“可能性を捨てきれない派”に分断されたかのように見えた。フライシュマンとポンズは、その嵐のただ中で「自分たちの実験データ」だけを唯一の頼りに耐えている。しかし、装置の誤差や解析の杜撰さを指摘する声はますます増えていき、確かに見えたはずの過剰熱は、いつしか“単なる錯覚”として扱われる危機に瀕していた。

議会からの正式な呼び出しは目前。ふたりが実験装置を前に、ほんのわずかな過剰熱のメモを見つめ合ったとき、その胸中に去来したのは「はたして自分たちが見たものは事実なのか」「世間が求める絶対的な確証など本当に得られるのか」という問いだった。
大学の廊下では誰もがすれ違いざまに小さく首を振るようになり、研究費の打ち切りや学会の反発など暗い噂が絶えない。亀裂は広がり、疑念が渦を巻く。フライシュマンとポンズは、その渦の中心でなお答えの見えない謎を抱えていた。

第6章 崩壊へのカウントダウン

ユタ大学の一角にある会議室には、財務担当や研究責任者らが居並んでいた。
窓際の席に座った理事のひとりがテーブルに書類を滑らせながら、ためらいがちな声で切り出す。
「州政府から常温核融合プロジェクトへの補助金は継続できない、という連絡がありました。学内での資金再配分も検討しましたが、これ以上ここに予算を割くのは難しいという結論です」

重い沈黙のなかで、スタンレー・ポンズが唇を引き結ぶ。「私たちの実験では何度も過剰熱が出ています。再現に失敗した報告が多いのは承知していますが、すべてを否定するのは尚早ではありませんか」
対面の席で、大学上層部の一人がわずかに眉をひそめたように見えた。「資金を回す以上、結果を出せるかどうかを慎重に見極めねばなりません。査読付き論文の掲載がことごとく見送られている以上、学内外の批判を無視できないのです」

理事の隣に座っていたメンバーが遠慮がちに口を開く。「正直、常温核融合の研究成果を撤回すべきだという声まで上がっています。あれだけ派手な記者会見を行ったのに、査読を経ないまま騒ぎを大きくした。大学全体の信用問題に発展しかねません」
その言葉に、マーティン・フライシュマンは顔を上げることなく視線を落としたままノートを握りしめている。彼が何も言い返さないのは、すでに同様の批判を耳にしてきたからだろう、とポンズは思った。

そんなふたりの横顔を見回しながら、理事は言葉を選ぶように続ける。「州政府が打ち切った時点で、学内予算をさらに投下するかどうか、慎重にならざるを得ない。研究自体を否定するつもりはなくとも、財政的には……」
ポンズはゆっくりと席を立った。「研究成果を取り消せと言われても、それは違うと思います。だが、われわれの声を今は誰も聞いてくれないようですね」

会議室を出ると、研究室の助手が小走りで駆け寄ってきた。「ポンズ教授、テキサスA&M大学のボックリス教授が急に研究中断を命じられたみたいです。理事会や学会関係者の圧力が強くて、チームメンバーも次々抜けているとか」
ポンズは眉を寄せる。「ボックリス氏まで。確かトリチウム検出を続けていたはずだが、そちらも逆風にさらされているのか」助手は一枚のメモを取り出す。「大学理事会が“非常識”と批判し、資金の使途を厳しく追及していると聞きました。実験停止を余儀なくされるかもしれないとか」

フライシュマンは廊下の壁に片手をつき、小さく息を整える。「もしかすると、私たちもそう遠くないうちに同じ扱いを受けるかもしれない。資金が断たれれば、実験を続ける術はない」
ポンズが暗い表情でうなずく。「大学内でも常温核融合研究が“不適切”と囁かれている。財政が厳しいのに誤差かもしれない研究にこれ以上予算を注ぎ込めるのか、という理屈だ」

数日後、研究室に届く郵便物を整理していた助手がいくつかの封書を差し出す。「共同研究の申し出や出資話がいつも山ほどあったのに、最近は見てのとおり“しばらく見送ります”という回答ばかりです。投資家の興味も一気に冷めているようで……」
ポンズはそれらの封書を机に並べ、目を伏せるようにしながら小さく嘆息する。かつてのような熱気のある問い合わせは皆無になり、研究資金の糸口は完全に見えなくなってしまった。

そんな折、フライシュマンは大学理事の一人から直接呼び出しを受ける。
「世間の目が厳しい以上、研究所の縮小は避けられない。フライシュマン博士には別のプロジェクトに移ってほしいという意見も出ています。学部内での評価が下がれば、教壇に立ち続けるのも難しくなるかもしれません」
フライシュマンはぎこちなく微笑んだ。「なるほど、大学当局としてはユタ州や議会からの批判を避けたいのですね。ですが、私は科学者として、この結果にまったく納得がいっていません」
理事は肩をすくめるように困った表情を浮かべた。「続けたい気持ちは理解します。しかし、私たちには大学全体の評判を守る責任があるのです」

同じころ、テキサスA&M大学では研究継続を望むボックリス教授が理事会から追及を受けていた。実験で検出したトリチウムが本物かどうか、実証できないなら研究費を使う正当性がないというのが理事会の理屈だ。汚染や測定エラーを指摘され、学部内での信頼を失っていくなか、彼はただファイルを抱き締めてうつむいていたと噂に聞く。

「ボックリス氏も危ないらしい」ユタ大学の夜の研究室で、ポンズが装置の温度を記録しながら呟く。「もし彼が潰されれば、この分野の数少ないポジティブ報告も立ち消えだ。抵抗したところで研究室ごと閉鎖されれば元も子もない」
フライシュマンは黙ってカロリメーターを見やり、「我々の立場も似たようなものだな」とつぶやく。すでに周囲の眼差しは常温核融合を白い目で見る段階に入りかけている。

翌朝、大学事務局から公式の文書が届く。
「学内予算の見直しの結果、常温核融合研究への支出は削減せざるを得ない。早急に研究計画の再提出を求める」
ポンズはそれを見つめながら、小さく首を振る。「要するに、今ある実験体制を維持することは難しくなる。民間の出資もほぼ絶望的だ。どうしようもない状況だな」
フライシュマンがそっとカロリメーターのフタを外し、配線やセンサーを指先で確認する。「理論では説明できない熱がここにある。しかしかき集めたデータを示しても、もう誰も信用してくれそうにない」

廊下を歩けば、同僚たちがひそひそ声で話すのが聞こえる。「あれほど期待されたのに、結局夢物語だったのか」「フライシュマンとポンズが追い出されるのも時間の問題らしい」
ポンズはフライシュマンをちらりと見たが、互いに言葉を交わさない。大学内に漂う空気は冷ややかで、雑談のネタにさえされなくなっていると感じられるほどだ。

研究室に戻ると、フラスコの中でわずかな泡が立っている。パラジウム電極の表面がうっすらと変色しているようにも見えるが、それを誰に伝えればいいのか。ポンズはノートに観測値を綴りながら思わず筆を止める。「このデータを、誰が認めてくれるんだろう」
フライシュマンは静かに実験台に手を置く。装置のスイッチを切り替えた瞬間、耳慣れた電流の音が途絶えて、重水の表面は揺らぎを止めた。外から漏れる光がわずかにガラス面で反射している。

守ろうとしたものと、失いつつあるもの。その狭間で二人は言葉を失い、研究書類に囲まれたまま佇んだ。既に世間の目はほかのスキャンダルやニュースに向かいはじめ、常温核融合の話題がマスコミを賑わせることも少なくなっている。
冷えきった研究室で、ポンズはため息のように小さく声を漏らす。「結局、あれだけ注目されたのに……」
フライシュマンはゆるやかに首を振ると、カロリメーターの電源を一度落としてから再度入れ直す。「これを見届ける役目も、もう長くは続かないだろうが」

会議室でのやり取りが頭をかすめる。州政府の補助が絶たれれば、大学側も大幅な予算削減に踏み切らざるを得ない。議会での聴聞会の結果やメディアの評価はさんざんで、誰も再び資金を投下しようとはしない。
フラスコに浮かぶ泡が少しずつ減っていく。二人はその様子を無言で見つめていた。悔しさや疑問より先に、もはやここでは続けられないという事実が胸を満たす。

実験室の扉を開け放つと、廊下の奥にある掲示板から「常温核融合研究所」の名前が外されているのが見えた。急ごしらえの紙が貼られ、「使用停止中」と大きな文字が並んでいる。
かつてあれほどの熱気と取材が殺到した場所から、人影はまばらに消えていた。助手さえも困惑の色を隠せない様子で片づけを続けている。

そうしてユタ大学は常温核融合の看板を下ろす方向で動き出した。ふたりの研究は、研究費を断たれれば成り立たない。まだ納得できないまま、フライシュマンとポンズは閉じられつつある研究室に視線を落とした。
電源を落とされたカロリメーターが静かに冷え、ガラス容器の中の重水はもうかすかな揺れも見せない。
ふたりの肩越しに、廊下を吹き抜ける風だけが微かに音を立てている。

第7章 研究所閉鎖

ある朝、フライシュマンとポンズのもとへユタ州政府からの正式な書簡が届いた。
封筒を手に取ったポンズは、奥歯を噛みしめるように小さく息をつく。
「研究所への補助金、停止か……」
声にこそ出さないが、どうにも避けがたい事態を示す文面がそこに記されている。

しばらくして、大学側の上層部が研究所を公式に閉所すると公に発表する。
会議室に呼び集められた関係者の前で、理事が言葉を選びながら低く告げた。
「先日の学内協議を経て、常温核融合関連の研究施設を閉鎖する方針となりました。
これ以上の補助金は難しいという州政府の判断が大きいのです」
静まり返る室内には、視線を落としたまま動かない教授や職員の姿があった。

ポンズは表情を変えずに椅子を離れ、フライシュマンと目を合わせる。
数か月前には、メディアが押し寄せて熱狂的に報じていた研究所が、今や資金を断たれ、学内ですら居場所を失っている。
「わずか半年で、あの記者会見が夢だったかのような展開だな……」
誰にともなく呟いた声を、フライシュマンは聞こえないふりで受け流す。

廊下では、教授や学生が閉所の噂を立ち話にしている。
「やはり補助金も尽きたか」
「最初は大騒ぎだったのに、まさかこんな形で終わるなんて」
耳をそばだてていなくても、その言葉は二人の胸に刺さる。
それでも足を進めなければならないと、ポンズは研究室に戻り、ロッカーから荷物をゆっくりと取り出し始めた。
「教授職まで辞めることになるとは……想像してなかったな」

フライシュマンは部屋の隅に積み上げられた資料を整理しながら、気まずそうに口を開く。
「ポンズ、君はヨーロッパへ行くのか。研究を続けられる可能性はあるのか」
背を向けたままのポンズは、大きなトランクに書類をしまい込みながら微かに肩をすくめる。
「望みは薄いだろうが、ここで黙って終わるよりはマシだと思う。小さな研究室でも機会があれば、続けられるかもしれない」

研究室の一角で待機していた助手が、不安そうに声をかける。
「この装置はどうします? カロリメーターや電極は、大学から廃棄の方向で話が進んでるみたいですが……」
フライシュマンは小さく息を吐くように笑い、電源コードの外れたカロリメーターを見つめる。
「どうにもならないんだろうな。ほかのプロジェクトに転用できないのかもしれないが、公式には何も決まっていないらしい」

外に出ると、古い校舎の壁に貼られた「常温核融合研究所」の札が取り外されているのが見えた。
代わりに急ごしらえの紙が貼られ、「閉所決定」という四文字が大きく印字されている。
まるで、ほんの数か月前までの熱狂を無かったことにするような光景に、ポンズは胸の奥が詰まる思いだった。

キャンパスの一角を歩きながら、ポンズはフライシュマンにそっと視線をやる。
「君は、これからどうする。大学には残るのか」
少し考え込むように視線を落としたフライシュマンは、ユタ大学の古い校舎を仰ぎ見る。
「別の研究テーマを探すしかない。けれど、常温核融合という言葉はもう二度と持ち出せないだろう。
ここまで大学の名誉を損ねた形になれば、誰も相手にしてくれない」

その返答には自嘲めいた響きが混じっていた。
嘲笑や批判だけでなく、激しい賞賛や期待を背負った時間が、あっという間に泡沫へと消えたかのようだった。

部屋に戻ると、バラバラにされかけた装置や資料が無造作に箱詰めされている。
電源を落とされたカロリメーターのカバーは外れ、パラジウム電極もところどころ傷んでいるように見える。
「もし、もう少し時間と資金があったら、まだ先に進める可能性はあったのか」
フライシュマンは自問するように小声で言うが、ポンズはそれに答えない。

大学側が正式に「研究所閉所」を宣言したことで、廊下にはダンボールが山積みになっている。
かつてはマスコミが殺到していたスペースに、人の気配はほとんどない。
助手さえも事務的に作業しているだけで、近寄りがたい空気が漂う。

やがてポンズは、ロッカーの鍵を抜き取り、小さく息をつく。
「ひとまず、ヨーロッパへ行くことにする。職を失った今、どうなるかはわからないが……」
その横顔を見やったフライシュマンは、一瞬言葉を飲み込んだのち、わずかにうなずく。

数日後、研究所閉鎖の最終通知が公表される。
地元紙では小さな扱いで「常温核融合、暗礁に乗り上げる」と見出しが踊るものの、かつてのような派手な報道はない。
「評価が厳しくなるだけで、もう巻き返せないのだろう」
フライシュマンは自身に言い聞かせるように呟く。

ポンズは空港へ向かう前、最後に実験室を見渡す。
「あの熱は、本当に幻だったのか……」
だが、いまは確かめる方法も、続ける道も残されていない。
重水が抜けかけたフラスコと、それを記録するカロリメーター。
何度見ても、そこに何らかの可能性を感じ取ってしまう自分がいると、彼は苦笑しながら扉を閉める。

一方、フライシュマンも、いつかはイギリスへ戻る決心を固めようとしていた。
大学構内を歩くと、誰もが視線を避け、常温核融合の話題を口にする者はいない。
「何かを見逃している気がするのに、もう手立てがない」
彼は一度、室外に停められた大型の廃棄コンテナを見やる。
紙の山の隙間から、研究所関連の備品が無造作に押し込まれているのを確認し、言葉を失った。

そんな光景を横目に、ふたりの小さな研究室は静かに幕を下ろす。
科学と名声、そして経済や政治までもが絡み合った常温核融合の舞台は、あまりに脆く崩れ去った。
ユタ大学の片隅にひっそりと残された装置は、わずかな電力すら供給されず冷えきっていた。

それでも、ほんの少しだけ重水の滴が残るフラスコを目にするたび、フライシュマンはわずかな痛みのような感覚を覚える。
「ここに、本当は何があったのだろう」
けれど、答えは誰も教えてはくれない。
人知れず扉を閉め、鞄を抱えるポンズの背中を見送りながら、フライシュマンは静かに研究室の灯りを落とす。

そうしてユタ大学に掲げられていた常温核融合研究所の名札ははずされ、あの実験に注がれた時間も熱も、ひとまずそこで終わりを迎える形となった。

第8章 終わらない論争

研究所閉鎖から数年が経過した頃、常温核融合をめぐる議論は表舞台から消えたように見えた。
しかし、実際にはこのテーマに執着する研究者や企業が、細々とした動きを続けていた。
新聞やテレビで追われなくなっただけで、実験の火種は完全に消えていなかったのである。

ある電気化学系の企業が、ひっそりと極端な低ノイズ環境を整えた実験室を用意し、過剰熱を再度検証したという話が聞こえてきた。
研究室の片隅には、かつてフライシュマンとポンズが用いていたのとほぼ同一設計のカロリメーターが並んでいるそうだ。
しかも測定系から生じるわずかなノイズすら排除するため、徹底的にシールドした部屋で、最新の電子回路を駆使しているという。

「結果は、微かな発熱を示唆するかもしれないが、誤差の域を超えているのかは判断できない」
そう発表したのが企業の広報担当だったと、科学雑誌の片隅に小さく書かれている。
“果たしてこれは真の信号なのか”という問いに対する答えはまだ示されないまま、知る人ぞ知る話題として留まっているらしい。

一方、パラジウム電極の精密加工技術を延長する形で、水素吸蔵合金や新型電池の研究が進んだという声もある。
「高密度に水素を取り込む材料開発を試行錯誤した結果、電極や薄膜合金に今までになかった性能が見えてきた」
そう語るある研究者は、常温核融合の是非とは別に「副次的な成果が意外と大きい」とこぼしていた。
もし“常温核融合”という単語を冠さずに、高密度水素吸蔵による微妙な熱現象という視点で研究を続けていたら、まったく違う評価が得られたかもしれない――そんな推測も囁かれている。

ところが、名門大学の物理学部や官庁系の大型研究所では、常温核融合に言及すること自体がタブーになりつつあった。
「高温核融合でさえ道のりが長いのに、常温で起こるなんて聞いたことがない」
「議会でも否定的な結果が出たし、話題にするだけで研究費が削られる」
そうした声を機会あるごとに耳にし、若い研究者ほどこの分野に近寄れない空気ができあがっている。

ただ、それでも「わずかなポジティブな報告」を信じ続ける人々がいる。
テキサスA&M大学でトリチウムを検出したと主張していたボックリス教授も、大学側からの強い圧力で退場させられたが、一部の学生や共同研究者は「本当に汚染の可能性だけだったのか」と疑問を抱き、独自に実験を続けていると噂に聞く。
「1%でも再現率があれば、それは無視できないデータだ」という考えは、少数派ながら根強く残っているという。

「でも、あれはただの誤差や思い込みだろう。査読結果も散々だったしね」
そんな否定的見解を示す学者も多い。
複数の学会誌は、1989年のポンズとフライシュマンの会見以降に出された常温核融合関連の論文に対して、きわめて厳しい査読態度を取り続けている。
短期間で多くの主張が乱立したこと、メディアの過熱報道が先行して学術的プロセスを飛ばしたこと――これらが災いし、学界の一部では“常温核融合”という言葉自体を忌避する傾向が固まった。

そうした一方で、陰では別の実験系が試されている。
例えば、水素ではなく重水素や三重水素を使うだけでなく、電極材料をパラジウム以外に変えてみたり、電流や温度の条件を極端に変えたり。
「まだ論文化に足る結果は得られない」と言いつつ、企業や小規模のラボが何かを探っているようだ――そんな噂が小さく交わされている。
メディアの目を意識して、大々的に発表することはしないし、むしろ“第二のポンズとフライシュマン”と揶揄されるのを恐れているのだろう。

アメリカ議会での聴聞会を経てまとめられたエネルギー省の報告書――そこに書かれた「確たる証拠が見いだせず、研究を推奨しない」という文面は、常温核融合にとってのひとつのターニングポイントになった。
にもかかわらず、「あのとき完全には否定されなかった」という解釈をする人もいる。
「強い再現性がない以上、エネルギー源としての実用可能性は否定的、という結論は妥当かもしれない。
でも、未知の現象がゼロとまでは言いきっていない」
そんな微妙な読み方が、今も小さな灯火を絶やさせない。

フライシュマンとポンズは既に第一線を退き、噂ではポンズがヨーロッパの地方都市で静かに暮らしているらしい。
過去に発表した論文へのバッシングや査読拒否などで信用を失った形とはいえ、自身の研究ノートだけは手放さなかったという。
「もしあの実験データが単なる錯覚なら、それはそれでいい。
だが、人類が見逃している可能性まで全部捨ててしまうのは惜しい」
かつてそう語った言葉を断片的に伝え聞いた研究者が、どこかで小さく再現実験に挑んでいるかもしれない。

科学の歴史は、壮大な発見と同じくらい大きな挫折が積み重なってきた――そんな教訓を示す事件として、常温核融合はしばしば取り上げられる。
「不完全なデータを大々的に発表すべきではなかった」「メディアを利用した政治や資金の思惑が絡んでいた」と振り返られることも多い。
けれども、一度燃え上がった“核融合の夢”は、人々の記憶から完全に消えることはなかった。

あの日の記者会見と、そこから生まれた過剰な期待や失望を繰り返し思い返す者がいる。
「もし常温で核融合反応が起こせるなら、エネルギー問題は根底から覆るはずだった」
現実には、多くの再現実験が失敗し、学会の主流は否定的なまま。
だが、ごく少数ながら「さらに精密な条件設定なら、何か小さな兆しが残っているのではないか」と考える研究者が、静かに作業を進めている。

「もう一度、真剣に確かめてみたい」
そんな声が少しでも聞こえるたびに、当時の騒動を知るベテラン学者は「痛い目に遭うぞ」と警告する。
けれど、“何度も失敗してやっと成功をつかむ”という科学の本質が、一部の研究者を駆り立てるのかもしれない。
誤差なのか、未知の物理現象なのか――。
そうした問いは、メディアが去った今でも、ごく小さな実験室のどこかで続いている。

そうして再び火が灯る可能性を、誰が否定しきれるだろうか。
常温核融合という看板を掲げることさえはばかられる空気のなかで、わずかに残された火種は、まだひっそりと燃え続けている。

第9章 静寂の先へ

スタンレー・ポンズがヨーロッパへ移ってから、常温核融合の話題は大衆の前から姿を消したように見えた。
それでも、研究そのものが一切途絶えたわけではなかった。
1989年4月に行われたアメリカ議会での聴聞会では、ポンズの実験に対して厳しい追及がなされ、エネルギー省中心の調査団は「確かな証拠はなく、研究を推奨できない」という結論を発表した。
その後、各地で資金打ち切りが相次ぎ、学会の空気も否定的なまま固まっていく。
表面上はそうした“終焉”を迎えながらも、常温核融合に可能性を感じる者たちが細く残っていた。

ある大学の研究者が、パラジウム電極の微細加工技術を活かして新型の電池を開発したという記事が小さく掲載されている。
雑誌の欄外には、かつてフライシュマンとポンズが打ち立てた“電極への水素・重水素吸蔵”の手法が応用されていると書かれていた。
彼らが夢見た“常温下での核反応”という大それたものではないが、一度確立された計測技術や素材に関する知見が、別のかたちで研究に寄与しているのだと暗に示唆しているようだった。

ヨーロッパで静かに暮らすポンズは、そんな小さな報道を眺めながら、かつて自分がまとめた実験ノートを手に取ることがある。
あのころ繰り返していたカロリメトリー測定の数値、エラー要因をチェックする手順、その傍らには「まだ何か残っているはず」との書き込みが踊っている。
議会の聴聞会で“安易で杜撰”と酷評された実験メソッドを、そのまま信じ続ける自分に苦笑する一方で、「一筋の可能性」をどうしても捨てきれない思いが消えてはいない。

イギリスに戻ったマーティン・フライシュマンは、一時期大学の講演に呼ばれることもあったが、話題の中心は電気化学の基礎理論や過去の賞賛された業績ばかりで、常温核融合に触れる者は誰もいなかった。
一度講義の合間に学生が「先生、あの実験は本当に何もなかったんですか」と囁くように尋ねたことがある。
「科学は試行錯誤だよ。誤差かもしれない熱量を追いかけてわかったこともある」そう応じたフライシュマンは、ふと遠い目をした。
もし多くの研究者が冷静に協力し、国家のレベルで正確なデータ検証に長期的な資金を投じていれば――そんな“もうひとつの未来”を想像する癖がついていた。

それでも学会の主流は「常温核融合などありえない」で一枚岩のようになっている。
議会での報告書にも「再現性の高いデータが得られず、将来的エネルギー源となる見込みもない」という文言が残され、国家的に“見限られた”というイメージが固まってしまったからだ。
学問分野のヒエラルキーのなかで、この研究を続けることはキャリアに傷がつくとみなされ、若い研究者が積極的に取り組もうとはしない。
当時のメディア報道が過剰だったという反省も、後に学会で繰り返し語られるようになる。

それでも、「わずかでも再現例がある以上、無下に捨てていいのか」という声もごく少数ながら絶えず聞こえてきた。
テキサスA&M大学で検出された微量のトリチウムは本当に汚染だったのか。
MITやカルテックで見いだせなかった“余剰熱”を観測したという研究者は、本当にミスをしていたのか――。
これらの問いに「確証は得られないが、否定しきる証拠もない」という曖昧な言葉が返されるたび、その話はいつのまにか煙のように消えていった。

ポンズはアパートの小さな窓から夜空を見上げることが増えた。
空に輝く星々は、核融合という言葉を連想させるには十分すぎる。
太陽があれほど壮大な熱とエネルギーを放出するのは、超高温・超高圧下で核融合反応が続いているから――その常識を、もし室温程度で実現できると証明できたなら、人類のエネルギー問題は根底から変わるはずだ。
彼はかつて、ユタ大学の実験室で泡立つフラスコを見つめながら、その未来を夢想したのだ。

フライシュマンが自宅の書斎でパラジウム電極の断面写真を見返すとき、複雑な思いが胸をよぎる。
化学者と物理学者の衝突、ブリガムヤング大学のジョーンズ教授との先取権争い、ユタ州の財政難がもたらした政治的圧力――背後にあった数々の要素をどうにか制御できていたら、あの実験は違う結末を迎えられただろうか。
もはや学会に返り咲く気力はないが、それでも小さなスケッチブックに新しいアイデアを落書きしている自分に気づくと、口元にわずかな笑みが浮かんでしまう。

当時のマスコミは「エネルギー革命か、あるいは詐欺か」という極端な見出しを連日打ち出し、政治家や投資家を刺激した。
国家的な支援と批判が一気に渦巻き、まるで祭りのように人々を興奮させたものの、結局は実験の再現性を示すことができず“幻”のように終わった――そう評される事件として語り継がれている。
それでも研究そのものの火種が完全に消えたわけではない、という証拠に、小さな研究団体のニュースレターに「電極表面のナノ構造から未知の反応を追究」という一文が載るのを見つけた者がいる。
まるで密やかに互いを確かめるように、資料交換を続ける人々がまだ世界のどこかに存在しているらしかった。

学会では常温核融合を“黒歴史”と呼ぶ向きもある。
けれど、フライシュマンやポンズが得た計測技術の副産物が、いまや電気化学や材料学の分野で応用されているのは紛れもない事実だ。
「本当の奇跡があったのか、それとも単なる研究者の錯覚だったのか」――その問いに決着をつけるほどの大規模プロジェクトは、もうどこからも資金が出ない。
だからこそ、ポンズのように遠い国でノートを握る者や、フライシュマンのように古い写真を見返す人間の存在は、かすかに“未解の謎”を思い起こさせる。

そして改めて見つめ直されるのは、可能性に踊った人間たちと、それを支えたり否定したりする社会の動きだ。
メディアが煽り、政治家が飛びつき、投資家が群がる――そんな“過熱”がもたらすものと、学問の地道な検証作業の間に生まれる亀裂。
あの騒動は、科学が巨大な夢に向かうときに抱える危うさを、あからさまに示したのかもしれない。

ポンズのアパートの机には、まだカロリメーターの試作図が残されているという噂を、フライシュマンは手紙で聞かされた。
もしどこかで同じ計測装置を作ろうとする者がいれば、その図面が役立つかもしれない。
それを知ったフライシュマンは小さく息を吐き出すように笑い、「また夜遅くまで装置を睨む日々が続くのかな」と独り言を呟いたという。

そうして常温核融合の物語は、誰もいない研究室の奥と、小さなアパートのノートのなかで、ひっそりと呼吸を続ける。
政治やマスコミの喧騒が消えたあとの静寂の中で、かつての研究者たちは、それぞれの想いを抱えたまま新たな人生を歩んでいる。
だが、かつて“あり得ない”とされた現象が、どこかの小さな実験室で再び目を覚ます可能性を、誰も完全には否定できないでいる。

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