1w9sx/so Fe-Fi 好きってどういうこと?
▼エニアグラム視点
前提から申しますと
自分は誰かが好きだの、恋愛感情を持つだの、恋など芽生えないんです
結果から申しますと
「自分の歪さを100%受け入れてくれる人が好き」
という事に気づいた段階であります。
されど人は歪さを隠すモノ。
でも、エニアってSNSとかだとガッツリ書いてあるよね。
エニアグラムって自己理解もあると思うんですけど
他者理解もできるハズなんですけど
どうすればエニアを他者理解に用いれるのか。
「自分の歪さを100%受け入れてくれる人が好き」
自分はエニア1なもので
他人に求めた後、それが失敗した時に
それに悩む事、事後であると認識した時
それは”人の業”であると思ったんです。
それは人の業でありながら
男の業であり、女の業でもあると。
――それって、全てのエニアにおいてそうなんじゃない?
己の業ですらマトモに向き合えずに、異性の業を叫ぶか――
それもよし。
それでも誰かを好きになるという事は
相手の業を許し、自分の業を許してもらうこと
男に好きと言う女達――
一体、どれほどの女性が自らの業を認識し、男の業を許しているのか。
女に好きと言う男達――
一体、どれほどの男性が自らの業を認識し、女の業を許しているのか。
誰かを好きになるのに
自らの業をどうにかしようなんて許可制でもなく必要もないんですね。
業を超越し、抗い、業の赦しと女性の肉体を求める者――
まさか、自分がこんな男性になるとは。
自分がこんな男性だと知る事になるとは。
▼Fe視点
自分の解釈におけるFeとは
「周囲に反応しているだけにすぎない機能」であり
「周囲に反応しているだけにすぎない人間」なんですね。
周囲に反応しているだけの人間が、
誰かが好きだなんて
誰かを好きになるって
――どういうことなの?
「私は反応しているだけに過ぎない人間なのに、誰かを好きになってしまったって、どういうこと?何をすればいいの?どうすればいいの?私の中の醜い囚われが、それに抗おうとする。」
周囲に反応しているだけの人間――
”反応するに値しない人間”と離れる男。
反応するだけの人間が怒りと怠惰を抱いた先に、肉欲に溺れた男。
”反応するに値しない人間”こそ、本当に向きあうべき相手だろうか。
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という考えのもと、エニアグラムを人の業として編纂しようかなと試行錯誤しています。
人の業であるという系統の方が、自らと他人をより理解できるのかなと。
人の業と名付けた以上は仏教やお教も調べる範囲なのかなぁとか思っていたりする。
なんで人の業かというと、人って何らかの欲望があって、それに苦しんでいるわけじゃないですか。
自分に何の欲望があるかを知る事ができるのがエニアグラムなのですが
エニアグラムは欲望や傾向はあっても、その”苦しみ”はあまり描かれていないんです。
苦しみと痛みを知ることが真の相互理解かと思った次第ではあるのですが
自分が持ち合わせていないエニアグラムの苦しみを、果たして理解できるのか――、が課題であります。