善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや

有名な『歎異抄』の一節です。
意味は「善人ですら極楽往生をとげる。悪人は言うまでもない」ということです。
確かに仏典には、アングリマーラのような殺人鬼が阿羅漢になったという話もあります。
https://note.com/syakutyoukuu/n/nb77dcca7c79c
また、釈尊を何度も殺そうとしたデーバダッタも最後には成仏したと説く『法華経』の提婆達多品の記述もあります。
『金剛頂経』にも、元々悪人であっても菩提心を抱いて阿闍梨の導きを得て正しい儀式を経れば悟りに至れるという記述があります。

ただ、『歎異抄』で言われる「悪人」とは、もっと一般的な庶民をさします。
「海河に網をひき釣りをして世を渡る者」
「野山に獣を狩り鳥をとりて命をつぐ輩」
彼らは、不殺生戒を守らないから地獄に落ちる(=悪人)とされていました。

「商いをもし田畠を作りて過ぐる人」を同じとしています。ということは、彼らが善人です。

ですが、生きていくにはどうしても他人を傷つけてしまうことがあります。どんな商売をしても、やれ損をした得をした、騙された(不妄語戒をやぶった)、果ては不偸盗戒をやぶった、ということになります。

そして、農業には殺生がつきものです。害虫を駆除しないと作物が育ちません。畑を耕せば幼虫が出てきます。インドのジャイナ教は厳格な菜食主義で、虫を踏み殺さないようはだしで道を歩くと言いますが、そこまで徹底してもノミやシラミを潰してしまうことはあるでしょう。不殺生戒も守りがたい。

不邪淫戒にしても、遊女には絶対に守れないものです。近いところでは、戦後すぐのパンパンなどは、生きるために仕方のないことだったでしょうし、現代の援助交際にしても、家庭の事情でやむなく家を逃げ出して従事している人も少なくないはずです。政略結婚のような愛のない結婚が邪淫でなく、その枠をはずれた愛ある交際が邪淫である、とは誰も言えないでしょう。

不妄語戒。誰だって嘘はつきます。人間関係を円滑にするためです。
「おいしかった?」
「おいしかったよ(本当はまずかったんだけどな)」
という事は往々にしてあります。

では、五戒のうちの不飲酒戒は?
守れる人は守れるでしょう。庶民のありふれた楽しみですが。
酒大好きの私には守れない戒です。というか、今までいただいた戒の中には不飲酒戒が含まれていないです。
世の中に多いのが「下戸の禁酒」というやつです。本当は酒を飲むと苦しくなる体質なのだけど、あるいは酒は嫌いだけど、「私は不飲酒戒を守っています」としたり顔で暮らす。
昔の人は言いました。「下戸の禁酒」「餓鬼の断食」「河童の水垢離」などと。
そして、神仏習合のお寺では、御神酒の供えはあたり前のことです。もちろん、お供えは捨ててはいけません。
ただ、お寺に入っているときや儀式期間中は飲酒しないということは可能でしょう。時宜を心得たふるまいは望まれます。

というわけで、五戒を「常に」守ることははなはだ困難です。
釈尊はそんな我々に、六斎日という便法を用意してくださいました。陰暦の八日・一四日・一五日・二三日・二九日・三〇日に、八つの戒を守るというものです。さらには、十善戒法という「不殺生、不偸盗、不邪婬、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不慳貪、不瞋恚、不邪見」という方法もあります。(私は十善戒は受けています)

いまいちど『未曽有因縁経』の釈尊の言葉を見てみましょう。
「妄語には二種類ある。一つは重く一つは軽い。何を重いと言うのか。受戒した人が智慧を学ばず愚痴・無智なことを言う。教化できず、仏法も興隆できない。人から軽んじられ。供養を受けず、貧窮・困苦する。供養を受けるために外には精進の様子を表し、内は邪濁で、教えをころころ変える。皆に向かっては、比丘の苦行・精進によって禅の境界を得たように見せ、あるいは仏に会った、竜に会った、鬼に会ったなどと言う。このような人を大妄語と名づける。この罪を犯した者は阿鼻地獄に落ちる。また、妄語によって、殺人、人家の破壊などをさせ、妄語によって契約をたがえ他人の怒りと恨みとをかう。こういう人を下妄語と言う。このような者を犯戒と言い、小地獄に落ちる。その他の戯れや私的な禁忌事項に触れたり、あるいは言ったことをしなかったり言わなかったことをするのは犯戒ではない」

また曰く、「定めた禁戒は、愚者には手だてとなる知恵がないからで、時宜を心得た賢者のためではない。かつて言ったように、般若の智慧は解脱によって賢者が受け、行い、居る場所なのだ」

くれぐれも、戒を守ることが目的とならず、般若の智慧をめざされますように。



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