金剛般若波羅蜜経
姚秦の時に天竺の三蔵法師である鳩摩羅什が訳す。
このように聞いた。
仏が舎衛国の祇樹給孤独園に立派な比丘たち千二百五十人とともにいた時のこと。
世尊は食事の時刻に衣を着て鉢を持ち、舎衛大城市に乞食に出かけた。城市の中で順番に乞食をして本拠地に帰り食事をおえて、衣鉢をおさめ足を洗い座具に坐った。
長老の須菩提(スボダイ)がみなの中にいて、座より立って右肩をあらわにし右膝を地につけ、合掌して恭しく敬って仏に言った。
「ありがたいことです、世尊。如来は善く菩薩(修行者)たちの心を守り、善く菩薩たちになすことをゆだねておいでです。
世尊、善男子、善女人が阿耨多羅三藐三菩提心(悟りに向かう心)を抱いたとき、どのように普段からあり、どのようにその心を制すべきなのでしょう」
仏「よきかなよきかな、須菩提よ。そなたが言うように、如来は善く菩薩(※修行者の意味)たちの心を守り、善く仏法を伝えて菩薩たちの自発的な修行にゆだねている。
さあ、よく聴くのです。今、善男子善女人が阿耨多羅三藐三菩提心を抱いたときに、どのように普段からあり、どのようにその心を制すべきかを説きましょう」
須菩提「しかるべく、世尊。うれしくうけたまわります」
仏「菩薩摩訶薩(※修行者たち)はこのように心を制すべきである。
『そこにいる一切の衆生の類、それが卵生であろうと胎生であろうと湿生であろうと化生であろうと、目に見える物、見えない物であろうと、想いがあろうと無かろうと想いがあるわけでも無いでもない物であろうと、私は皆、無余涅槃(※永遠の心の平安)に入らしめ、滅度をとらせるのだ』
このように無量・無数・無辺の衆生に滅度を得させたのに、実は衆生で滅度を得た者はいない。何故か。
須菩提よ。もし菩薩に『私』という思い、『人』という思い、『生き物』という思い、『寿命ある者』という思いがあれば、それは菩薩ではない。
また須菩提よ。菩薩は法において物にとらわれることなく布施をしなくてはならない。いわゆる「物にとらわれない布施」である。声香味触法にとらわれない布施である。
須菩提よ、菩薩はこのような表層にとらわれない布施をしなくてはならない。
何故か。もし菩薩がこれらの表層にとらわれず布施をするなら、その福徳は考えられないほどだからだ。
須菩提よ。どうだろう。東方の虚空はいかほどか考えられるか」
「考えられません、世尊」
「須菩提よ。南西北方について、また上下の虚空についていかほどか考えられるか」
「考えられません、世尊」
「須菩提よ。菩薩が表層にとらわれない布施をしたら、その福徳は同様に考えられないほどなのだ。須菩提よ。菩薩はこの教えのとおりにあるべきなのだ。
須菩提よ、どうであろう。身相(※外見)から如来がわかるか」
「わかりません、世尊。身相から如来はわかるものではありません。何故かというと、如来が説いた身相は、その(本質の)あらわれではないからです」
仏「須菩提よ。およそ表層としてあるものは皆、虚妄である。もし見える諸相が(本質の)あらわれでないと見るのなら、それはすなわち如来を見ているのである」
須菩提「世尊、このような章句を聞いて心からの信を抱ける衆生がたくさんいるのでしょうか」
仏「そのようなことを言うものではない。如来の滅後ののち五百年たって、持戒し福をそなえようとする者が、この章句によって信心をおこし、真実となすならば、まさに知るであろう、その人は一仏二仏三四五仏のもとで善根をうえるだけでなく、無数の千万の仏のもとで諸々の善根を植えるのだ。
この章句を聞き、一瞬でも浄信をおこした者は、須菩提よ、如来はことごとく知りことごとく見るのである、これらの衆生がこのような無限の福徳を得るのだと。
何故ならこれらの衆生にもまた『私』という思い、『人』という思い、『生き物』という思い、『寿命ある者』という思いがないのである。
『法』という思いも『非法(法にあらず)』という思いもないのである。何故か。
これらの衆生にもし表層への執着があれば、『我』『人』『生き物』『寿命』への執着があるからである。
もし『法』への執着があれば、『我』『人』『生き物』『寿命』への執着があるからである。
何故か。もし『非法』への執着があれば、『我』『人』『生き物』『寿命』への執着があるからである。
これゆえ『法』にも『非法』にも執着してはならない。
※このあたり難解です。概念に執着してはならないという教えのようです。
この義のゆえに、如来は常に汝ら比丘に説いているのだ。我が説法が筏の喩えのようなものだと知れ、と。
『法』もまた捨てるべきなのだ。『非法』については言うまでもない」
仏「須菩提よ。如来が阿耨多羅三藐三菩提を得たとはどういうことだろう。如来が説いた『法』はあるか」
須菩提「仏が説いたことを私が理解したところでは、阿耨多羅三藐三菩提と名づけられた定まった法はありません。そして、如来が説きうる定まった法はありません。何故なら、如来が説いた法は皆、我が物とはならず説くこともできないからです(不可取不可説)。法にあらず非法でもないからです。
なぜかというと、一切の賢聖は皆、無為法※によっており、そして違いがあるからです」
※無為法。生滅変化を離れた恒常的な法。その現れ(言葉や行為)には差がある
「須菩提よ。どう思うね。もし人が三千大千世界を満たすほどの七つの宝を布施したとして、その人が得る福徳は多いか少ないか」
須菩提「はなはだ多いです、世尊。何故ならその福徳は福性※がないからです。それ故、如来は福徳が多いと説かれました。
※福性。福なる性質。金や銀や瑪瑙等の宝物には本質的には何の福徳の性質もない。布施という行為に福徳があるのだ。
「もしこの経を受持するか四句偈等を他人に説いたならば、その福はそれに勝るのだ。何故か。
須菩提よ、一切諸仏と諸仏の阿耨多羅三藐三菩提の法は皆、この経より出たのだ。
須菩提よ。いわゆる仏法とは仏法ではない
須菩提よ。どういうことか。須陀洹(※初果の人)が『私は須陀洹果を得た』と思うだろうか」
須菩提「いいえ、世尊。何故なら、須陀洹は『入流(※悟りへの流れに入った者)』とは名づけられていますが、入った所はありません。色声香味触法として感じる何にも入っていないのです。これを須陀洹と名づけただけです」
「須菩提よ、どうだろう。斯陀含(※二果の人)が『私は斯陀含果を得た』と思うだろうか」
須菩提「いいえ、世尊。何故なら、斯陀含は『一往来』とは名づけられていますが、実際に往来することはありません。これを斯陀含と名づけただけです」
「須菩提よ、阿那含(※三果)についてはどうだ」
「いいえ、世尊。何なら阿那含は『不来(※決して還ってこない者)』とは名づけられていますが、実際には還ってくるということがありません。これを阿那含と名づけただけです」
「須菩提よ。阿羅漢についてはどうだ」
須菩提「いいえ、世尊。何故なら、実際には阿羅漢と名づけられた存在はないからです。世尊、もし阿羅漢が『私は阿羅漢道を得た』と思うなら、それはすなわち我に執着し人に執着し生き物に執着し寿命に執着しているのです。
世尊よ。仏は私に説かれました。私が『無諍三昧(争いのない心)』の人の中でも第一であると。これが離欲の阿羅漢の第一であると。
私は『私は離欲の阿羅漢である』とは思いません。世尊、もし私がそのように思ったら、世尊は『須菩提は阿蘭那(※寂静処)の行を楽しむ者だ』とは言われなかったでしょう。実のところ須菩提はなにもしていないのだから『阿蘭那行を楽しむ者』と名づけられたのです」
仏「どう思うかね。如来は昔、然灯仏の所で法を得ただろうか」
「世尊は何の法も得られていません」
「須菩提よ、どうだろう。菩薩は仏土を荘厳※しているだろうか」
※荘厳……配置され、飾っていること。
「いいえ。荘厳してはいません、世尊。何故なら仏土を荘厳する者は、荘厳(※飾り)ではないからです。これを荘厳と名づけているだけです」
「このゆえに須菩提よ。諸々の菩薩摩訶薩はまさにこのように清浄な心を生じねばならない。目に見える物にとらわれてはならない。
声、香り、味、触覚、概念に対してもそうだ。まさにとらわれることなく、その心を生じねばならない。
須菩提よ。たとえば須弥山王のように巨大な体をした人がいたら、どう思うかね。その体は大きいと思うだろうか」
須菩提「とても大きいと思うでしょう、世尊。何故なら、仏はこう説かれました。それが体なのではなく、大きな体と名づけているだけなのだ、と」
「須菩提よ。ガンジス川の砂粒ほどの数のガンジス川があったら、どう思うかね。これらのガンジス河の砂は多いと思うだろうか」
須菩提「とても多いと思います、世尊。たくさんのガンジス河があったら無数の多さだと思うのに、その砂粒ならなおさらです」
「須菩提よ。私は今、真実を告げよう。もし善男子・善女人がいて、ガンジス川ほどの数の三千大千世界を七つの宝で満たし、布施したとして、得られる福は多いか」
須菩提「とても多いです、世尊」
仏「もし善男子・善女人が、この経の中から四句偈などを取り出して受持し他人に説いたなら、その福徳は先の布施の福徳に勝るのだ。
そしてまた須菩提よ、この経を説いたり、あるいは四句偈等をとくならば、そこにいる一切世間の天、人、阿修羅は皆、まさに仏塔廟のように供養すべきなのだ。全てをよく受持・読誦する人には言うまでもない。
須菩提よ、まさに知るべし。その人は最上の第一希有の法を成就したのだ。
この経典がある所は、仏がいるがごとく、尊重される弟子がいるがごときなのだ」
その時、須菩提は仏に言った。
「世尊、この経を何と名づけましょう。我々はどのように奉持しましょう」
仏「この経は『金剛般若波羅蜜』と名づけ、この名で奉持するのだ。どうしてか。
須菩提よ、仏は般若波羅蜜(※智慧の完成)を説いた。それは般若波羅そのものではない。
須菩提よ、どうだろう。如来が説いた法が実在するだろうか」
須菩提「世尊、如来は何も法を説いておられません」
「須菩提よ、どうだろう。三千大千世界にある微塵(※rajas。元素。エネルギー、変化、行動、動きの状態、原子などとも訳される)は多いだろうか」
須菩提「とても多いです、世尊」
仏「これらの微塵は、如来は微塵ではないと説くぞ。これを微塵と名づけただけなのだと。如来は世界は世界ではないと説くぞ。世界と名づけただけなのだと。
須菩提よ、どうだろう。三十二相をもって如来がわかるだろうか」
「いいえ、世尊。三十二相をもって如来と見ることは出来ません。何故なら、如来は説かれました。三十二相は相ではないと。これを三十二相と名づけているだけだと」
※そもそも、三十二相は転輪聖王にもそなわっています。……と後に出てきます。
「須菩提よ、もし善男子・善女人が、ガンジス河の砂の数ほどの身命を布施したとしても、この経の中から四句偈等を受持したり、他人のために説いたりした方がその福ははなはだ多いのだ。
須菩提はこれを聞いてこの経の意義と趣旨を深く理解し、涙にくれて仏に言った。
「希有のことです、世尊。仏はかくのごとく奥深い経典を説かれました。私は昔から、生れついての慧眼をもっていましたが、いまだかつてこのような経を聞いたことがありません。
世尊、もしある人がこの経を聞くことができ、信心清浄なれば、すぐに真実だとわかるでしょう。その人こそ第一希有の功徳を成就します。
世尊。この真実相(※原文は「実相」。日本語だとわかりにくいので「真実相」と訳した)とはすなわち真実相ではないのです。それゆえ如来は説かれました。真実相と名づけると。
世尊。私は今、この経典を聞くことが出来ました。信解し受持することは、難しくはありません。
もしこののち五百年たち、衆生でこの経を聞くことができて信解・受持できる者がいたなら、その人は第一希有の人です。
それゆえその人には『我』『人』『生き物』『寿命』という思いはないのです。
なぜなら、『我』『人』『生き物』『寿命』というのはその真実相ではないからです。
それゆえ、一切の諸相を離れた者を諸仏と名づけるのです」
仏は須菩提に言った。
「そうだよ、そうだよ。もしある人がこの経を聞くことができて、驚かず怖れず畏怖しなければ、その人ははなはだ希有な人だ。
何故かというと、須菩提よ、如来が説いた第一波羅蜜は第一波羅蜜そのものではないからだ。これを第一波羅蜜と名づけたのだ。
須菩提よ、忍辱波羅蜜についてもそうだ。何故か。須菩提よ。私は昔(※前世において)、歌利王にこの身を切り裂かれた。
私はその時、『我』『人』『生き物』『寿命』という思いはなかった。
何故か。私はそのさらに昔、節々を解体されたとき、もし『我』『人』『生き物』『寿命』という思いがあったなら、怒りと恨みの心を起こしただろう。須菩提よ。また過去を思うに五百世にわたって忍辱仙人となり、
その世で『我』『人』『生き物』『寿命』という思いがなかった。それゆえ須菩提よ。菩薩はまさに一切の思いを捨てて、阿耨多羅三藐三菩心(※悟りへの心)を抱かねばならない。見た目から起きる心を抱いてはならない。声、香り、味、触感、法から起きる心を抱いてはならない。どこにもとらわれない心を持たなければならない。
もし心にとらわれがあったら、とらわれがないようにしなくてはならない。
それゆえ仏は説いた。『菩薩の心は布施するものに執着してはならない』と。
須菩提よ。菩薩は一切衆生を利益(りやく)するためにまさにこのように布施しなくてはならない。
如来は説いた。一切の諸相はその真実相ではないと。また説いた。一切の衆生は実は衆生ではないと。
須菩提よ。如来は真実を語る者である。うそいつわりでないことを語る者である。
須菩提よ。如来が得た法には実も虚ない。
須菩提よ。もし菩薩の心が法に執着して布施を行ったなら、それは人が闇に入って何も見えないようなものだ。
もし菩薩の心が法に執着せず布施を行ったなら、それは人に目があって日光が種種の色を明らかに照らし見せるようなものだ。
須菩提よ。未来の世でもし善男子・善女人がいて、よくこの経を受持・読誦すれば、如来が仏の智慧をもって悉くその人を知り、見るがゆえに、皆、無量無辺の功徳を成就するのだ。
須菩提よ、もし善男子・善女人がいて、午前中にガンジス河の砂の粒の数ほどの身を布施し、昼間にも夕方にも同様に身を布施したとして、かくのごとく無限の百千万億劫にわたって身を布施したとしても、ある人がこの経典を聞いて信心してそむかねば、その福は布施した人々にまさるのだ。書写し受持し読誦し他人のために解説した人は言うまでもない。
須菩提よ、要約すると、この経には不可思議ではかりしれぬ無限の功徳があるのだ。
如来は大乗に目覚めた者にこれを説く。最上乗に目覚める者の為に。
もしある人が、よく受持し読誦し広く他人のために説くなら、如来はその人をことごとく知り、見て、皆、はかりしれず言うことも出来ないほどの無限の不可思議な功徳を成就するのだ。
このような人々は、如来の阿耨多羅三藐三菩提を受け取るのだ。
何故か。須菩提よ。小乗の法を楽しむ者は、『我』『人』『生き物』『寿命』に執着するがゆえにこの経を聴き、受けとったり、読誦したり、他人のために解説することができないからだ。
須菩提よ。もしあちこちにこの経があれば、一切の世間にいる天・人・阿修羅たちが供養することになる。
まさに知るべし。そこは仏塔と同様、皆が恭しく敬い、礼をし、取り囲んで諸々の華香を散らすであろう。
また須菩提よ。善男子・善女人でこの経を受持・読誦する者が他人から軽んじられ賤しめられるなら、それはその人の先の世における罪業が悪道に落ちるべきところを、今世の人から軽んじられ賤しめられることで先の世の罪業が消滅しているのだ。これによって阿耨多羅三藐三菩提が得られるのだ。
須菩提よ。私は憶えている。はるかはるか昔。然灯仏の前で八百四千万億那由他の諸仏に会えたのだ。
悉く皆を供養し、仕えて、無視することはなかった。もしある人が後の末世においてこの経を受持・読誦すれば、得られる功徳は私が諸仏を供養した功徳に比べると百分の一にも及ばない。千万億分の一、あるいは計算したりたとえることもできないほどわずかなのだ。
須菩提よ。善男子・善女人が後の末世においてこの経を受持・読誦して得られる功徳を私が具体的に説いたなら、聞いた者の心は狂乱し、疑ってためらい、信じないだろう。
須菩提よ、まさに知るべし。この経の意義は不可思議で、果報もまた不可思議なのだ」
須菩提は仏に言った。
「世尊。善男子・善女人が阿耨多羅三藐三菩提心を起こすとき、どのようにすごしどのようにその心を治めるべきなのでしょう」
仏「善男子・善女人で阿耨多羅三藐三菩提を発した者は、このような心であらねばならない。
『私は一切衆生を滅度し(悟らせ)よう』
一切衆生を滅度しおえたとして、実は一人の衆生も滅度された者はいないのだ。
なぜか。須菩提よ。もし菩薩に『我』『人』『生き物』『寿命』という思いがあれば、それは菩薩ではない。
そして、須菩提よ。実は阿耨多羅三藐三提を起こさせる法はないからだ。
須菩提よ、どういうことか。如来が然灯仏の所で阿耨多羅三藐三菩提を起こす法を得ただろうか」
「いいえ、世尊。私が仏の説かれたことを理解した限りでは、仏は然灯仏の所には阿耨多羅三藐三菩提を得る法はなかったとおおせです」
仏「そうそう、須菩提。実のところ如来が阿耨多羅三藐三菩提を得る法などないのだ。須菩提、もしそのような法があれば、然灯仏は私に受記など与えなかっただろう。『そなたは来世において仏になり、釈迦牟尼と号す』などとは。
実はそのような法がないから然灯仏は私に受記の言葉を語ったのだ。
何故か。如来とは即ち、諸法の如し(※ありのまま)という意味である。
もしある人が『如来は阿耨多羅三藐三菩提を得た』と言ったとしても、須菩提よ、実は仏が阿耨多羅三藐三菩提を得る法はないのだ。須菩提よ、如来が得た阿耨多羅三藐三菩提には実も虚もない。
それゆえ如来は説いたのだ。『一切法は皆、仏法である』と。
須菩提よ、ここで言う一切法とは実は一切の法ではない。一切法と名づけただけだ。
須菩提よ、たとえるなら『人の身長が高い』と言うようなものだ」
須菩提「世尊。如来は『人の身長が高い』というのは『大きな体』なのではなく『大きな体』と名づけたのだと説かれるのですね」
「須菩提よ、菩薩もまたそうだ。もし『私は無限の衆生を滅度します』と言うだけなら菩薩とは名づけない。何故か。
須菩提よ。実際には菩薩と名づける法などないのだ。それゆえに仏は『我』『人』『生き物』『寿命』という思いがなくなる一切の法を説いたのだ。
須菩提よ。もし菩薩がそのように言って『私は仏土を荘厳しよう』と言うのなら、これは菩薩とは名づけない。
何故か。如来が説いた『仏土を荘厳する』とは、荘厳することではなく荘厳すると名づけているのだ。
須菩提よ、もし菩薩が『我なし』という法に通達しているのなら、真にこれが菩薩であると名づけるのだ、と如来は説こう。
須菩提よ、どうだろう。如来には肉の眼があるだろうか」
「ございます、世尊。如来には肉の眼があります」
「須菩提よ、どうだろう。如来には天眼(※神の如く何でも見通す眼)があるだろうか」
「ございます、世尊。如来には天眼があります」
「須菩提よ、どうだろう。如来には慧眼(※智慧によって本質を見抜く眼)があるだろうか」
「ございます、世尊。如来には慧眼があります」
「須菩提よ、どうだろう。如来には法眼(※法によって見抜く眼)があるだろうか」
「ございます、世尊。如来には法眼があります」
「須菩提よ、どうだろう。如来には仏眼(※仏としての見抜く眼)があるだろうか」
「ございます、世尊。如来には仏眼があります」
「須菩提よ、どうだろう。ガンジス河にある全ての砂について、仏はこれを砂と言っただろうか」
「はい、世尊。如来はこれを砂と言われました」
「須菩提よ、どうだろう。ガンジス河の砂の数ほどのガンジス河の砂の数ほどもある仏の世界は多いだろうか」
「とても多いです、世尊」
仏は須菩提に説いた。「その国土中にいる衆生にはいくつかの種別があるが、如来はその心を悉く知っている。
何故なら、如来は説く、諸々の心は皆、心そのものではなく心と名づけただけだ、と。
それゆえ須菩提よ。過去の心はとらえられず、現在の心はとらえられず、未来の心はとらえられないのだ」
(※かの有名な「過去心不可得。現在心不可得。未来心不可得」の句です)
「須菩提よ、どうだろう。もしある人が三千大千世界に満ちるほどの七宝を布施したら、その人がこの因縁によって得る福は多いだろうか」
「はい、世尊。その人が得る福はとても多いです」
「須菩提よ。もし福徳に実体があったなら、如来は得られる福徳が多いとは説かないだろう。
福徳というものの実体が無いがゆえに、如来は福徳が多いと説くのだ。
須菩提、どうだろう。仏は目に見える身体をそなえたものとして見えるだろうか」
「いいえ、世尊。如来は見える身体をそなえたものとして見るべきではありません。
何故なら、如来は目に見える身体がそなわっていると説かれましたが、
それは実際には目に見える身体がそなわっているわけではありません。目に見える身体がそなわっている、と名づけただけなのです」
「須菩提よ、どうだろう。如来にそなわっている諸相が見えるだろうか」
「いいえ世尊。如来は諸相を見えるようにそなえているわけではありません。何故なら、如来は説かれました。
諸相を備えているということは、実際に諸相がそなわっているわけではなく、諸相がそなわっていると名づけただけなのだと」
「須菩提よ。そなたは『如来がこう思った』などと言うべきではない。私が法を説くとき、法を説こうなどとは思っていない。
何故か。もし人が、『如来には説く法がある』と言えば、それは仏をそしることになり、私が説くことを理解できないからだ。
須菩提よ。説法者に説くべき法はない。説法と名づけているだけなのだ」
この時、長老須菩提は仏に言った。
「世尊。未来世にはたくさんの衆生がいるでしょう。はたしてこの法を聞いて信心を起こすでしょうか」
仏「須菩提よ。彼らは衆生ではなく衆生でない者でもない。何故か。須菩提よ、衆生とはもろもろの生ける者である。如来はこれを衆生ではないと説く。衆生と名づけただけなのだと」
須菩提「世尊。仏が阿耨多羅三藐三菩提を得たことも、何も得ていないとなすべきなのでしょうか」
「そうそう。須菩提よ。私は阿耨多羅三藐三菩提(※無上の悟り)において少しの法も得られるものはなかった。これを阿耨多羅三藐三菩提と名づけたのだ。
また、須菩提よ。この法は平等で、高い低いということがない。これを阿耨多羅三藐三菩提と名づけたのだ。
『我』『人』『生き物』『寿命』がないという思いのもと一切の善法を修する者は、阿耨多羅三藐三菩提を得るのである。
須菩提よ、ここで言う善法とは、如来は善法そのものではないと説く。これを善法と名づけているだけなのだ。
須菩提よ。もし三千大千世界中の諸々の須弥山王が、それぞれそれだけの数の七宝を集めたほどの宝を、ある人が布施したとしよう。
その福徳は、『般若波羅蜜経』やその四句偈等を受持・読誦して他人のために説くことの百分の一にも及ばないのだ。百千万億分の一から計算したり比喩が及ばぬほど少ないのだ。
須菩提よ、どうだろう。『如来はこのように思った。私はまさに衆生を済度する』と考えたと言うべきではない。
須菩提よ、そう思ってはならないのだ。何故か。実は如来が済度する衆生というものはないのだ。如来が済度する衆生があるとすれば、如来には『我』『人』『生き物』『寿命』という思いがあることになる。須菩提よ。如来は説く。『我』という思いがある者には、実は『我』というものがないのだ。しかし、凡夫の人は『我』があると思っている。
須菩提よ、凡夫とは、如来は凡夫そのものではないと説く。
須菩提よ、どうだろう。三十二相によって如来を見分けることができるだろうか」
須菩提「そうですそうです。三十二相によって如来を見分けることができます」
仏「須菩提よ、もし三十二相で如来が見分けられるのなら、転輪聖王(※世界を支配する理想の帝王)もまた如来だ」
須菩提「世尊。仏が説かれるところを私が理解するに、三十二相で如来を見分けることは出来ないということですね」
そこで世尊は偈をもって説いた。
♪
若以色見我 (もし見た目をもって私を見るなら)
以音声求我 (声をもって私を求めるなら)
是人行邪道 (その人は邪道を行き)
不能見如来 (如来にまみえることは出来ないだろう)
♪
「須菩提よ。このように思ってはならない。如来は『完全な外見を持っていたから阿耨多羅三藐三菩提を得た』わけではないと。
須菩提よ、もしそう思うのなら、阿耨多羅三藐三菩提を起こす者は、諸法の断滅相(※因果・縁起関係の不在)を説くだろう。そう思ってはならないのだ。
何故なら、阿耨多羅三藐三菩提心をおこす者は、法において断滅相は説かない。
※この項、いきなり断滅相の話が出てきて難解。
須菩提よ。もし菩薩がガンジス河の砂粒に等しい数の世界を満たすほどの七宝を布施したとしよう。そしてある人が一切法を知り、無我にして忍辱を成しとげたとしよう。この菩薩が得た功徳は、その前の菩薩が得た功徳にまさるのだ。須菩提よ。諸々の菩薩は福徳を受けないがゆえに」
須菩提「世尊。どのようにして菩薩は福徳を受けないでいられるのでしょう」
「須菩提よ。菩薩は福徳を作っても貪著すべきではない。それゆえ福徳を受けないと説いている。
須菩提よ。もしある人が『如来が来た、去った、坐った、臥した』と言ったとする。
その人は私が説いたことを理解していない。何故なら、如来には来るところも去るところもないから如来と名づけられたのだ。
※肉体としての仏ではなく、概念としての如来のこと。法そのもの。
須菩提よ。もし善男子・善女人が三千大千世界を砕いて微塵にしたとしよう。どうだろう。この微塵の集まりは多いだろうか」
「とても多いです、世尊。何故なら、この微塵が実際にあるものなら仏は微塵の集まりとは説かないでしょう。どうしてかと言うと、仏が微塵の集まりと言ったものは、実際には微塵の集まりではなく、微塵の集まりと名づけただけなのです。
世尊。如来が説く三千大千世界は世界ではありません。これは世界と名づけただけなのです。
何故なら、もし世界が実際に有ったらそれは一合相(※全てを一つの全体と見なしてひとまとめにする見方)なのです。如来は、一合相は実際は一合相ではない、一合相と名づけただけなのだ、と説かれました」
「須菩提よ。一合相については説いてはならない。ただ凡夫の人がそれに貪著しているだけなのだ。
須菩提よ。もし人がこう言ったとする。『仏は『我』『人』『生き物』『寿命』という思いについて説いている』と。
須菩提よ、どうだろう。この人は私が説いたことを理解しているだろうか」
「世尊。この人は如来が説いたことを理解していません。何故なら、世尊は説かれました。
『我』『人』『生き物』『寿命』という思いは、『我』『人』『生き物』『寿命』という思いそのものではない。
『我』『人』『生き物』『寿命』という思いと名づけただけなのだ、と」
「須菩提よ。阿耨多羅三藐三菩提心を起こした者は、一切の法において、このように知り、見て、信解しして、法相(※これがこうだという思い)を生じてはならない。須菩提よ、ここで言う法相とは、如来が説く法相そのものではない。ただ法相と名づけただけなのだ。
須菩提よ。もしある人が無量阿僧祇の世界を七宝で満たして布施したとして、善男子・善女人が菩薩の心を起こしこの経や四句偈等を受持・読誦して人のために説き述べた方が、その福は先の人に勝るのだ。
人のために説き述べるとはどういうことか。あらわれた相をかくのごとくそのままで不動のものととってはならない。何故なら、
♪
一切有為法(一切の有為法※は)
如夢幻泡影(夢、幻、泡、影のよう)
如露亦如電(露や雷光のよう)
応作如是観(まさにそのように物事を見なさい)
♪
※有為法……因と縁によって出来た恒常的でない現象のこと
仏はこの経を説きおえた。
長老の須菩提と比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷たち、一切の世間にいる天人・阿修羅は、仏が説いたことを聞いて、皆、大いに喜び、信じ受け取りうけたまわった。
金剛般若波羅蜜経、おしまい。
真言
那謨 婆伽跋帝 鉢喇壊 波羅弭多曳
唵伊利底 伊室利 輸盧馱 毘舎耶 毘舎耶 莎婆訶
(なも・ばぎゃばてい・はらじゃ・はらみたえい・
おんいりて・いしり・しゅろた・びしゃや・びしゃや・そわか)