計算機自然と民藝
衝動性を満たしてくれる土曜日の刺激的な午後。
私は朝から筑波大学デジタルネイチャー研究開発の「計算機自然と民藝」へ行くと決めていた。
午前中は長男の算数課題「がい数」の理解を手伝い、さぁ午後は一緒にでかけましょうと思っていたら、息子から僕は行かないと言われた。
僕たちは家にいるから、ママとパパで行ってきてと、
こんな事は初めてのことである。一瞬で私の頭は混乱し、計画を潰されイライラがこみ上げた。しかし説得するのも無駄だということも同時に思考していたため、急所、夫と二人で計算機自然と民藝を見に行くこととなった。
デジタルネイチャー
字面だけでは意味をさっぱり理解することができない単語だ。そして語彙から感じる印象は新しい感じ。
だいたい、落合陽一さんという方は広辞苑なのか?というほどに言葉をよく知っていて、概念を言葉にして会話する天才だと思う。
私なんかは、出会ったことのない言葉に出会ったあと、その言葉を自分が使うときは、馴染みのある言葉に言い換えて使用してしまう凡人なので、落合陽一さんの話を聞くときは言葉の検索から始まる。
デジタルネイチャーを簡単に説明する単語を私は見つけることができない。でも、展示会に行って手にとって見て体感的に理解することはできた。
自然がつくっているアルゴリズムを我々がつくり出し境を探求する世界。いつかは境がなくなる始まりなのかなと感じた。
デジタルネイチャー
この語彙に対して私の扁桃体は、リスク、不快、異質、怖いなどの感情を発動する。語彙だけでなく、ゴキブリを制御装置で制御する試みには同じ反応を示した。誰かに、なにかに制御されることが大嫌いな私は、デジタル制御へも嫌悪感を感じたのだ。世の中は私のような人ばかりではなく、誰かにコントロールされてでも、できないことを習得できたら楽しいと感じる人もいるということを夫の反応から感じた。
喜びを共有することへのデジタルネイチャー
デジタルネイチャーは凹凸を埋める、平等な世界の実現ステップなのだと感じずにはいられなかったし、受け入れざるを得なかった。理解し合えない感覚を体感的に理解し合う社会。マジョリティーが制する社会でのマイノリティーとの共生。
喜びを共有しよう。これは素晴らしい合言葉だ。人は喜びも共有できれば、憎しみも共有できるし、何かと色々なものを共有できる存在だ。しかし、SNSではそれが難しい。喜びの共有をデジタル仮想空間で行うということと、現実にあって体感し共感し合うことの違いはどこにあるのだろうか?または、共感脳の欠如した人間が増えているのだろうか?
新しい価値観を持つものと、持たざるものの間で価値観格差が生じているように感じる。喜びを共有することは結果自分の脳を幸せにすることだ。
どんどん共有しあって、幸せな社会脳を高めていきたい。
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