大菩薩峠紀行 10
「やはり現地を訪ねたいなあ。」との一文で前回をしめくくった。
行ってきました、行ってみました、聖地巡礼を標榜するのだから実地踏査を怠ってはいけません、いいもんですねえ、ちゃんと小説の舞台に足を運び物語の中に身を置くこと、主人公らの感傷を追体験したような気分を味わうこと、いやあ、楽しかった!
と浮かれていないで「紀行」をすすめなければいけない。「東海道の巻」では主な登場人物たちが東へ下っていた。おおむね、静岡・清水付近が舞台だったのだが、どんな思惑があるのかがんりきの百蔵によって、龍之助とお絹は進路を北へ、甲斐への道に変えられてしまう。それも富士川沿いに遡る身延みちでなく、興津川源流地帯の徳間峠を越えるという。二挺の駕籠を先導して険しい抜け道を登って行く。
後に明かされることだが、がんりきの百蔵は甲州出身の前科者で、右腕に甲州入墨があったという。標高795mの険しい峠の上で、うっかりそれを駕籠かきに見られてしまう。入墨者を甲斐に入れようものなら、自分たちまで捕えられてしまう、と駕籠屋たちが騒ぎ始めたとき、龍之助がすらりと刀を抜いている。仰天した駕籠屋たちは駿河側へ逃げ出す、龍之助はがんりきを追い詰め刀を打ち下ろす、右腕を切り落とされたがんりきと狼狽したお絹は甲斐の谷底へと逃げ去る…。
文学を論じる力量をもたぬ筆者ではあるが、長い物語が「峠の惨劇」で始まったことを思うと、徳間峠の出来事も看過してはいけないような気がしてくる。龍之助が何を思って抜刀したのか、本人に聞かなければわからぬことだが、右腕を失ったがんりきは同時に甲州入墨のくびきからも解放された。がんりきにそれから先の気ままな行動を可能にさせた、龍之助の慈悲だったとも言えまいか。
峠に一人残され崩れるように倒れ込み昏睡してしまった龍之助は、通りかかった「山の娘」の一団に介抱される。農閑期に他国へ行商にでかける女性たちを甲斐では「山の娘」と呼んだらしい。「娘といっても、中にはかなりのお婆さんもある」そうだが、集団行動を通して絆と規律と精神性とを身につけていく場でもあったそうな。
龍之助は彼女らの担ぐ駕籠で山を降り、グループのリーダー格のお徳の家に世話になる。「篠井山の山ふところ」というからおおよそ今の南部町の辺りであろう。蔵太郎なる息子の育つ姿に我が子郁太郎を思い出したり、お徳の歌う土地の仕事歌に耳を澄ませたり、穏やかな時間を過ごす。
甲州出がけの吸付煙草
涙じめりで火が附かぬ
という歌の文句をためしにネットに入れてみたら「えぐえぐ節」なる労作歌がヒットした。甲州で実際にうたわれていたのだな。
なにくれとなく親切なお徳は、龍之助を湯治に連れ出すことにする。「盲目の龍之助を馬に乗せて、お徳は蔵太郎を脊に負って」十里も北の霊泉をめざすという。道々龍之助に「昔、奈良の帝様がおうつりになったところで、それから奈良田と申します、今でもその帝様の内裏の跡が残っているのでございます」と伝説の数々を話して聞かせる。彼らは身延と七面山の間の海抜1000mより高い裏山を越えて早川の谷合の薬袋というところへ降りていく。地図で探すと確かに「薬袋」の地名が存在する。しかも、これを「みない」と読むそうではないか。そう読むようになったいわれには、武田信玄由来説、長寿説等々、諸説あるらしい。「奈良の帝様伝説」も大いに魅力的だし、これは是非とも奈良田の湯を体験せねばなるまい。
中部横断自動車道を下部温泉早川ICで降り西へ向かう道は「南アルプス街道」である。富士川の支流、早川に沿った、それこそ南アルプスの懐に抱かれた山深い道が続く。急峻な左右の岩肌にほとばしる滝。対岸が薬袋であろうな、と想像しながら早川町役場前を過ぎる。昨年11月に退任した早川町の辻一幸町長は、11期44年間の長きにわたり町政を担われたそうだ。ひっきりなしに行き交うダンプカーは中央新幹線南アルプストンネルの工事車両らしい。いたる所に紅白の旗を手にした警備員が配置され交通整理にあたっている。糸魚川-静岡構造線新倉露頭などというジオポイントにも立ち寄ったりしながら、小一時間で奈良田の集落に到着した(奈良田の2kmほど手前の西山温泉にはギネスに認定された世界最古の温泉旅館もあるそうな)。
奈良田に伝えられる物語では帝様は孝謙天皇なのだという。そこで、日帰り温泉施設は「女帝の湯」、木造の浴室に入るとぬるぬるとしたお湯が湯船からあふれ出し足を滑らしそうになる。熱くないお湯でいつまででも浸かっていられる。この静かな里で、龍之助は実に心安らかな時間を過ごすことになった。あやかって筆者も美肌の湯でのんびりしようかとも思っていたが、おいそれとは来られぬ秘境の地、孝謙女帝の旧蹟も見てまわらねばならぬ。休憩処のコタツで天麩羅そばをいただいて、まずは奈良法王神社へ向かった。孝謙天皇を祭神とし内裏の跡とも伝えられる。どんな干ばつや豪雨でも水量の変わらぬ「御符水」は、飲むと諸病に効能があるという、天皇ゆかりの七不思議のひとつ。
神社の左奥の歴史民俗資料館では70年前まで行われていた焼畑の技術を映像で学んだ。おびただしい数の農耕具は、国指定重要有形民俗文化財なのだそうだ。二階には田中冬二についての展示がなされていた。旅先で詩碑にときどき出会う詩人だ。少し離れて建つのは南アルプス山岳写真館で、白旗史朗氏の迫力満点の数々の作品に触れることができる。
高台から見渡すと湖面が見える。西山ダムが建設されたことで、昔ながらの奈良田の集落は湖底に沈んでしまったのだという。ダム湖の向こう側にも七不思議の地があるそうだから、湖に架けられた細い吊橋を渡っていく。ゆらゆら揺れてなかなかにスリルがある。着いた先は八幡社公園、山奥の人々のために天皇が池に塩が湧くようにしてくれたという故事にちなんだ「塩の池」が復元されている。といっても、元の池は湖底に位置していただろうし、形だけの模造池だから、今は塩は湧いていない。ところがかたわらに建つ大きな「製塩の碑」の碑文を読んで驚いた。かつて奈良田では陸塩を採取していたというのだ。塩の池の水を濃縮、蒸発させることで良質の塩を生産しており、1905年に塩が国の専売品になるまで製塩業は行われていたのだそうだ。う~む、焼畑に陸塩。奈良田、畏るべし。
村の人々は山の神に深い信仰と敬虔の念を懐いていた
それ故たとえば炉の鍋の煮物にしても
それが煮えると先主人か主婦がそれをとって
鍋の蓋にのせて山の神にささげる
そしてそれをふたたび鍋にかえしてから
はじめて家族一同食べる
古来そういうならわしである
これは、田中冬二の「奈良田のほととぎす」という作品の一節だそうだ。里人たちが山の中で自然と共に素朴に、信仰心の篤い暮らしを重ねてきたことが感じられる、なんとも魅力的な山里であった。