影響を受けた本
ショーペンハウエルの「良書を読むには、悪書を読まぬことを条件とする。人生は短く、時と力とは限られている」という言葉があります。
そしてショーペンハウエルは古典を薦めています。
時代が変わっても今に残る書物は普遍的でかつ重要なメッセージを発していることが多いからでしょう。
そこで私は古典作品を読むように努めてきました。そうして影響を受けた作品を5選紹介します。
1 夏目漱石 『吾輩は猫である』
この作品は中学生のときに読み、途中であっけなく挫折しました。高校3年生のときやっと文章をある程度理解しながら読み切ることができた本です。
明治の文豪の書く文章に惚れ込み、中でもはじめの「吾輩は猫である、名前はまだない。どこで生まれたかとんと見当がつかぬ。なんでも薄暗いじめじめしたところでニャーニャーないていたことだは記憶している…」からの文章を何度読んだかわかりません。
そして夏目漱石の書く文章を読むと現代作家の文章が低級品のように感じられてしまうのです。
また、文章が硬いわりに内容は日常を面白おかしく捉えており、現代の若者が読んでもクスッと笑えるものになっていると思います。そんな古典文学はあまりないのではないかと思います。少なくとも私は吾輩は猫であるくらいだと思ってます。
2 太宰治 『人間失格』
中学生のときに読み、高校生のときにまた読み返したくらい好きな本です。
「恥の多い生涯を送ってきました」から第一の手記がはじまります。
人間の弱さ、醜さが表現されており、しかしそれが自分もそうだと感じるほどに主人公に共感するのです。また作品の主人公のよき理解者になったような気にもなります。太宰治の赤裸々な告白は日本人の共感を呼び、新潮文庫のベストセラーにもなっているようです。
中学生の多感な時期にこの作品を読んだ影響で陰鬱な感情が芽生えて、クラスのインキャになった覚えがあります。笑
3 マーク•トウェイン 『人間とは何か』
この本は私の人間に対する理解の土台になった本です。それは「人間はまったく環境に支配されながら自己中心の欲望で動く機械である」というものです。老人が青年に対して、あらゆる事例を用いてこのような主張を繰り返し説いていくのですが、青年はそのような考え方に異議を唱えます。しかし徐々に青年は老人の説く言葉に押し負けていきます。
おそらく、老人は執筆時のマーク・トウェイン本人で、青年はかつて若かりし頃のマーク・トウェインなのだと思います。
人間に自由意思はあるのか?
人間は損得感情なしで行動できる生き物なのか?
人間が環境に支配されてるならば、救いはあるのか?
晩年のマーク・トウェインは人生の中で抱いた思想をこの本に表しました。
説得力の凄さはさすがアメリカの文豪といえます。
4 ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』
次はロシアの文豪です。
カラマーゾフの兄弟は最高におもしろい小説です。
村上春樹が「世の中には二種類の人間がいる。『カラマーゾフの兄弟』を読破したことのある人と、読破したことのない人だ。」といったのは有名です。
カラマーゾフの兄弟を読破すると、どのような長大小説も読める自信がつきます。
この自信は、社労士試験の勉強にも活かせました。
父殺しが物語を盛り上げて読者を引きますが、それ以外にもカラマーゾフの次男であるイワンと三男アリョーシャの神はいるのかという論争や、三男アリョーシャが慕うゾシマ長老の話、長男ドミートリーの色恋沙汰など物語はさまざまな登場人物が複雑に絡み合って展開していきます。
長大な小説ですが、おもしろくて読めてしまう、それが一世紀以上前に書かれた本であるというのなんとも不思議です。
このカラマーゾフの兄弟を読破してこそ、読書家といえる、そんな気がします。
5 ウィトゲンシュタイン 『論理哲学論考』
哲学の問題を全て解決したと序文で豪語します。
言語の限界が思考の限界。
哲学上の問題は言語の限界を超えているつまりは哲学の問題は思考のできないような問いを立てている時点で間違っていると説きます。
そして語り得ぬことについて人は沈黙せねばならないと最後を締め括っています。
この最後の締め括りの言葉がかっこよすぎて痺れた思い出があります。
ですがこの本は難しすぎです。おそらく全てを理解して読むのは不可能ではないかと思います。
少しでも理解をすすめていくのに解説書が必須です。
古田徹也氏の『論理哲学論考』、野矢茂樹氏の『論理哲学論考を読む』がおすすめです。
また、論理学の知識があると理解しやすくなるかと思いますので、丹治信春氏の『論理学入門』もあわせて読むと理解がはかどります。
論理哲学論考を読んだおかげで合理的にものごとを考えていく力がつき、一生の宝になってます。