寅 薬 師 第一日目 -2-
4月7日木曜日、午後のスタートは十三番上広谷正音寺から。善能寺、法昌寺同様しっかりとしたご寺院だ。赤い幟も翻る。本堂で法被を羽織った方に迎えられる。朱印帳をお預けしている間、どうぞ写真撮ってくださいとしきりと勧めてくださる。遠慮の気持ちもあったのだけれど、せっかく「どうぞどうぞ」と言ってくれるのだから、おずおずとスマホを向ける。そんな筆者を見てさらに「一緒にどうぞ」とスマホを構え薬師様と筆者とのツーショットまで撮ってくれる。「この回向柱の準備なども皆さんでなさったんですか」と問うと「檀家で力を合わせて用意するんです」と笑顔で語ってくださった。気持ちがいい。
十四番、川越市天沼正進庵。こここそ、13歳だった筆者の心をとらえた、人形供養の寅薬師、12年前にその行事の存在を筆者に知らしめたご縁浅からぬ庵である。
12年前は、近隣の大勢の皆さんが室内に詰めかけ拵えた人形も誇らしげに並んでいた。しかし今回、様相が一変し閑散とした空気が漂う。ご高齢の男性が、うちは書置きなんですよ、と済まなそうにご朱印をくださる。すでに触れたが、集落の集会所である。朱印番の方もお二人だけ。「お人形は…」と尋ねると残念そうに「今回はコロナで」断念されたという。いえいえ、それでもこうして庵を開けてご朱印くださったではないですか、ご苦労様です。懇ろに頭を下げて失礼する。
次なるは十五番鯨井観音寺。川越へ県道を運転するたびに幾度となく目にしてきたお堂がここの薬師堂だったことを、今回の下見で初めて知った。普段は閉ざされている扉が開いて、やはり檀家の方かと見受けられる男性が朱印帳を受けてくださる。梵字の朱印と黒ゴム印と日付のペン字。朱印帳と一緒に新聞記事のコピーを渡された。4月5日の埼玉新聞に寅薬師が大きく取り上げられたのだそうだ。一番龍福寺のご住職がこの度新たに発行したガイドブックを手にした写真が載せられている。コロナ禍でも伝統行事を守ろうという関係者一同の熱意が伝わってくるようだ。
川越市内に位置する札所はもう一山、下小坂の十六番永命時である。小畔川沿いに広がる田圃をみおろす高台に建つ。こちらでは六枚綴りの冊子をいただいた。各札所の名、住所、御詠歌も列挙されてあるのだが、興味深かったのは、当山薬師堂が医王堂と呼ばれることや、元禄三年(1690)に建立されたと由来が語られている事であった。
十七番長福寺は坂戸市紺屋、こちらも大谷川に臨む小高いところである。広々とした境内のこぢんまりとしたお堂でご僧侶が筆を執る。廃寺になった十八番のご朱印もこちらで頂戴する。そう下見で東円寺を訪ねたが、そこには共同墓地があるのみであった。火災で焼けてしまったのだそうだ。
横沼の十九番勝光寺の門前には大川平三郎翁の胸像がある。翁は当地、旧三芳野村出で、叔父にあたる渋沢栄一の書生となり、抄紙会社(後の王子製紙)で一流の技師に育った後、いくつもの製紙会社を経営したばかりか、さまざまな産業を支援し、生涯80を超える企業の経営にかかわった人である。大川家の菩提寺であり墓地には翁有縁の人々が眠る。
二十番北谷山薬師堂は個人のお宅のお堂ということで下見では遠くから眺めただけだった。この度は赤い幟もよく目立ちご朱印もお願いできそうだ。お年を召したこの家の女将が筆を執り丁寧にご朱印をしたためてくださる。傍に立つ回向柱の文字に目を奪われた。たいていは日付が「令和四年四月吉日」か「四月七日」と書かれているが、ここでは「四月十二日」とされているのだ。わけを尋ねてみるが「うちはいつもこの日付を書く」としか答えが得られない。以前からの仕来たりなのだそうだが理由は特にないと笑うばかりである。
二十一番小沼東光寺、二十二番塚越西光寺。寺号の通り東に位置する東光寺と西の西光寺だ。どちらも由緒正しそうなご寺院だ。午後三時をすぎてそろそろ日が陰ってきた。初日だけでこんなに周ってしまった。そろそろくたびれてもきた。家路につくとしようか。二十三番石井大智寺が帰る方角にある。そこで打ち止めとしよう。江戸幕府で長崎奉行だの大目付だの重職を担った黒川丹波守正直の墓所でもある、寺域の広大な当寺。キリスト教会かとも見間違えるような本堂のこと、高床式の鐘楼のこと、山門、文殊堂、長屋門…語るべきことは多いのだが、とりあえず、初日はここまでにしよう、よくがんばった。