寅 薬 師    下準備

 12年前に買い求めたガイドブックによれば、この中武蔵七十二寅薬師御開帳には240年もの歴史があるという。戸口村(現坂戸市)龍福寺寛智和尚と上吉田村(現坂戸市)の松本忠左衛門とが願主となって、安永五年(1776年)に札番と御詠歌がつくられた。天明二年(1782年)から寅年ごとの御開帳が現代まで続けられていて、2022年は実に21回目にあたるらしい。
 本には72カ寺の写真が1番札所から順に載っている。この通りに順番に寺々を訪ねればいいのか。次の札所への距離もそれぞれ紹介されてある。例えば1番戸口龍福寺から2番沢木薬師堂ヘは「五丁」だそうだ。巻末には有難いことに略地図も添えられ、72寺院の広がりが視覚的に把握できる。旧知の近所の寺院もあるが、大半は未知のものばかりである。
 地図を見るうちに不安になってきた。札所は4市4町に点在している。「丁」だの「里」だのと示された距離をメートルに換算してみると総計70㎞を下らない。これを一週間で巡るのか。昔の人の脚力には敵わない、自動車を使わせていただこう。とは言っても土地勘のある所ばかりではないし、はたして正しく訪ね当てられようか。240年の間には栄枯盛衰もあったであろう、里の共同墓地だけが写っている写真もある。近くまで行って迷ってしまっては時間を空費するばかりであろう。うむ、下見が必要だ。
 3月なかば、略地図を見て手近なところから訪ねてみることにした。札番にはとらわれず、近い寺院から回ってみようとの魂胆である。実際に行ってみると必ずしも略地図が正しいわけではなかった。あるいは近年の区画整理で変更が加えられたのかもしれない。そこ、と思しき場所まで行って、本の写真と現地の建物、寺号山号を手掛かりに同定できたら次を訪ねる、という下見である。大方は建物を写真で確認できた。写真と甚だ異なる5番札所も、智福寺という寺号を確かめた。
 といった具合に、この日は一気に28カ寺の下見をしたのだが70番東松庵には手こずった。地図の示す場所へ行っても写真の建物がどうしても見つからぬ。二巡三巡してみるのだが周囲に青トタンの家は見当たらないのである。そこでスマホでググってみると、先ほどより再三訪ねた場所が示され、かつ画面には全く別の建物が現れるではないか。筆者はすでに目的のものを見つけていた、ただ同定ができないでいたわけである。
 同様に65番真福寺にはついにたどり着けなかった。本の写真は草叢である。藪と打ち捨てられた古墓石と向こうに卒塔婆が写っている。日吉という地名から松山神社の周辺を調べてみる。あるいは70番の経験を踏まえスマホの神通力に頼ってみると、神社仏閣を紹介したブログに「真福寺の境内社だった日吉神社」という記述があり、日吉神社境内も検分するが手掛かりに出会えない。仕方がない、当日になれば回向柱が立てられるはずだ、ここは当日に賭けよう。
 日を改めて今度は川越市域から坂戸市東部、さらに川島町方面へ下見にでかけ27カ寺を巡った。今回もなかなかに手強い堂宇も有ったがだいたい目星が付いた。霊場巡礼のホームページに「個人管理」とあった20番横沼薬師堂については遠目に眺めるだけにした。38番光勝寺、40番吹塚薬師堂の写真は墓石ばかりでどちらも堂宇は写っていない。深追いは諦め当日を待つこととする。
 そして御開帳前々日の4月5日、残りの未知の寺院の下見を敢行した。2日前である。すでに一番龍福寺には、目にも眩い白木の回向柱が屹立し、「南無薬師如来」と染めぬかれた無数の赤い幟が翩翻と風にひるがえっている。祭礼を前にした盛り上がりを期待しつつ出立する。この日は吉見町周辺の8カ寺を近いところから訪ねた。63番龍性院は静かな面持ち。56番長源寺、門前の掲示板に寅薬師御開帳の張り紙。62番吉見観音、薬師堂前に回向柱まさに建立作業中。61番和名薬師堂、ここは集落の集会所で戸締りがされているがやはり回向柱あり。59番下細谷薬師堂、ここは共同墓地のささやかなお堂で、60番明王院も平静を保つ。58番無量寺の掲示板に御開帳張り紙。66番寶性寺は静かに音無しの構え。
 はてさて御開帳は4月7日から13日、ちょうど七日間。72カ寺のうち、どれほど御開帳を行うのか、筆者はいくつ訪ねられるのか…。

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