「鐘声七条」の公案
『無門関』第十六
雲門曰、世界恁麼廣闊。因甚向鐘聲裏披七條。
雲門禅師が言った。「世界はどうしてこうも広いのか。どうして鐘が鳴ったら七条袈裟をまとうのか」
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以下、無門禅師の「そもそも参禅して道を学ぼうという者はだなあ……」というまじめくさった着語が続くのですが、それはさておき。
我々は日々、稼がなくては生きていけません。
いやだなあ、と思っても職場におもむくのです。
お坊さんだって同じです。
日々、お坊さんとしての務めを果たさなくてはならないのです。
「いやだなあ」と思っても、毎朝時間が来たら衣に着替えます。
鐘を鳴らすのはおつとめの合図です。
当時は、日常でもおつとのときは七条袈裟をまとっていたのでしょう。
本堂に入って威儀を正します。
そのあとの講義で、雲門禅師がぽつりと言ったのでしょう。
「空は青く天気もいい。なんでわしらは、七条袈裟をまとってこんなことしとるんかなあ」
人は本来、自由です。
僧堂を出るのも自由です。
ただ、現世のしがらみにより、定められたとおりに過ごしています。
その枠をはみ出すも出さないのもその人の自由です。
私が大学生の時は、たまに先生引率の元、ゼミ生で喫茶店や近くの神社に行って息抜きをしました。
最近では、大学の授業で常に「鍋をしてもいいんだぞ」と言っていたら、ついに本当に鍋をする学生が現れた、という話もありました。
さすがに、いつも息抜きでは学びになりませんが、たまにそういう逸脱があるからいいのです。
いえ、本当は、僧侶をやめても学生をやめても人は自由なのです。
ただ、その瞬間その瞬間、無限に広がる自由があるのみです。