大菩薩峠紀行 5
小説『大菩薩峠』の沼にハマった筆者が、登場人物たちの影を追ってさまよい歩いた“聖地巡礼”記が、この「紀行」である。物語が衝撃的に勃発した山梨の大菩薩峠から起筆し、武州御岳山、港区芝界隈、青梅、本郷等々と訪ね歩いたことを綴ってきた。
江戸市中で前回書き落としたのが神田柳原だった。新徴組の金子という隊士の邸が連中の溜まり場になっていて、机龍之助も宇津木兵馬も出入りしたことになっている。万世橋の下流、神田川右岸の柳原通り近辺のことであろう。事務所の入居するビル街といった印象で過激浪士が身を隠すのに丁度よかろうと感じたが、訪ねてみて現地の解説板によれば江戸末期から明治にかけ古着商の一大マーケットだったそうでアパレルで栄えたらしい。個人的には小説には登場しないが柳森神社が大変面白かった。狭い境内に富士塚があり力石があり狸がまつられてあり社殿に鏝絵「鯉龍」(池戸庄次郎作と伝わる)まで残されているのだ。
さて、大菩薩峠紀行 第3回の終末に机龍之助が上方へ行くと書いた。首都圏在住の筆者にはこれから先の聖地巡礼は覚束ない。すべてを追うのでなく、たまたま知っている土地について語ることとしたい。龍之助の旅に、関やら大津やらでのエピソードが描かれるが、漠然としていて「聖地」は特定できない。大津へは何度か足を運び湖畔に憩ったり三井寺を散歩したり琵琶湖疏水取水口をながめたり、湖都の歴史に思いを馳せたものであるが、龍之助については、大津での出来事だったのだなあ、と読み飛ばす。大津から逢坂山を越えたあたりでの薩摩の田中新兵衛との決闘シーンも映画の題材にはうってつけ。田中新兵衛も実在した人物をモデルとしている様子。筆者には蝉丸神社が興味深かった。ここに登場する山崎譲という新徴組の一味も末永く活躍することとなる。彼らは「山科 奴茶屋」で酌み交わしたようだが、残念、奴茶屋は30年前になくなっている。筆者は山科来山軒のカレーラーメンの味が忘れられない。
宇津木兵馬も、兄の仇龍之助を追って京に上る。彼らと新徴組―新選組の関わりの中で舞台になるのが島原であった。また老巡礼の孫娘お松が、伯母により上方へ売られ身を落ち着けたのもこの島原、木津屋だった。木津屋は実在したらしい。作者中里介山が作中、島原について、その栄枯盛衰について詳しく語っている。ことに老舗の角屋についてはその屋内装飾、間取り、言い伝え等々事細かに記している。角屋は幸い保存され「角屋もてなしの文化美術館」となり見学が可能だ。同じく作中に名の見える輪違屋に至っては置屋・お茶屋として営業を今も続けているという。そういった眩い世界に縁遠い筆者は、島原の辻々を散策し、正門たる「島原大門」をじっくり眺めてきた。ああ、そういえば、乱心した龍之助が座敷で愛刀武蔵太郎を振り回し御簾を切り裂く、映画「大菩薩峠」の有名なシーンは、角屋での出来事だった。
乱心の龍之助がどこをさまよい歩いたのか、正気を取り戻したのはどうやら西京極近辺だったらしい。あてもなく南へ東へ歩き続けて次に姿を見せるのが大和国八木の宿。さらに長谷寺の籠堂に一夜の露をしのぐ模様。広い長谷寺の境内、籠堂がどこにあるのかは存ぜぬが、人知れず身を隠すにはうってつけの深い山である。その後彼は三輪に移り、しばらく植田丹後守という三輪大明神の社家に居候をすることになる。かつて若い頃、山の辺の道のサイクリングを思い立ち真夏の日差しを浴びながらペダルをこいだことがあった。三輪の大神神社の社頭をかすめたものの、三輪の町に立ち寄ることもなく、ゆえに残念ながら小説の展開と風景とを重ね合わせられない。
先に「関やら大津やらでのエピソード」と書いた。お豊というお浜に生き写しの女性に龍之助が出会った話で、関(伊勢)の茶屋でガラの悪い駕籠屋に言いがかりをつけられていたお豊を救ったのがその一つ。大津では偶然同宿していたお豊が琵琶湖で心中を図ったという物語。その死んだはずのお豊と三輪で再会し小説は奇妙な因縁に導かれ展開していく。『大菩薩峠』のストーリーは端緒を開いたばかりである。
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