玉川上水を歩く 4
筆者がついに羽村の堰に到達したのは、中学校に進学した9月のことであった。玉川上水にとり憑かれて足掛け3年、念願のゴールに達したのである。
ともにゴールインした盟友はN山氏、筆者にもまして玉川上水探検に熱情を捧げた相棒である。なにしろ、小学校卒業の時点で隣接する他県へ転出していた彼はその日の朝、長距離を厭わず三鷹駅へ姿を現し、筆者と共に歩き出したのであった
残念ながら、例によって途中の光景の記憶は残っていない。気の置けない親友との上水歩きを心往くまで楽しんだのであろう。三鷹から羽村堰まで25km、疲れを知らない中学生である、ゴールの玉川兄弟銅像が遠くに見えたとき、走り出したのではなかったか。
たどりついた羽村の堰の風景は、現在も変わってはいない。多摩川の清流を固定堰と仮設堰とで捉え、上水路へと導いている。上水路には滔々と多量の水が流れ込みこれが都民の飲料水へと送られるのである。すなわち、小平監視所までが当時もそして令和の今も、現役の導水路であり、四百年近く現役の上水路として活用されているわけである。玉川兄弟像の前でN山くんと二人体育坐りで並んで記念写真を撮った。10代前半の我が勲章である。
ここまで書いたものを読み返し、気付いた。第三回探検でたどった「環八~三鷹」を、筆者は一度しか歩いていない、ということに。幡ヶ谷から代田橋、環八までは複数回、三鷹以降も二度は歩いている。幡ヶ谷下流や羽村堰近辺は、その後個人的に何度か訪ねた。せっかくnoteに投稿しているのだ、希薄な区間を再踏査してみてもいいのではないか。
思い立って早春の午後、環八中の橋交差点へ向かった。
玉川上水路を目指すと、必ず上り坂に出くわす。玉川上水から分水を引き易くすべく、そもそも等高線の尾根筋に当たる地点を選んで玉川上水は掘削された、という設計になっている。江戸時代の測量技術の高いことに感服するばかりである。
例えば、利根川から荒川への武蔵水路、武蔵大堰という巨大な建造物が利根川中流に築かれているのだが、利根川の水を取り入れるのに最適な場所として選ばれたのであろう。そしてその地は、江戸時代の見沼代用水の元圦と同じ地点である。つまり江戸時代の技術が現代に通用しているわけだ。多摩川からの取水口が羽村であることもこの400年間一貫している。現代の村山貯水池への羽村村山導水路も、やはり同じ場所から取水されている。
中の橋交差点に、玉川上水を感じさせるものは何もなかった。予期していたことではある。巨大な首都高と環八、半世紀前の記憶と重なるものはない。首都高に沿って西へ歩き始めて、やや心和んだ。高速道路を囲うフェンスに水道局の掲示があったのである。「ここは水道用地です。柵をこわしたり立入ることを禁じます。」、そう、上水路跡が首都高4号線~中央高速に活用されている。江戸の人々のための施設が、さらに公共的に活用されているのは素晴らしいことなのかもしれない。
高層住宅も民家も密集する高井戸インター近辺、50年前はどのような景色であったのだろう、すでにその当時に存在したらしい旧富士見丘小学校を見れば、人々はここに暮らしていたのであろう。中央道はそれより前に計画され、上水路を挟む広大な土地が確保されていた辺りを少年だった筆者が歩いたのか。
中央道が南へ緩やかにそれていき、片側2車線の道路の上下線に挟まれた中心に流れが姿を現したのは浅間橋からであった。流れに沿って遊歩道が整備されている、曰く「都立 玉川上水緑道」「歴史と文化の散歩道」だそうである。車の往来の激しい都道が流れを挟んでいる。水の流れを眺められることにちょっとホッとする。高井戸公園なる広大な園地が左岸側に眺められる。玉川上水の歴史的価値が評価され、流れのいたる所に案内板がある。半世紀前にすでにそれを感じた我が先見性を誇らしく思う。上北沢村分水、烏山分水の遺跡にも丁寧な解説板が設置されてあった。車の騒音に包まれながらも、史跡玉川上水を味わうことができる。久我山水衛所跡、などという表示さえある、「水衛所」とはマニアックな史跡ではなかろうか、同好の士が豊かなのであろう。古びた「水難者慰霊碑」との石碑を見る。なんでも、かの金田一京助博士も建碑に関わっておられるらしい。上水の奔流に命を落としたのは太宰ばかりではなかったのだ。
杉並区内の上水路散策が行きつくのは、三鷹市との境界に位置する牟礼橋であった。小学校の友人に「 I 牟礼くん」がいて、牟礼という地名を強く意識したことを思い出す。上水路を挟んでいた高規格都道は南へそれていき、ようやく静かな雰囲気を取り戻す。いや、そればかりか、高規格道路の牟礼橋に隣り合った「どんどん橋」、煉瓦で組まれた古色然とした、必ずや半世紀前の筆者はこの橋を見たであろう、それに違いないという風情の古橋がある。路面が土になっている、キーストーンに彫刻が施されている、傍らには供養塔がある等々、大変に魅力的な場所である。これがここに残されている幸を味わおう。
が、しかし、ここから先が、玉川上水踏査の真骨頂であった。よく踏まれた土の道、深さが4~5mもありそうかとも思われる掘割り、生い茂る樹々、たまに現れる沿川の耕作地、いよいよ半世紀前に踏み迷い込んだかのような光景がたびたび現れてくれる。タイムスリップを味わうかのようなひとときであった。
その上流に架かる宮下橋も懐かしいフォルムのコンクリート橋であった。竣工が「昭和二十五年」と彫られている。間違いなく少年の日、この橋を目にしていた筈である。
やがて右岸側の標高が明らかに高い区間を進むようになる。先に「尾根筋にあたる地点」と書いたのだが、武蔵野台地の盛りあがるこの近辺は、斜面の縁に等高線を求めながら開削するしかなかったのであろう、左岸側にはるかに家々の屋根が見下ろされる。この区間は右に左に蛇行が繰り返されている。等高線との関わりであろう、少年の頃には感得できなかった光景ではある、独りよがりと承知しつつも、50年を重ねて理解できるこの流れの重層さに感無量であった。
井の頭公園までが土の道だった。この先、羽村までの間、基本的にアスファルトの沿川になっていることを想えば、牟礼橋~万助橋が最良の玉川上水散歩道と言えよう。郷愁を胸に三鷹駅から帰途についたのであった。
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