前向きである必要はなくて、過去を振り返る必要もなくて。
現状を、今を、瞬間を、ただ受け入れるだけというのは、なぜこんなにも難しいことなんでしょうね。
それはたとえ楽しくて仕方がない出来事でも、辛くて苦しくてどうしようもない出来事でも。これまでのことや、これからのことを一切考えずに、ただ目の前のことを、起こったことを、盲目的に、凝視するように、ただ、ただ、受け入れることは、なぜこんなにも困難を極めるのでしょう。
人間という生き物が、他の動物より優れていると言われる所以のひとつに、「フィクションを生み出せる力」があると言います。
人間以外の動物は、目の前の事象にただ対処することが、生きることと直結します。
それに比べて人間は、相手がこう来るかもしれないという想像をして、こんなことをしてくるかもしれないと仮説を立てて、こうだったらこうしようという妄想を膨らませ、きっとこうなるという嘘の事象を創り上げることが、生きることと言っても過言ではないほどに、その能力に長けています。
それによって、長きに渡り他の生物を支配し、そのフィクションを創造する者を、古くは預言者、今では先見の明がある者として崇め、成功者として価値を置くシステムが出来上がっていることは、言うまでもないでしょう。
人間として生を持ってしまった以上、フィクションを生み出すことは避けられない宿命です。あれやこれやと気にして、あることないことなんでも想像して、パンクして、傷を追って、笑い飛ばして、泣いて。そんなフィクションばかりに支配された生き物だから、不意に差し込む陽の光や、瞬間的に身体を包む風の柔らかさ、突発的に起こるライブ感に、底知れぬ感動を覚えたり、それを有難いこととして捉えることがあるのだと、わたしは思います。
辛いな、どうしていいか分からないな、辞めたいな、逃げたいな。
そんな感情は、全てフィクションの賜物です。
そしてフィクションに支配された我々は、その打開策をもフィクションで塗り固めようとしてしまいがちです。
まだ見ぬ未来に目を向けて、前向きに頑張ろうとか。過ぎ去った過去に目を向けて、あの時こうしていればよかったな、とか。
かく云うわたしも、年中そんなことばかりに頭を巡らせてしまいます。
未来を想像しては、過去に戻って。生まれる前の時代まで想像してみては、どう考えても生きられない先の未来のことまで。考えたってどうしようもないのに。分かっているのに。本当は目の前で輝く太陽だけを見てぼーっとしていればいいのに。そんなこともできなくて。それで勝手に疲れちゃったりなんだりして。時空とか重力とかまで、憎くなるほどに。
だからと言って、わたしはどこかの誰かの格言みたいに「今を生きればいいんだよ!」なんて、無責任なポジティブ発言をしたくはありません。その代わりに、情けない自分を愛でてあげたい。もしそんな自分を気にかけてくれる人がいるなら、その人もついでに愛してあげたい。それくらいの気持ちを持っていたいと思うわけです。前向きである必要はなくて、過去を振り返る必要もなくて、どんなフィクションを生み出す状態でもいいから、まるっとすべて愛せる力を、わたしもみんなも持っていたいねって。
そんな話。