大本経から見た釈尊伝の謎

 我々仏教徒によく知られた釈尊伝。
 しかし、『長阿含経』の巻第一「大本経」を読むと、釈尊伝として知られたことがビバシ仏の伝記として記されていることがわかります。

一、過去七仏

 毘婆尸(びばし/ビパッシー)仏は、過去七仏の最初の人です。
(ちなみに、「過去七仏」には釈迦牟尼仏も含まれます)

 「阿含経」とされる経典群は、「仏般泥洹経」にも記されているように、仏滅後すぐに、請われた阿難が「阿含」(=āgama。伝承のこと)を語ったことで成立したお経です。最も原初のお経と言っていいでしょう。

 ということは、「過去七仏」の実在性はかなり高いと言えます。

二、出生

 過去七仏の最初であるビバシ仏の伝承を「大本経」によって見ていきましょう。

 ビバシ菩薩(=仏になる前ですから菩薩)は兜率天より母胎にくだり、右脇から母胎に入ります。そして、「右脇を出てに地落ち、誰も支えずに七歩歩み、四方を見回し手を挙げて言った。『天上天下唯我為尊。要度衆生生老病死』と」

 日本では「天上天下唯我独尊」という熟語として親しまれていますね。ビバシ菩薩は「天上天下唯我為尊」です。そして、世に出た目的「衆生の生老病死を済度する必要がある」とまで述べています。

 父のバンズ王は占い師と諸々の道術使いを招集して、赤ちゃんのビバシの将来を占わせます。占い師たちは「在家の者ならば転輪聖王となり、四方の天下の王となる。もし出家学道するなら、まさに正覚者となり、仏の十号がそなわる」と予言します。もっともこれは、王様の太子のことですから、定番のヨイショだったのかもしれません。
 そして仏の三十二相ですが、これは赤ちゃんの相です。これもまた、定番のヨイショに、後世の仏の相の伝承が加わった物でしょう。歯の数が通常人の二倍で生れたときに生えそろっていたとか、広く長い舌で左右の耳が舐められるとか。
 ちなみにこの「広長舌相」は、一般には「普遍的真実である釈尊の言葉が世界中に広まる」ことをたとえた物として解釈されます。

三、四門出遊

 釈尊伝で定番の、王城かの出遊で「老、病、死」について知った太子が、最後に修行する沙門の姿に感動して出家をする話です。
 これも「大本経」ではビバシ菩薩の話になっています。
 そして、 釈尊の所感として、「太子は老病の人を見て世の苦悩を知った。また死人を見て世を恋いる情がなくなった。沙門を見て廓然として大悟した。宝車を降りて歩み、歩くうちに煩悩の執着が薄れていった。これが真の出家である。真の遠離である」と述べています。
 ビバシ太子は、この人に着いていって出家してしまいます。
 王がお釈迦さんに、コンダンニャ、アッサジ、マハーナーマン、バッディヤ、ヴァッパの五人(五比丘)をつけたようなことは書いてありません。

四、六年の苦行

 アーラーラ・カーラーマを師として修行した釈尊は、「無所有処」あるいは「空無辺処」の境地を得ます。しかし、それは本当の悟りではないと考え、次にウッダカ・ラーマプッタを師として修行し「非想非非想処」に達します。しかし、これもまた本当の悟りではないと考えて、苦行に入ります。
 瞑想によって得た境地は、そこから出ると消えてしまいます。現実の生老病死の苦悩の根本的な解決にはなりません。
 苦行は、ジャイナ教の元になった系統の修行だったのではないかと思います。現代でも、ジャイナ教では高僧の餓死が最高の死としてたたえられます。釈尊はガリガリになり、それでも煩悩は断てないし現実の生老病死の苦悩も解決しないと悟ります。そして、村娘のスジャーターから乳粥を施されて生き延び、今の仏教が始まります。

 ビバシ菩薩の伝説にはそれらの課程は記されていません。国の栄えある位を捨てて修道に入り、ビバシ菩薩はすぐに弟子たちを受け入れます。そして、遊行して教化する生活に入ります。釈尊のように弟子を増やす苦労は描かれていません。
 ビバシ菩薩は、弟子たちがわずらわしく、閑静なところで修道に専心し、ついに「十二縁起」を得ます。
 
 この「十二縁起」は難解です。
 色んな解説書を読んでも、すっきりとは理解できません。
「十二縁は甚だ深く わかりづらいものである」と釈尊もおおせです。

 そして、釈尊はビバシ仏をたたえます。
過去の菩薩は見た 本質的で未聞の法を」と。
 つまり、十二縁起は釈尊のオリジナルではないのです。

 そして、ビバシ仏が成道した時に修した二観(安隠観と出離観)につては、釈尊伝では触れられません。

五、梵天勧請

 梵天は「ビバシ仏はこの深妙なる法を知った。だが説こうとしない」と知って説得に行きます。ビバシ仏は「この法は微妙で世の相に反する。衆生は欲に染まり、愚かさに覆われている。信解できないたのだ。梵天王よ。私はこのように見たから、黙ったまま説法したくなかったのだ」と答えます。
 梵天王は重ねてお願いします。
「世尊、もし法を説かねばこの世間は腐ったまま、はなはだ哀れむべきです。願わくば世尊、法をひろく説いて衆生を他の世界に落ちないようになしたまえ」
 ビバシ仏は仏眼をもって世界の衆生の心の垢に厚いものと薄いものがあるのを見ます。
「利根の者、鈍根の者がいる。教えるにも難易がある。教えを受け入れやすい者は後世の罪をおそれ、悪いことをせず、善い世界にうまれかわる」
 
そして、「甘露の法門を広く説こう。この法は深妙にして難解である。今、信じて聴くことを楽しむ者のために説こう。不和をおこし無益な者のために説くのではない」と言い、槃頭城に入って、まず王子の提舎と大臣の子の騫茶に法を説きます。

六、初転法輪

 導入編は、「施論、戒論、生天論」です。悪と不浄をのぞみ煩悩のままにあることは患いとなること、出離を讃歎し、最もすばらしいこととして、清浄第一とすること、を説きます。
 続いて、「苦集滅」と「出要諦」についてについて説きます。

 この「次第説法」は釈尊と同じです。

 ビバシ仏には、釈尊のように五比丘に法を説く苦労はありません。理解力ある二人の若者が最初の弟子です。
槃頭城の鹿野苑で無上の法輪を転じた」のです。場所は同じ鹿野苑ですが。
 そして、ビバシ仏の最初の弟子、提舎比丘と騫茶比丘は、「虚空に上昇し、体から水や火を出して神変をあらわした。そして大衆のためにすばらしい法を説いた」のです。これは全く、神通力を得た辟支仏のようです。

 このあたり、伝承が入り交じっているように思います。

七、首陀会天

 色界の第四禅天の神である首陀会天のサポートについては、いわゆる釈尊伝には出てきません。ビバシ仏は「六年たったら城市に戻らせて、具足戒を説こう」と言い、その通りにします。

 釈尊は比丘たちに告げます。
「昔、ラージャグリハの耆闍崛山にいたとき、このように思った。
〈私の生れたところはどこであろうとよい。ただ、首陀会天に生れたならここには戻ってはこれぬ〉」
 ……このあたり、意味がよくわかりません。
 物質的世界に安住してしまう、ということでしょうか。

 首陀会天には、色究竟天、善見天、善現天、無熱天、無煩天(浄居天)の四つがあるとされます。瞑想の段階として見ると、かなり高い境地と思われます。

結論

 釈尊は過去七仏を大切にし、とりわけビバシ仏を尊敬されていたように思われます。我々が通行の釈尊伝を無批判に受け入れるとき、「長阿含経」の劈頭に置かれた「大本経」のビバシ仏伝と矛盾します。そして、とりわけ「十二縁起」のスマートでない感じは、どうも釈尊の思想ではなかったように思えるのです。

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