賢愚経巻十三 蘇曼女十子品第五十八
このように聞いた。
仏が舎衛国の祇樹給孤独園にいたときのこと。須達(スダッタ)長者の末娘は蘇曼(ソマン)といい、端正な顔立ちでぬきんでて美しかった。父は子の中で一番愛し、外出時にはいつも一緒だった。長者が仏の所に行くとき、その娘は仏に会った。とてもうれしくなり、よい香を得て仏の住室に塗ろうと考えた。娘の手の中には賓婆菓(鳳凰眼/ピンポンノキ)があった。仏は探すべき香の種類をを書き記して渡した。
娘とその父は、街に帰って仏が必要とする種々の妙香を買った。
娘は、毎日祇園精舎に行くと、自らこれを粉に碾いた。
持叉尸利(ジシャシリ※)国王は王子の一人を舎衛国にやって、見聞を広めさせていた。精舎に来ると、ソマンが香を碾いているのを見てその容姿に惚れ込み、妻にしようと思った。
※おそらくは特叉尸利(Takkasilāタッカシラー)の誤記。一般にタキシラ国として知られる。パキスタンのイスラマバード近くにある。
王城に入り、ハシノク王にこの娘のことを話した。 「私の意にかなった娘です。願わくば王よ、賜いたまえ。どうかお願いです」
王はどこの家の娘かとたずね、スダッタの娘だという答えを得た。
王「卿が自分で探しなさい。余にはわからん」
王子「王のお許しがあれば、自ら探します」
王は許した。
王子は、車にいろいろな物を乗せて、ただ一頭の象だけを残して子弟を先に本国へと帰らせた。そして祇園精舎に行き、ソマンをつかまえて象で走り去った。
スダッタはこれを聞いて人をやって追わせたが、象の走りは速く追いつけなかった。
本国につくと王子はソマンを妻とし、のちに懐妊した。
ソマンは卵を十個産み、卵が孵化すると十人の男児が産れた。顔形は格別によく、人とは異っていた。
大きくなると勇健なること非凡、狩猟と殺生を好んだ。
母は憐憫からそんなことはするなと告げた。
子供たちは言った。「狩りは最高に楽しいんだ」
母はこのままでは将来子を憎むことになるだろうと思い、告げた。「私はお前たちを愛しているからこそ止めるのです。もし憎んでいたらこんなことは言いません。なぜかと言うと、殺生の罪は地獄行きだからです。もろもろの苦悩を受けること数千万年、常に鹿頭・羊頭・兎頭・諸禽獣の頭をした阿傍獄卒に射られるのです。とても長い時間、抜け出そうと思っても抜け出せません」
子たち「母様の言うことは、自らの心から出た思いつきではありませんか。誰かからきいたのですか」
母「私は昔、仏からそう聞いたのです」
子たち「仏とは何者ですか。くわしく教えてください」
母「聞いたことがありませんか。カピラヴァストゥの浄飯王の子で、外見はとても輝いています。聖王となるべきところを、老病死を厭って出家・学道し、 行が成就して無上果を得ました。とても背が高くてお顔がよく、過去・現在・未来のことがわかり、天耳通・他心通・神足通といった神通力があります。見えるものに限りがなく、過去を無限に知り、知識も莫大で、世界を知ること掌中の珠を見るようなのです」
子らはこれを聞くと喜び、さらに母にたずねた。「仏は今、どこにいて、会うことはできますか」
母「今は舎衛国においでです」
子らは母に仏に会いに行きたいと言い、母はそれを許した。
子らはつれだって舎衛国に行った。
子らの祖父であるスダッタは、孫たちが祇園精舎に来て仏を拝観する様子を見て、愛おしさが倍加した。
子らは仏の姿形がよいことを見て、母に聞いたのよりも数千万倍もすごいと大喜び。仏は因縁によってふさわしい妙法を説き、十人はともに法眼の浄きを得た。そこで仏に出家したいと申し出た。
仏「そなたらの父母の許可は得たか」
「いいえ」
「ならば出家はならぬ」
スダッタ「この者たちは私の孫です。私が許可して家を出すとしたら、理としていかがでしょう」
仏はよしとし、道に入らせた。すると髭と髪が自ずから落ち、法衣が身にまとわれて沙門となった。子らは大いに精勤し、みな羅漢となった。 この十人の比丘はみな仲がよく敬いあい、行いもきちんとしていて、国中の民で敬わぬ者はなかった。
阿難が仏にたずねた。「この十人の比丘たちにはどのような福慶があって貴い家に生れ、容貌すぐれ、地獄に落ちる苦しみの際にあって世尊に会えたのでしょう」
仏「はるか九十一劫の昔、毘婆尸(ビバシ/Vipaśyin)仏が世に現れ、教化を終えて涅槃に入った」
その舎利が分かたれ、たくさんの塔(ストゥーパ)が立てられた。塔の一つが朽ちて崩壊し、一人のお婆さんがこれを修理しようとした。
子供が十人いてたまたまそれを見かけ、お婆さんにたずねた。 「何のためにそんなことをするのです」
「これは尊い塔なのですよ。とても功徳があるのです。修補して善果を望むのです」
子供たちは喜んで協力した。
作業がおわり、お婆さんと子らは共に生れかわろうと誓願をなした。
これより九十一劫、天上の人としてともに生れ、福を受け楽しくすごした。
仏「いつも姿形が端正で、皆に敬い愛され、長寿だった。時が過ぎても三悪趣(地獄・餓鬼・畜生)に落ちることなく、今世で私に会ったのだ。 沐浴すればきれいになり塵や垢がとれるように、皆、真理にあうのを待っていたのだ。その時のお婆さんが今のソマンである。十人の少年は今の十羅漢である」
仏がこのように説くと、会衆たちは初果から阿羅漢果にいたり、あるいは大乗への不退転の思いを抱いて、 仏の言葉を信受し、喜んでうけたまわったのだった。
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