オーストラリアに行ったら、レ・クレドールのコンシェルジュになった:続き
ロックダウン中のシドニーで、私の職場であるホテルは影響をモロに食らっています。時間だけはいやというほどあるので、自分の仕事歴を振り返ってみました。なんせ20年にわたるストーリーなので、分けて書いていきます。
今回のストーリーは、ちょっと主題から逸れますが、自分にとっては大きな転機だったと思うので、当時つけていた日記を引っ張り出してきました。
1995年1月17日
その日は早番出勤だったので、5時46分には横浜駅のプラットフォームで乗り換えの電車を待っている時分だったと思う。もちろん、その時は西の方ですさまじいことが起きているとは知る由もなかった。
出勤すると、関西の方で大きな地震があってエライことになっているらしい。バックオフィスのテレビを見ると、高速道路の高架橋が横倒しになっていた。こいつは、まずい。
両親は大阪市に住んでいたし、ただ一人存命だった祖母は、芦屋のその辺りに住んでいたのでかなり心配になる。
ホテルの上司も心配して、とにかく親に電話をかけろ、と言ってくれた。でも結局何とかつながったのが午後4時だった。両親は無事だったが、徒歩で祖母の家の様子を見に行った父から深夜連絡があり、祖母の家はぺしゃんこで絶望的かも、とのこと。
その当時は兄と二人暮らしをしていたので、お互い暗い顔を見つめ合う事しかできなかった。そして、横浜は天気も良くて、何もかも平常の生活ができているのがすごく不思議で、何か理不尽な気がした。
次の日の晩に電話がかかって来たのかな、残念な知らせが。
そして1日置いて20日の朝に親から電話があり、その日の午後3時に火葬されるとのこと。間に合うかどうか怪しかったが、バタバタと身の回りの物をかばんに入れ、仕事を休ませてもらい、急いで兄と新幹線で、芦屋へ向かった。
一番近い駅が西宮(阪神電車だったかな)で、駅から外に出るとあまりのすさまじい光景に背筋が寒くなった。これは戦争だ…。がれきの山、倒壊した建物のなか、でこぼこになった道を大勢の人とともに歩き、遺体が安置されていた小学校へ向かう。
結局自分たちは間に合わず、父親と親戚の人たちはすでに斎場に向かった後だった。残ってくれていた母親となんとか落ち合い(その当時は携帯もほとんどなかったから、どうやって会えたのだろう?)、その晩の火葬には間に合って、お骨を拾うことはできた。けど、
正に、「まさか自分の肉親が災害で亡くなるとは夢にも思わなかった…」である。ホントにこういう事って起きるんだ。
やりたいことをやらねば
震災の話を書いていると、想いが溢れてくるので端折っちゃうけど、その後も全壊した家の片づけに行って、瓦礫の山が一面に広がる景色を見てしまうと、いくら自分自身は実被害を受けなかったにせよ、「自分の人生、一回だけなのだからやりたいことはやらんと…」という事を痛切に思うようになった。
なのでこの一件が後押しとなり、いったん会社を辞めて留学することを決断した。ホテルの仕事は好きだから、専門学校でホテルマネジメントを英語で勉強すれば、一石二鳥ではないか、と考えたのである。
英語を話す国は沢山あるので、どこに行くか、である。昔からアマノジャクな性格なので、大国でちょっと偉そうに見えるアメリカには行きたくなかった。カナダやイギリスは寒そうだし、遠いなあ…ということで、オーストラリアという結論が出た。南半球に住んでみたい(ホントに水の渦巻き方は逆なのか?)、カンガルーとかコアラを見たい、本場のラグビーを見たい、というようなやや不純な動機もあったが。
それで、様々な留学情報誌を買って、そこに載っているホテル専門学校に直接レターを出した(メールやウェブサイトなどが身近に存在しない時代の話!)。
そのうち、メルボルンとシドニーの学校から返事が来たのだが、検討の上シドニーの学校に決め、ビザの手続き、メディカルチェック、シドニーの銀行口座開設、航空券の手配、退社の手続き…と、自分でほとんど全部やった。今は留学エージェントを通してやる人が主流なのかな?情報収集も当時よりはるかにリアルタイムでゲットできるだろうし。それを考えると、我ながら良くやったなあ、と思う。あ、でも曲がりなりにも社会人を3年間やっていたのだから、それくらい出来て当たり前か。
そして、お世話になったホテルを円満退職(おそらく)し、家族友人としばしの別れを告げた後、シドニー空港に降りたったのが1996年の6月23日だった。