神って何だろう。 宗教に触れた時、違う人種と出会った時、芸術の中で描かれる存在を観た時、ふとそんな疑問が過る。 最も顕著なのが、精神的に不安定な時に何かすがるものが有ればと思った時だ。 人間の歴史上、その存在に求められてきたものは、責任に他ならない。狩猟生活に於ける神は山の神、海の神、時にはその獲物に姿を変えて祀られてきた。また、農耕民族にとってはそれが定住地固有の神であったり、神話を基に創造されたものである場合がある。それらの神々に求められたのが、不猟不作の責任である。
先日、生まれて初めての明確な霊体験というものがあった。 これまで、寝込み時に声や慰霊碑の近くでの裸足の足音、曰くのある場所でのカメラの動作不良などはあったが、全て"きのせい"で済ませられる事柄であった。 私自身、霊的存在に対しては半信半疑。割合としては疑の方であるなりに怪談やオカルトなどを嗜む程度には好きであった。 科学的根拠、物理的調和が成されない事柄に対して、エンターテイメントと捉えながら否定的姿勢を内的にとってきた自分である。 しかし、今回体験したことは例に挙げ
一言に"芸術"と言っても様々な分野がある。美術や音楽、物語や演劇。 その正体は作り手がいて、受け手が居る この二者のただならぬ作用である。この作用とは一体何者なのだろうか。 "ただならぬ"作用というのも、作り手が狙った表現が必ずしも受け手が受け取る印象ではないからだ。作り手の内省的世界は制作時点での脳が認めた感覚記録上で作られた物差しであり、これを理解するには受け手は作り手に同一化しなければならない。 しかし、元は違う人間。同一化の物差しや眼鏡を作ろうにも表面的にしか理