東武東上線 各駅停車 6 東松山

 東松山駅を最寄り駅とする、ともに百年ほどの歴史を有するふたつの県立高校がある。松山高等学校と松山女子高等学校である。創立以来の長い伝統を誇るだけに、全国レベルのステージに立つことも多い両校だ。しかしその校名を聞く人は、てっきり四国の学校だと思ってしまう、のだそうだ。
 比企郡松山町が1954年に周辺4か村と合併、市制施行にあわせ愛媛県松山市との混同を避け「東」を冠した。しかし以来70年になろうとするが、近在の人々は今でも「松山」との呼称を愛する。四国の松山は「まやま」とツにアクセントが置かれることが多いだろう。こちらは「まつやま」と平板に発音される。実際、市内のいくつもの小中学校等の中で、埼玉県立特別支援学校のみ「東松山」を称す。松山という地名への自負が感じられる。
 坂戸が終点になっていた東上線は、進路を90度北に向け、越辺川、都幾川等を越え比企地方の中心都市、松山町に到る、1923年10月1日のことであった。その直前の関東大震災により若干遅れたそうではあるが、坂戸延伸から7年を経ての開通に人々は湧いたことであろう。東武鉄道は、この駅を、武州松山と命名した。武蔵の松山であるとの宣言である。
 筆者はかねがね「川越児玉往還」と東上線の進路とにこだわってきたが、古代からの人々の営みの上に中世以来の城下町の歴史を持つこの地に鉄道が敷かれることにむろん異論をはさむことはしない。ここで線路が再度進路を90度西に向けるという大回りをしようとも、松山をとばしてはならぬのだ、ことほどさように重要なところなのである。なにをもって筆者がそこまで〝松山ヨイショ〟したいのか、松山がいかに複層的に文化性を醸してきたのか、魅力的な土地か、語れるだろうか。
 駅西口に近い箭弓稲荷神社は和銅五年創建と伝えられる古社である。その社名から野球選手の崇敬を集め、バットやホームベースの形をした絵馬が人気をよぶ。境内の牡丹園は花の季節にはそれは見事であるが、根津嘉一郎奉納の100年の歴史をもつ。
 ニュートリノ研究でノーベル物理学賞を受賞された梶田隆章さんは、東松山市立野本小学校の出身だが、野本小のすぐ隣にある将軍塚古墳は巨大な前方後円墳でさきたま古墳群よりも古い時代の築造であり、築造時には県内最大規模のものであった、ということはあまり知られていまい。
 隣り町となるが国指定史跡吉見百穴は凝灰岩の岩肌を穿った横穴墓群で、その威容は壮観である。また戦時中、空襲を避けるための中島飛行機地下工場が建設されようとした戦争遺跡でもある。隣接する松山城跡も国指定史跡でありここをめぐる戦国期の攻防は激しく、今でも曲輪、空堀など様子を観察できる好適地だ。
 史跡の話が続いてしまった。芸術に目を移そう。東松山にあり特筆すべきは丸木美術館ではなかろうか。丸木位里・丸木俊夫妻が生涯をかけて描いた世界的な大作「原爆の図」が展示されてある。広島を訪ねることに匹敵するほどの価値があると確信する。
 文学作品にも触れておこう。「天の園」という児童文学がある。作者は打木村治。明治から大正時代の、都幾川周辺の農村で、少年が大いなる自然の中で育っていく姿が情緒豊かに描かれる。「路傍の石」や「次郎物語」ほどには知られていないが、それらに勝るとも劣らない大作である。
 そして忘れてはならないのが、松山のやきとりだ。豚のカシラ肉とネギとが炭火で焼き上げられる。それを辛味のきいた味噌だれで食べるのである。これはやみつきになる。
 ほかにも、源頼朝を支えた鎌倉時代の豪族・比企氏の伝承、日本スリーデーマーチ、梨狩りの東平等々魅力あふれる町である。川越ばかりが脚光を浴びがちな東上沿線ではあるが、埼玉県のほぼ中央に位置する東松山をどうか忘れないでいただきたい。

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