濡れる薔薇の刻印- 美に至る苦痛
第1章:血塗られた花嫁
夜の街は冷たい霧に包まれていた。その霧はまるで薄い絹のヴェールのように、街の肌を柔らかく撫でながら、その陰影を濃密に彩っていた。湿った路地裏には静寂が満ちており、遠くで聞こえる猫の啼き声すら、その甘美な静けさに溶け込んでしまうほどだった。そこに漂う空気は、ただの夜の冷気ではない。胸に迫るような、どこか熱っぽい匂いが満ちていた。それは血の香り。甘く、鉄のようで、どこか挑発的な香りだった。
そしてその奥、朽ちかけた壁の影に、彼女がいた。
遺体は横たわっていたが、その姿はただ死を迎えたものではなかった。それは一つの儀式のようだった。まるで新婚の花嫁が純白のベッドに横たわり、初夜の恥じらいを装いながらも、その瞬間を心待ちにしているかのように。彼女の薄絹のドレスは胸元で裂け婀娜っぽく、その下の肌は月光を浴びて輝き、まるで陶器のような滑らかさを主張していた。
彼女を囲むように描かれた赤い薔薇の輪。それは単なる血痕ではなかった。一枚一枚の花弁が、まるで画家が丹念に筆を重ねるように描かれ、その輪郭はあまりにも繊細で艶やかだった。血液の濃淡が絶妙に調整され、真紅の花弁が光を反射するたびに、その美しさは恐ろしく官能的なものへと変貌していった。
遺体の胸元には「刻印」があった。それは深く彫られた薔薇の紋様で、その線は愛撫のように婀娜っぽく肌を滑り、最終的にその肉体の美を完璧に仕上げるための「仕立て」として存在していたかのようだった。
桐島と瑞貴の到着
「…なんて光景だ。」
桐島惇刑事は現場に足を踏み入れた瞬間、吐き気を催すような血の匂いと、目の前の光景に圧倒された。彼はその場で立ち尽くし、ただ息を呑んだ。隣に立つ法医学者の篠宮瑞貴は、白衣の胸元を掴み、冷たい夜気を吸い込むようにして小さく震えた。
「見て、この薔薇…。ただの血痕じゃない。こんなに繊細なライン、ただの人間が描けるものじゃないわ。」
瑞貴の声は震えていたが、その目には異様な輝きが宿っていた。彼女は膝を折り、遺体に近づく。指先がそっとその薔薇の刻印に触れようとする。その手つきは、まるで恋人の頬に触れるような、慎重でいてどこか好奇心に満ちたものだった。
「触るな。証拠だ。」
桐島の声が遮るように響いたが、その低い響きはまるで二人だけの密室で交わされる会話のような緊張感を生んでいた。
瑞貴は静かに立ち上がり、深呼吸をして冷静さを装った。しかし、その目はまだ遺体に釘付けになっていた。
「この刻印…彫刻のように美しいわ。普通のナイフじゃこんなに滑らかな線を作れない。特別な道具が使われているはず。」
彼女の声には抑えきれない興奮が混じっていた。
メッセージと異様な美意識
壁には一枚のカードが貼り付けられていた。そこには美しい筆記体でこう書かれていた。
「美に至る苦痛」
瑞貴がそれを読み上げると、桐島は苛立たしげに吐息を漏らした。
「美だと? ただの殺人者が芸術家気取りか。」
だが、彼の目に映る遺体とその周囲の光景が、犯人をただの「殺人者」と呼ぶにはあまりにも異常に美しすぎることを否定できなかった。
異常な光景の余韻
遺体は写真に収められ、捜査班によって分析が進められたが、その夜の光景は二人の心に深い爪痕を残した。赤い薔薇に抱かれた婀娜っぽい「花嫁」の姿は、ただの事件の一幕ではなく、二人の心に潜む何かを呼び覚ます、歪んだ美の具現だった。
桐島は帰り際、ふと振り返り、遺体の配置や薔薇の輪をもう一度見つめた。その胸には奇妙な違和感が広がる。
「美なんて…ただの幻想だ。」
彼は小さく呟いたが、その言葉にはどこか、自分自身への反論のような響きがあった。
第2章:美の哲学
薄曇りの日差しが、警察署の小さな会議室に重たい陰影を落としていた。窓際に座る桐島は、資料の束を無造作に机に放り出し、背もたれに深く体を沈めた。彼の眉間には、深い皺が刻まれている。それは「美」という言葉を聞くたびに現れる、彼の苛立ちと困惑の象徴だった。
「瑞貴、進展はどうだ?」
彼は声を投げかけたが、目は開かず、疲労に滲む吐息だけが宙に漂った。
対する瑞貴は、どこか浮き立つような足取りで部屋に入ってきた。手には分厚いファイルが握られている。彼女は一瞬、桐島を見つめ、口元に小さな笑みを浮かべた。その笑顔は、どこか挑発的ですらある。
「刻印についての詳細が出たわ。」
彼女が机に資料を広げると、そこには遺体の胸元に刻まれた薔薇の拡大写真が貼られていた。写真の中の傷跡は、ただの傷というにはあまりにも婀娜っぽく艶めいて見えた。瑞貴の指がその線を辿るように資料を指差す。
「これを見て。単なるナイフで彫られた傷じゃないわ。これほど均一で、滑らかな線を描くには、特別な器具が必要になる。おそらく精密な彫刻用のツールを使ったんでしょう。」
彼女は熱を帯びた声で語る。その目は写真の中の薔薇に吸い寄せられるようだった。
「ほら、見てください。この曲線…官能的だと思わない?」
「官能的?」
桐島は大げさに眉を吊り上げた。その言葉に思わず苦笑いを浮かべる。
「瑞貴、俺たちは連続殺人犯を追ってるんだ。そんな詩的な感想はいらない。」
だが彼の声には、どこか真剣な響きが欠けていた。それもそのはずだ。瑞貴の話し方には、なぜか妙な高揚感が滲んでいて、彼女の熱意に引き込まれたくなるような危険な魅力があった。
瑞貴は頬を赤らめ、少し視線を逸らした。
「ごめんなさい。でも…彼は、本当に美を追求しているの。どんな狂った形であれ、そこには彼なりの哲学があるはずよ。」
その言葉の裏には、彼女が犯人の異常な美意識に共鳴し始めている兆候が見え隠れしていた。
被害者の背景
捜査が進むにつれ、最初の被害者、画家・三浦遥の異常性が明らかになっていく。彼女は大胆な前衛芸術家で、その作品の多くは破壊と再構築をテーマにしていた。彼女が手掛けた「崩れる楽園」と題された作品群は、一見すると純粋な美を湛えているが、近くで見ると細部には不協和音が仕込まれている奇妙なものだった。
「遥は美術サークル『フィナーレ』の中心人物だったのよ。」
三浦の親友である中年女性が、震える声でそう話した。
「彼女は…人間の破壊的な欲望を美に昇華するって言ってた。時には怖かったけど、その情熱に皆が惹かれたのよ。」
その言葉に、瑞貴の目が輝く。彼女はその熱に呑み込まれるように頷いた。
「破壊と欲望…。犯人の哲学にも通じるものがあるわ。」
桐島は目を細めた。瑞貴の興奮は彼にとって、どこか危険なものに見えていた。
次の一手
解剖結果と被害者の背景を基に、捜査陣は次の犯行予測を立てる。遥が所属していた「フィナーレ」の会員リストを調べると、そこには舞台芸術、宝石デザインなど、多様な分野のアーティストが名を連ねていた。
「次のターゲットは、このサークルに関係する人物の可能性が高い。」
桐島は低い声で断じた。
しかし瑞貴の目はどこか空を漂っている。
「でも、もし彼が本当に美を追求しているのなら…次の殺害現場もまた、圧倒的に美しいものになるでしょうね。」
その呟きに、桐島は明らかな不快感を示した。
「瑞貴、その考え方はやめろ。美しいかどうかなんて関係ない。あいつはただの殺人者だ。」
彼の言葉は鋭く、瑞貴を現実に引き戻すように響いた。
最後の一幕
「フィナーレ」に関する調査が進む中、桐島たちはある廃墟を拠点にしていた秘密の展示会に辿り着く。そこには、犯人の美意識に共鳴する一部のアーティストたちの痕跡が残されていた。その場で桐島が手にした一枚の絵には、次の犯行を予告するかのような、妙に生々しく赤い薔薇のスケッチが描かれていた。
瑞貴の心には、彼女自身が気づかないうちに、犯人の哲学が深く浸透している。それは捜査にとって不安定な要素となり、やがて事件の核心へと繋がっていくのだった。
第3章:踊る遺体
それは闇の中で咲いた美の舞台だった。古い劇場の舞台上、柔らかい月光が落ちるスポットライトのように、遺体を妖しく照らしていた。その光景は、ただの死体ではない。それは芸術と呼ぶべきものだった――狂気の中で生まれた、歪んだ芸術。
高名なバレリーナ、川崎玲奈の遺体は、古典舞踏を彷彿とさせるポーズで吊るされていた。彼女の肢体は婀娜っぽく、まるで緻密に仕組まれた機械の一部のように、絶妙な角度と緊張感で配置されている。その足元には真っ赤な血が滴り、床に広がる液体の湖は彼女の最後の舞台を飾る真紅のカーテンのようだった。
玲奈の顔は苦痛ではなく、むしろ陶酔に近い表情を浮かべているようにも見える。閉じた瞳、少し開いた唇、そして汗で濡れた首筋。その首には、再びあの薔薇の刻印が刻まれていた。薄暗い中でもそれは鮮烈に、誘惑的に婀娜っぽく浮かび上がる。
桐島の嫌悪、瑞貴の陶酔
「またこれかよ…。」
桐島は舞台の下から遺体を見上げ、低く吐き捨てるように呟いた。彼の顔には疲労と苛立ちが刻まれている。それを見て、隣に立つ瑞貴が静かに言った。
「でも…美しいと思わない?」
彼女の声は、月光の下で囁かれる愛の言葉のように柔らかく響いた。桐島はその言葉に眉を潜め、冷たい目で瑞貴を見つめる。
「美しい? おい、瑞貴。これはただの殺人だぞ。何が美しいだ。」
「分かってる。でも、見てよ。」
瑞貴は舞台に一歩踏み出し、遺体を指差した。その指先は震えていたが、それは恐怖からではなかった。むしろ興奮がその体を突き動かしているように見えた。
「このポーズ、この照明の当たり方、そして血の流れ方まで…すべて計算されているわ。犯人はただ殺したんじゃない。彼女を“表現”したの。」
その言葉に、桐島は目を細めた。彼女の言うことが間違っていないと分かっていながらも、瑞貴の態度が彼を不安にさせた。
血塗られた楽譜
舞台の中央には、一冊の楽譜が置かれていた。その表紙は血に染まり、犯人の「メッセージ」がそこに記されていた。
「舞台は完成した、次は美しき装飾」
瑞貴はその一文を読み上げたあと、何かに取り憑かれたように微笑んだ。
「“装飾”だって…。きっと次のターゲットは宝飾家かデザイナーよ。」
桐島は彼女の言葉を無視し、舞台の上の遺体を再び見上げた。そのポーズは、まるで彼女自身が生きているようだった。
「犯人は何を考えてるんだ…。舞台芸術を殺人で表現するなんて、正気の沙汰じゃない。」
彼の呟きは、遺体の静寂に吸い込まれるように消えていった。
瑞貴の変化
現場検証が進む中で、瑞貴はひとり楽譜のページをめくり続けていた。そこに記された音符が、彼女には何かを語りかけているように見えた。
「瑞貴、何か分かったか?」
桐島が声をかけると、瑞貴はハッとしたように顔を上げた。だが、その目にはどこか違和感があった。何か深い場所に堕ちていくような、冷たくも艶めいた光。
「…何でもない。ただ、犯人の考えが少し分かってきた気がするわ。」
彼女の声は妙に震えていたが、それが恐怖によるものなのか、それとも別の感情によるものなのか、桐島には分からなかった。
瑞貴が犯人の異常な哲学に引き込まれつつあることに、桐島は気づき始めていた。だが、それを止める方法を彼はまだ知らなかった。
第4章:宝石の涙
その遺体は、まるで夜空を飾る星々が指先に凝縮されたように美しく輝いていた。
冷たい光が闇を裂く中、第三の被害者、宝石デザイナーの篠原結衣が発見されたのは、彼女自身が主催していた展示会の跡地だった。無数の割れたガラスが床に散らばり、それが淡い光を反射する様は、まるで儚く消えた夢の破片のようだった。その中心で彼女の遺体が横たわる姿は、まるで夜の女神が眠りについたかのような神秘性に満ちていた。
しかし、近づくほどにその美は不気味な狂気へと変わる。彼女の婀娜っぽい指先には、鮮やかな宝石が深く埋め込まれていた。ルビー、エメラルド、サファイア。まるで光を閉じ込めるように加工されたそれらは、彼女の指の関節を貫き、彼女自身の血と混ざり合ってなお輝きを放っている。
桐島は思わず顔をしかめた。「…なんて酷いことを。」
だが、隣に立つ瑞貴は一歩前に出て、その遺体を凝視していた。その目は明らかに異様な光を宿している。
「酷い…? そうかしら。」
瑞貴は呟くように言った。その声はどこか夢見るようで、耳元でそっと囁く甘美な誘惑のようでもあった。
「これほど美しく“完成”した遺体を、ただの酷い行いと呼ぶのは、何か違う気がする。」
「瑞貴、冗談じゃないぞ。」
桐島は低く怒りを滲ませた声で言ったが、瑞貴は気にも留めていないようだった。彼女の指先がそっと遺体の手元に伸びる。その宝石の一つに触れようとするかのように。
「見て、このルビー。まるで結衣さんの情熱そのものを閉じ込めたよう。エメラルドは希望、サファイアは彼女の冷静さを象徴しているようだわ…。まるで犯人が彼女の人生を宝石で語っているみたい。」
彼女の言葉はあまりにも熱っぽく、桐島の中にある不安をより一層煽った。
犯人のメッセージ
遺体の隣には、一冊の古びた本が置かれていた。表紙には『麗しき虚構の中で』とタイトルが記されている。中を開くと、犯人によるメッセージが赤いインクで記されていた。
「人の美しさは飾られることで完成する。」
瑞貴はその一節を読み上げた後、小さく笑った。「彼、やっぱりただの狂人じゃないわ。美を作り上げることに一貫した哲学がある。」
「お前、本気でそんなことを言っているのか?」
桐島の声は鋭かったが、瑞貴は意にも介さない。むしろその頬には微かな赤みが差し、その唇には不自然なほどの潤いがあった。
「どうして? 私たちだって誰かに飾られているでしょう? メイクやファッション、言葉遣いだって…結局は自分の美を表現するための“装飾”よ。」
瑞貴の言葉に、桐島は何も返せなかった。ただ、その眼差しが彼女の心の奥深くに何か暗いものが潜んでいることを感じさせた。
知的背景の調査
犯人の残した本とメッセージを元に、捜査陣は専門家を招くことになった。その人物、文化史の権威である藤木教授は、メッセージと古典文学の関連性について語る。
「これはルネサンス期の美学に通じる思想です。美しさを生と死の境界に見出す、という観念は当時の芸術家たちが追求したテーマの一つです。」
藤木の言葉に瑞貴は目を輝かせた。「つまり犯人は、ただの殺人者じゃない。深い知識と感性を持った人間だということですね。」
彼女のその言葉に、桐島は明らかに苛立ちを覚えた。
「だからって、命を奪っていい理由にはならない。」
彼の声は怒りを押し殺したものだった。だが、瑞貴はそれに反論するかのように微笑んだ。
「もちろん。でも、彼の“美”を否定するのは違うと思うの。」
その言葉は、瑞貴の心がすでに犯人の思想に染まりつつあることを明確に示していた。
瑞貴との衝突
車に戻る途中、桐島はたまりかねて瑞貴に向き直った。「お前、本気で犯人を擁護する気か?」
「擁護なんかしていない。ただ、彼の哲学が理解できるって言っているだけ。」
その言葉に、桐島は強い怒りを覚えた。だが、同時に彼は瑞貴の内に潜む危うさに気づいていた。
彼女は捜査官としての理性と、美に惹かれる人間としての感性の狭間で揺れている。そしてその揺らぎは、やがて二人の関係に深い亀裂を生む予感を抱かせるのだった。
第5章:罠の薔薇
夜の闇は深く、冷たく、そして甘美だった。桐島はその静寂を裂くように着信音で呼び戻された。電話の向こうから聞こえるのは捜査班の声ではなく、滑らかで柔らかい、まるで絹糸が擦れ合うような音質を持つ男の声だった。
「桐島刑事。あなたは美を追い求めたことがありますか?」
その声は、直接耳元で囁かれているように親密だった。彼の背筋を冷たいものが走る。
「お前は誰だ。」
「愚かな質問ですね。私はただの芸術家。あなたが愚か者であることを再確認するために、少し手間を取らせていただいています。」
その瞬間、桐島の拳は無意識に握られた。
「瑞貴は…無事なのか?」
言葉を遮るように桐島は吐き出す。だが、犯人は静かに笑うだけだった。
「瑞貴さん? ああ、あの美しい心を持つ女性ですね。彼女は…あなたよりもずっと美を理解していますよ。」
その言葉は刃物のように鋭く、桐島の胸を刺した。
瑞貴への挑発
事件が続く中、瑞貴には無言電話や意味深なメッセージが届いていた。その内容は一見無害だったが、どれも瑞貴の心を試すようなものだった。
「貴女は美を知っている。だからこそ、貴女には資格がある――私の“最終作品”になる資格がね。」
瑞貴はそのメッセージを見て、胸を掻きむしるような衝動に駆られた。その中には恐怖も、興奮も混ざり合っていた。それは禁忌に触れるかのような快感と、身を裂かれるような痛みが入り混じった感覚だった。
「瑞貴、大丈夫か?」
桐島の問いかけに、瑞貴は短く頷くだけだった。しかし、その目の奥には何か深い場所で燃え盛る焔が宿っていた。
犯人の挑発と捜査の混乱
桐島宛てには、犯人からの新たなメッセージが届いていた。紙に書かれた文字は美しく整っており、それだけで犯人の異常な美意識が伝わってくる。
「美を理解できない貴方に、真の美を教えて差し上げましょう。貴方の無力な目が、どれほど滑稽であるか。」
その挑発に桐島は苛立ちを隠せなかった。メッセージが届けられた手段は不明で、完全に犯人の掌で踊らされているようだった。
捜査班は次の犯行を阻止すべく動くが、犯人の計画は彼らの一歩先を行っていた。瑞貴がターゲットになる可能性が高いことに気づいた彼らは、彼女を警護することを決定したが、その計画も犯人には筒抜けだった。
誘拐の瞬間
瑞貴は警護の中、ふとした隙間を狙われた。深夜の自宅で、犯人は静かにその足音を潜め、彼女の元へと忍び寄る。
その瞬間は、まるで絵画の一場面のようだった。瑞貴が目を覚ました時、彼女の体は硬く冷たい何かに触れていた。それは鋼鉄の枠で形作られた椅子で、その背もたれには美しい薔薇の模様が彫り込まれていた。
「あなたは選ばれたのです。美しさを知る者として、私の最高傑作となる資格を。」
その声が闇の中で響くと、瑞貴の心は奇妙な安堵と恐怖に揺れ動いた。
桐島の無力感
瑞貴の失踪を知った桐島は、犯人が彼女を連れ去ったことに直感で気づいた。だが、手掛かりは何もなく、彼の胸には焦燥感と無力感が積み重なる。
「奴はどこだ…瑞貴をどこに連れて行った?」
桐島は拳を壁に叩きつけるが、それが彼の無力さをさらに際立たせるだけだった。
犯人からの最後のメッセージが彼に届いた。そこには短い一文だけが記されていた。
「薔薇は今、開花の時を迎えます。」
その言葉の背後にある意味を理解するため、桐島は再び犯人の痕跡を追い始める。そして、彼は次第にその暗い美の世界に引き込まれていく。
第6章:薔薇の庭園
夜の帳が下りる中、廃墟と化した洋館は、まるで時の流れに取り残された異世界のように佇んでいた。その周囲には無数の薔薇が咲き乱れており、月光に照らされた花弁が妖しく艶めいている。それはただの花ではなく、むせ返るような香りと共に、不穏な官能の空気を漂わせていた。
桐島は銃を手に、荒れ果てた庭園の中を進んでいた。その靴音は湿った土の上で微かに響き、彼の耳に薔薇の囁きのように聞こえた。背筋が冷たい汗で張り付き、空気が肺を焼き付けるように重く感じる。
彼はここにいる。瑞貴も、この異常な犯人も。
囚われの瑞貴
洋館の中、瑞貴は椅子に縛り付けられていた。部屋の中は重厚な薔薇の香りで満たされ、彼女の意識をかき乱していた。壁一面には犯人が描いたと思われる絵画が並び、そこには過去の犠牲者たちが美しくも凄惨な姿で描かれていた。その中には、瑞貴自身を描いたスケッチも含まれている。
「あなたは私の最高傑作になる。」
犯人はそう言いながら、瑞貴の頬に手を触れた。その指先は冷たく滑らかで、どこか異様な執着を感じさせる。瑞貴の体は縛られて動けないが、心の中では複雑な感情が渦巻いていた。
「なぜ私を選んだの?」
瑞貴が問いかけると、犯人の顔に微かな笑みが浮かんだ。
「あなたの中には、理解があるからだ。美に対する渇望。そして、それを恐れる心。あなたは私と同じだ。」
その言葉に瑞貴は息を呑む。彼女は否定しようとしたが、その目の奥には、確かに犯人の言葉に共鳴する何かがあった。
桐島の突入
桐島は銃を握りしめ、館内に足を踏み入れた。廊下の奥から微かに聞こえる音楽。それは古いバイオリンの調べで、緊張感と甘美さを同時に纏っていた。音の源に向かうと、そこには広間が広がっていた。
広間の中央、瑞貴が縛られた椅子に座り、その周囲には薔薇の花弁が円を描いて配置されていた。それはまるで祭壇のようであり、瑞貴はその中心に捧げられた生贄のように見えた。
「そこまでだ!」
桐島の声が静寂を引き裂いた。
犯人は振り返り、冷たい笑みを浮かべる。その手には小さなナイフが握られており、光を反射して不気味に輝いている。
「ああ、桐島刑事。ようこそ、私の薔薇の庭へ。」
美と破壊の哲学
「お前が望んだ美というのは、ただの狂気だ。」
桐島が叫ぶと、犯人は微笑みを浮かべながら首を傾げた。
「狂気? いいえ、これは究極の美への探求です。人間という醜い生き物を、芸術として昇華する。それが私の使命です。」
犯人は瑞貴の背後に立ち、ナイフを彼女の肩に押し当てた。だがその動きには、まるで彼女を傷つけることを楽しんでいるかのような、奇妙な優雅さがあった。
「瑞貴さんは理解している。美とは痛みであり、破壊であり、そして再生なのだと。彼女もまた、私の作品の一部となるべき存在だ。」
「やめろ!」
桐島は銃を向けるが、指は引き金を引くことを躊躇していた。犯人の言葉は、どこかで彼自身の心にも響いていた。美とは何か? 正義とは何か? 彼の中で矛盾が膨らむ。
対決と救出
犯人がナイフを持ち上げたその瞬間、桐島は引き金を引いた。銃声が響き渡り、犯人の肩を撃ち抜く。だが、犯人は倒れず、なおも微笑みを浮かべたまま、瑞貴に近づこうとする。
「完成する…もう少しで…。」
その言葉を遮るように、桐島は再び引き金を引いた。今度は的確に心臓を撃ち抜いた。
犯人は膝をつき、薔薇の花弁の上に倒れた。その血が花弁を濡らし、まるで花自体が命を持ったかのように艶やかに輝いた。
瑞貴の心の揺れ
桐島は瑞貴を解放し、彼女を抱きしめる。その体は冷たく震えていた。だが、彼女の目には涙ではなく、奇妙な輝きが宿っていた。
「彼は間違っていなかったのかもしれない。」
その囁きは、桐島に新たな不安を植え付けた。瑞貴の心の中に、犯人の哲学が根を下ろしているような気がしたのだ。
第7章:歪んだ救済
その夜、風は静かだった。薔薇の庭園での死闘から数日が過ぎ、町はまるで何事もなかったかのように日常を取り戻していた。しかし、桐島と瑞貴の心には、まだ重い闇が垂れ込めていた。
事件後の静寂
瑞貴は病院のベッドに横たわっていた。その顔には無数の疲労の跡が刻まれていたが、その目には不気味な輝きが宿っていた。彼女の手は無意識にシーツを握りしめ、微かに震えている。
桐島は彼女の横に座っていた。彼もまた疲れ切った様子で、無精髭が伸びた顔にはどこか暗いものが漂っている。彼の目は瑞貴の顔を見つめる一方で、その視線はどこか遠く、瑞貴を越えて何か別のものを見ているようだった。
「…救ってくれてありがとう。」
瑞貴がぽつりと呟く。その声はか細く、儚げで、まるで薄氷が割れる音のようだった。
「当然のことをしただけだ。」
桐島の声もまた疲れ切っていたが、その低いトーンには、自分自身を納得させようとするかのような無理が含まれていた。
犯人の最期の言葉
桐島の耳には、あの夜、犯人が最後に放った言葉が未だ鮮明に響いていた。
「美は、破壊によってのみ完成する。桐島、お前もやがて理解するだろう。」
その声はまるで甘い毒薬のようだった。彼の心にじわじわと染み渡り、何かを変えていく。犯人の冷たい笑みと、それを覆う薔薇の花弁が頭の中に焼き付いている。
彼は自分自身に問いかけていた。犯人の言葉はただの狂気か、それとも真実の一端を掴んでいたのか?
瑞貴の傷と囚われ
瑞貴は夢うつつの中で、あの夜の光景を繰り返し思い出していた。犯人の手が彼女の頬に触れ、彼の冷たい指先が彼女の婀娜っぽい肌に刻み込むような感触。それは恐怖であると同時に、奇妙な官能性を伴った感覚だった。
「瑞貴、もう安全だ。奴は死んだ。」
桐島が言葉をかけるが、瑞貴は首を横に振る。
「違う…。彼の哲学は死んでいない。それは私の中に残っている。」
その言葉に桐島は胸が詰まるような感覚を覚えた。彼女は救われたのではなく、何か別の形で犯人の手中に捕らわれているのではないかと。
桐島の内なる変化
事件が終わった後も、桐島の中には何かが残っていた。薔薇の刻印。あの艶めかしく婀娜っぽくも恐ろしい紋様が、彼の頭を離れなかった。彼は無意識のうちに自分の胸元に手を当て、何かを探るような仕草をしていた。
夜、彼は鏡の前に立った。シャツを脱ぎ、裸の胸元をじっと見つめる。その肌には何もないはずだった。だが彼の目には、うっすらと浮かび上がる薔薇の形が見えているように感じた。
「そんな馬鹿な…。」
彼は小さく呟いたが、その言葉は空虚で、自分自身を慰める力もなかった。
歪んだ救済
事件は表向きには解決し、犯人は裁かれた。しかし、桐島と瑞貴に残されたものは、美という狂気に染まった影だった。
最後の場面で桐島は、街の喧騒の中を歩きながら、自分の胸に再び手を当てる。その指先には確かな違和感があり、その感覚が彼を不安と興奮の境界へと追い込んでいた。
「美とは何だ…。」
その言葉を呟いた彼の口元には、犯人と同じような冷たい笑みが浮かんでいた。