長阿含経巻第一 大本経

 後秦の弘始の年、仏陀耶舎が竺仏念とともに訳した。 

第一分初・大本経第一

 このように聞いた。
 仏が舎衛国の祇樹花林窟に大比丘衆千二百五十人とともにいた時のこと。
 比丘たちは乞食の後で花林堂に集まり、各々議論して言った。
「賢い比丘たちはただ無上尊のみを最も奇特としている。神通力は遠くに達し、威力は弘大だ。そして、過去の無数の仏たちについて知っている。彼らは涅槃に入り、諸々の煩悩を断ち、戯論を消滅させた。仏たちの生きた年数の多少についても知っている。名号、姓字、生れた種族、その飲食、寿命の長短、苦楽のこもごもを。また、その仏がどのような戒をたもったかを知っている。その法、その智慧、その理解、どこにとどまったかを。どうして諸賢が如来を善とし、別の法性知がかくのごときで諸天が来て語りその事を知ったかを」

 その時世尊は閑静な処にいて、清浄なる天耳通で比丘たちがこのような議論をしているのを聞いた。
 座より起ち花林堂に行き、座について坐った。
 世尊は問うた。「比丘たちよ。汝等はここに集まり何を語り議論しているのか」
 比丘たちはつぶさにこたえた。
世尊「よきかなよきかな。諸君は平等に仏を信じて出家・修道した。その修行にはおよそ二つがある。一つは賢聖講法であり、二つは賢聖黙然である。
そなたらが議論していたことはまさに事実だ。如来の神通力、威力は弘大で、過去無数劫の事をことごとく知る。法性をよく理解しているからである。また、天たちが来て語ったから知っているのだ」
 仏は頌をうたった、


 比丘集法堂 講説賢聖論
(比丘は法堂に集い 賢聖論を説く)
 如来処静室 天耳尽聞知
(如来は静室にいて 天耳通によって知る)
 仏日光普照 分別法界義
(仏は日光そのままに普く照らし 法界の義をあきらかにする)
 亦知過去事 三仏般泥洹
(また過去のことを知る 三人の仏の涅槃について)
 名号姓種族 受生分亦知
(名号、姓、種族 生れた環境について)
 随彼之処所 浄眼皆記之
(その居た場所について 浄眼によって皆記憶する)
 諸天大威力 容貎甚端厳
(諸天は大いなる威力あって 容貎ははなはだ端厳なり)
 亦来啓告我 三仏般泥洹
(来たりて我に告げる 三人の仏の涅槃について)
 記生名号姓 哀鸞音尽知
(生れた名、号、姓について 迦陵頻伽の声についても)
 無上天人尊 記於過去仏
(無上の天人尊は 過去仏について記憶する)

 そして比丘たちに告げた。
「そなたらは如来が宿命智によって識った過去の諸仏の因縁を聞きたいのであろう。今ここに説こう」
比丘たち「世尊、今がまさにその時です。願わくば聞かせたまえ。世尊が説きたまうことはよきかな。まさにこれを承ります」
仏「よく聴きよく覚えるのです。今、そなたのたに細かく解説しよう」
 比丘たちは教えを受けて傾聴した。

 過去九十一劫の昔、世には真理に至った毘婆尸(びばし/ビパッシー)如来が世に出現し、比丘があいついだ。
 過去三十一劫の昔、真理に至った尸棄(しき/シキー)如来が世に出現し、比丘があいついだ。
 その三十一劫中に、真理に至った毘舎婆(びしゃふぶつ/ベッサブー)如来が世に出現し、比丘があいついだ。
 この賢劫中には拘楼孫(くるそん/カクサンダ)仏、拘那含(くなごん/コナーガマナ)仏、迦葉(かしょう/カッサパ)仏があらわれた。
 私は今、この賢劫中で最正覚を得た。

※「釈迦牟尼仏は無師独悟」と言われます。しかし、なぜ『長阿含経』でこれだけの仏の功績を挙げなくてはならなかったのでしょう。
やはり、釈尊の教えの元となった先達の教えを無視すると反発が予想されたからでしょう。
そして「過去九十一劫の昔、ビバシ仏が現れた」というのは、本当は九十一年前?

 仏は頌をうたった。


 過九十一劫 有毘婆尸仏
(過去九十一劫 ビバシ仏あり)
 次三十一劫 有仏名尸棄
(次の三十一劫には シキ仏あり)
 即於彼劫中 毘舎如来出
(その劫中に ビシャ如来が出て)
 今此賢劫中 無数那維歳
(この賢劫中には 無数の年に)
 有四大仙人 愍衆生故出
(四大仙人ありて 衆生を哀れんで現れる)
 拘楼孫那含 迦葉釈迦文
(クルソン仏、クナゴン仏、カショウ仏、釈迦牟尼仏)

仏「そなたらはまさに知るべし。ビバシ仏の時の人の寿命は八万歳、シキ仏の時の人の寿命は七万歳、ビシャバ仏の時の人の寿命は六万歳、クルソン仏の時の人の寿命は四万歳、クナゴン仏の時の人の寿命は三万歳、カショウ仏の時の人の寿命は二万歳。私が今、世に出て人の寿命は百歳以上の者は少なく、多くはもっと早くに死ぬ」
 仏は頌をうたった。


毘婆尸時人 寿八万四千
尸棄仏時人 寿命七万歳
毘舎婆時人 寿命六万歳
拘楼孫時人 寿命四万歳
拘那含時人 寿命三万歳
迦葉仏時人 寿命二万歳
如我今時人 寿命不過百

※逐一翻訳しなくてもここはわかりますよね。

仏「ビバシ仏はクシャトリヤより出でて姓は拘利若(コンダンニャ)。シキ仏とビシャバ仏も姓は同じ。クルソン仏はバラモン種。姓はカッサパ。クナゴン仏とカショウ仏も姓は同じ。私は今、如来であり真理に至った者。クシャトリヤ種で姓は瞿曇(くどん/ガウタマ)である」
 仏は頌をうたった。


 毘婆尸如来 尸棄毘舎婆
(ビバシ如意 シキ・ビシャバ)
 此三等正覚 出拘利若姓
(これら三人の如来は コンダンニャ姓から出た)
 自余三如来 出于迦葉姓
(残りの三如来は カッサパ姓から出た)
 我今無上尊 導御諸衆生
(私は今、無上尊 衆生たちを導き御する)
 天人中第一 勇猛姓瞿曇
(天人中の第一 勇猛なる姓はガウタマ)
 前三等正覚 出於刹利種
(前の三如来は クシャトリヤ種から出た)
 其後三如来 出婆羅門種
(その後の三如来は バラモン種から出た)
 我今無上尊 勇猛出刹利
(私は今、無上尊 勇猛にしてクシャトリヤから出た)

「ビバシ仏は波波羅樹の下に坐り最正覚(如来)となった。シキ仏は分陀利樹の下に坐り最正覚となった。ビシャバ仏は娑羅樹の下に坐り最正覚となった。クルソン仏は尸利沙樹の下に坐り最正覚となった。クナゴン仏は烏暫婆羅門樹の下に坐り最正覚となった。カショウ仏は尼拘律樹の下に坐り最正覚となった。私は今、如来にして真理に至った者、鉢多樹の下に坐り最正覚となった」

※樹木の比定はこちらでどうぞ。
http://tplant.web.fc2.com/2kousin.html

 仏は頌を歌った。


毘婆尸如来 往詣波羅樹
(ビバシ如来は 波羅樹にもうで)
即於彼処所 得成最正覚
(その場所で 最正覚となった)
尸棄分陀樹 成道滅有原
(シキは分陀樹で 成道して輪廻の源を滅した)
毘舎婆如来 坐娑羅樹下
(ビシャバ如来は 娑羅樹の下にすわり)
獲解脱知見 神足無所礙
(解脱の知見を獲得した 神足にして何の障害もない)
拘楼孫如来 坐尸利沙樹
(クルソン如来は 尸利沙樹にすわり)
一切智清浄 無染無所著
(一切智は清浄にして 染まらず執着せず)
拘那含無尼 坐烏暫樹下
(クナゴン牟尼は 烏暫樹の下にすわり)
即於彼処所 滅諸貪憂悩
(そこで 諸々の貪りと憂悩を滅した)
迦葉如来坐 尼拘楼樹下
(カショウ如来は 尼拘楼樹の下で)
即於彼処所 除滅諸有本
(そこで 諸々の輪廻の本を除滅した)
我今釈迦文 坐於鉢多樹
(今、私釈迦牟尼は 鉢多樹に坐して)
如来十力尊 断滅諸結使
(如来十力尊として もろもろの煩悩を断滅した)
摧伏衆魔怨 在衆演大明
(衆魔の怨みをたたき伏せ 衆生に太陽のようにあらわれた)
七仏精進力 放光滅闇冥
(七仏の精進力は 光を放って闇を滅した)
各各坐諸樹 於中成正覚
(各々諸樹にすわり そこで正覚をなしとげた)

「ビバシ如来は三度の説法大会をした。初会の弟子は十六万八千人。二会の弟子は十万人。三会の弟子は八万人。
シキ如来もまた三度の説法大会をした。初会の弟子は十万人。二会の弟子は八万人。三会の弟子は七万人。
ビシャバ如来は二度の説法大会をした。初会の弟子は七万人。次会の弟子は六万人。
クルソン如来は一度の説法大会をした。弟子は四万人。
クナゴン如来は一度の説法大会をした。弟子は三万人。
カショウ如来は一度の説法大会をした。弟子は二万人。
私は今、一度の説法大会で弟子は千二百五十人である」
 仏は頌を歌った。


毘婆尸名観 智慧不可量
(ビバシの名に見るに 智慧はかりがたし)
遍見無所畏 三会弟子衆
(三会の弟子衆を あまねく見ておそれることなし)
尸棄光無動 能滅諸結使
(シキの光は動かずして よく煩悩を滅す)
無量大威徳 無能測量者
(無量の大威徳は はかりしれず)
彼仏亦三会 弟子普共集
(かの仏もまた三会に 弟子みなともに集まる)
毘舎婆断結 大仙人要集
(ビシャバは煩悩を断ち 大仙人を集まらせた)
名聞於諸方 妙法大名称
(名は諸方に聞こえた 妙法の大名称も)
二会弟子衆 普演深奥義
(二会の弟子衆に あまねく深い奥義を講演した)
拘楼孫一会 哀愍療諸苦
(クルソンは一会 もろもろの苦を哀れんで治療した)
導師化衆生 一会弟子衆
(導師として衆生を教化した 一会の弟子たちを)
拘那含如来 無上亦如是
(クナゴン如来は 無上なることまた同じ)
紫磨金色身 容貎悉具足
(紫金の色の体で 容貎はみな整っていた)
一会弟子衆 普演微妙法
(一会の弟子たちに あまねく素晴しい法を講演した)
迦葉一一毛 一心無乱想
(カショウは一々の毛に至るまで 一心不乱に瞑想した)
一語不煩重 一会弟子衆
(言葉は煩重でなく 一会の弟子たちは)
能仁意寂滅 釈種沙門上
(よく仁にして寂滅を思った 釈迦族の沙門はさらに上)
天中天最尊 我一会弟子
(天中の天にして最も尊い 我が一会の弟子たちは)
彼会我現義 演布清浄教
(我が現義を理解して 清浄なる教えを布教する)
心常懐歓喜 漏尽尽後有
(心には常に歓喜をいだき 煩悩尽きてそのあとも生きる)
毘婆尸棄三 毘舎婆仏二
(ビバ・シキは三会 ビシャバは二会)
四仏各各一 仙人会演説
(四仏は各々一会 仙人が演説を聞いた)

「さて、ビバシ仏には二人の弟子がいた。騫茶(ケンチャ)と提舎(ダイシャ)である。弟子たちの中で最も優秀であった。
 シキ仏には二人の弟子がいた。阿毘浮(アビフ)と三婆婆(サンババ)である。弟子たちの中で最も優秀であった。
 ビシャバ仏には扶遊(フユウ)と鬱多摩(ウッタマ)、クルソン仏には薩尼(サッニ)と毘楼(ビロウ)、クナゴン仏には舒槃那(ジョパンナ)と鬱多楼(ウッタロウ)、カショウ仏には提舎(ダイシャ)と婆羅婆(バラバ)という最も優秀な弟子がいた。今、私には二人の弟子がいる。舎利弗と目揵連である」

 仏は頌を歌った。

騫茶提舎等 毗婆尸弟子
(ケンチャ、ダイシャ等はビバシ仏の弟子)
阿毗浮三婆 尸棄仏弟子
(アビフ、サンバはシキ仏の弟子)
扶遊鬱多摩 弟子中第一
(フユウ、ウッタマは弟子中の第一)
二倶降魔怨 毗舎婆弟子
(二人はともに魔の怨みをくだした ビシャバ仏の弟子である)
薩尸毗楼等 拘楼孫弟子
(サッシ、ビロウ等はクルソン仏の弟子)
舒槃鬱多楼 拘那含弟子
(ジョバン、ウッタロウはクナゴンの弟子)
提舎婆羅婆 迦葉仏弟子
(ダイシャ、バラバはカショウ仏の弟子)
舎利弗目連 是我第一子
(舎利弗、目連は 我が第一の弟子)

「ビバシ仏には無憂という執事の(※そばに仕える)弟子がいた。シキ仏には忍行という執事の弟子がいた。ビシャバ仏には寂滅、クルソン仏には善覚、
クナゴン仏には安和、カショウ仏には善友。私の執事の弟子は阿難である」
 仏は頌を歌った。

無憂与忍行 寂滅及善覚
(無憂と忍行 寂滅と善覚)
安和善友等 阿難為第七
(安和、善友 阿難は第七番目で並ぶ)
此為仏侍者 具足諸義趣
(これを仏侍者という 諸々の義と趣きをそなえる)
昼夜無放逸 自利亦利他
(昼夜、放逸せず 自利と利他を行う)
此七賢弟子 侍七仏左右
(この七人の賢い弟子は 七仏の左右に侍す)
歓喜而供養 寂然帰滅度
(喜んで仏に供養し 寂然として滅度にかえる)

「ビバシ仏には方膺という子がいた。シキ仏には無量という子がいた。ビシャバ仏には妙覚、クルソン仏には上勝、クナゴン仏には導師、
カショウ仏には集軍。今、私の子はラゴラ(ラーフラ)である」
 仏は頌を歌った。


方膺無量子 妙覚及上勝
(方膺、無量、妙覚、上勝)
導師集軍等 羅睺羅第七
(導師、集軍、ラゴラは第七として並び立つ)
此諸豪貴子 紹継諸仏種
(これらは富豪・貴顕の子で、諸仏の種を引き継ぐ)
愛法好施恵 於聖法無畏
(法を愛し恵みを施すことを好む 聖法において畏れることはない)

「ビバシ仏の父は槃頭(バンズ)。クシャトリヤ種である。母は槃頭婆提(バンズバダイ)。王が治める城市の名は槃頭婆提」
 仏は頌を歌った。


遍眼父槃頭 母槃頭婆提
(あまねく見通すビバシ仏、その父は槃頭 母は槃頭婆提)
槃頭婆提城 仏於中説法
(槃頭婆提が城市で 仏はその中で説法する)

「シキ仏の父は明相。クシャトリヤ種である。母は光曜。王が治める城の名は光相。
 仏は頌を歌った。

※以下、頌だけ読めば分かるので、地の文の翻訳は省略します。適宜、地の文で補っています。


尸棄父明相 母名曰光曜
(シキの父は明相 母は光曜)
於明相城中 威徳降外敵
(明相城の中で 威徳をもって外敵をくだした)
毗舎婆仏父 善灯刹利種
(ビシャバ仏の父は 善灯、クシャトリヤ種)
母名曰称戒 城名曰無喩
(母の名は称戒 城の名は無喩)
祀得婆羅門 母名曰善枝
(クルソン仏の父は祀得バラモン、母は善枝)
王名曰安和 居在安和城
(王名は安和 王について安和城にいた)
大徳婆羅門 母名曰善勝
(クナゴン仏の父は大徳バラモン 母は善勝)
王名曰清浄 居在清浄城
(この時の王の名は清浄 王について清浄城にいた)
梵徳婆羅門 母名曰財主
(カショウ仏の父は梵徳バラモン 母は財主)
時王名汲毗 在波羅㮈城
(この時の王の名はキュウビ バラナシ城で治めた)
父刹利浄飯 母名大清浄
(我が父は浄飯、クシャトリヤ種 母は大清浄)
土広民豊饒 我従彼而生
(王の城はカピラバストゥで土地は広く民は豊か 私は彼より生れた)

「これが諸仏の因縁、名号、種姓、生れた場所である。この因縁を聞いて喜ばず、愛し楽しむ心をいだかぬ智者はいない」
 世尊は比丘たちに告げた。
「私は今、宿命智によって過去の仏たちの事を説こうと思う。そなたらは聞きたいかね」
「今がその時です。願わくば聞かせたまえ」
「よく聴きよく考えるのです。そなたらのために細かく解説しよう。比丘は、諸仏の常法を知らなくてはならない
 ビバシ菩薩は兜率天から母胎に降神した。右脇より入り正念を抱いて乱れなかった。この時、地震が起き大光明が普く世界を照らした。日月の及ばぬ暗闇も大いに明るくなった。幽冥界の衆生はみなそのいる所を見た。この光明は魔宮をも照らした。天たち、帝釈天、梵天、沙門、婆羅門。その他の衆生もみな大きな明るさのおかげをこうむった。天たちの光明では自然には現れない光だ」
 仏は頌を歌った。


密雲聚虚空 電光照天下
(密雲が空に集まり 雷光は天下を照らす)
毗婆尸降胎 光明照亦然
(ビバシ仏は母胎にくだった 光明が照らすのはそれと同じ)
日月所不及 莫不蒙大明
(日月もおよばない 暗い場所を大いに明るくする)
処胎浄無穢 諸仏法皆然
(母胎にやどって浄くして穢れなし 諸仏の法も皆しかり)

「比丘たちよ、まさに知るべし、諸仏の常の法を。ビバシ菩薩は母胎にありし時、念をこらして乱れなかった。四人の天の子が来て、戈矛を持って護った。人と人ならざるものが近づくのをふせぐため。これが常の法である」
 仏は頌を歌った。


四方四天子 有名称威徳
(四方に四人の天の子 おのおの名と威徳あり)
天帝釈所遣 善守護菩薩
(帝釈天がおくりしは 善守護菩薩)
手常執戈矛 衛護不去離
(手にはいつも戈矛を持ち 護衛して離れない)
人非人不嬈 此諸仏常法
(人と人ならざるものを近づけない これが諸仏の常の法)
天神所擁護 如天女衛天
(天神が護る 天女が天を護るように)
眷属懐歓喜 此諸仏常法
(眷属はみな喜ぶ これが諸仏の常の法)

「ビバシ菩薩は兜率天よりくだって母胎にやどり、念をこらして乱れなかった。母の身体は安隠で悩み患いはなかった。知恵は増えて母は自ら胎児を見た。菩薩の身が五体満足で肌は紫磨金色、傷一つない。目ききが青いサファイアを通して見るように、内外のことがすっきり見通せた。比丘たちよ、これが諸仏の常の法である」
 この時、世尊は偈をうたった。

※偈も頌も意味としては同じです。偈は梵語のgāthāの音写で、伽陀(かだ)も音写です。

如浄琉璃珠 其明如日月
(きれいなラピスラズリの玉のように その明るさは日月のよう)
仁尊処母胎 其母無悩患
(仏は母胎にやどり その母には悩み患いがない)
智慧為増益 観胎如金像
(知恵は増して 胎児を金の像のように見る)
母懐妊安楽 此諸仏常法
(母は懐妊して安らかである これが諸仏の常の法)

「ビバシ菩薩は兜率天より母胎にくだり、念をこらして乱れなかった。母の心は清浄で欲望を想わず婬欲の火に焼かれなかった。
これが諸仏の常の法である」
 この時、世尊は偈をうたった。


菩薩住母胎 天終天福成
(菩薩は母胎にいき 天としての生は終って天としての福が完成した)
其母心清浄 無有衆欲想
(その母の心は清浄で もろもろの欲望を想わず)
捨離諸婬欲 不染不親近
(婬欲は捨てて 染まず親しまず)
不為欲火燃 諸仏母常浄
(欲火の燃えることなし これが諸仏の常の法)

「諸仏の常の法によってビバシ菩薩は兜率天より母胎にくだり、念をこらして乱れなかった。その母は五戒を奉持し、梵行して清浄、篤信し仁愛の心あり、諸善なしとげ、安楽にして畏れるものはなかった。命つきて忉利天に生れた。これが常の法である」
 この時、世尊は偈をうたった。

持人中尊身 精進戒具足
(仏を胎に宿した人は 精進して戒をまもる)
後必受天身 此縁名仏母
(後世はかならず天の身 この縁で仏母と名づけられる)

「諸仏の常の法とはこうだ。ビバシ菩薩は生れる時、右脇から出た。地は震動し光明が普く照らした。はじめて入胎した時、そこは暗闇である。
そして明るくならない所はないのだ。これが常の法である」
 この時、世尊は偈をうたった。

太子生地動 大光靡不照
(太子が生れて地が動く 大いなる光が照らさざるところはなし)
此界及余界 上下与諸方
(この世界と他の世界は 上下と四方にあって)
放光施浄目 具足於天身
(放たれた光は浄き目を与え 天の身がそなわった)
以歓喜浄音 転称菩薩名
(歓喜の浄き声のゆえ 菩薩と名がかわった)

「諸仏の常の法とはこういうことだ。ビバシ菩薩は生れたとき右脇から出た。専念して乱れなかった」
 菩薩の母は自ら手で樹の枝につかまり、坐りも臥せもせずにいた。
 四天子が手づから香水を捧げて言った。
『まさにしかり。天母は今、聖なる子を生み、憂いを感じることがない』
 これが常の法である」
 この時、世尊は偈をうたった。


仏母不坐臥 住戒修梵行
(仏母は坐りも臥せもせず 戒にあって梵行をおさめる)
生尊不懈怠 天人所奉侍
(尊き方を生んで懈怠することなし 天人の奉侍するところとなる)

※『長阿含経』。かなり頻繁に釈尊が偈頌(おうた)を差し挟んできます。訳していて、どうしてこういう構成にしたのだろうと頭を抱えてしまいます。
まるでミュージカルです。歌うお釈迦さんです。

「諸仏の常の法はこうだ。ビバシ菩薩が生れた時、右脇より出でて専念して乱れず。その身は清浄。穢悪に染まらず。

目利きが浄明珠を白布の上に投げても、珠と布のどちらにも汚れは起きない。二つとも浄いがゆえに。菩薩の出胎もまたかくのごとし。これが常の法である」
 この時、世尊は偈をうたった。

猶如浄明珠 投繒不染汙
(それはまるで 絹の上に投げられて染まらない 浄明珠のよう)
菩薩出胎時 清浄無染汙
(菩薩が出胎する時 清浄にして汚れはない)

「ビバシ菩薩は生れたとき、右脇より出て専心して乱れず。右脇を出てに地落ち、誰も支えずに七歩歩み、四方を見回し手を挙げて言った。
『天上天下唯我為尊。要度衆生生老病死』と」

(天上天下で私が最も尊い。衆生の生老病死を済度せねばならない)
 世尊は偈をうたった。

猶如師子歩 遍観於四方
(獅子のごとく歩み 四方を見渡す)
堕地行七歩 人師子亦然
(地に落ちて歩むこと七歩 人獅子もまたかくのごとし)
又如大竜行 遍観於四方
(また大竜が行くがごとく 四方を見渡す)
堕地行七歩 人竜亦復然
(地に落ちて歩むこと七歩 人竜もまたかくのごとし)
両足尊生時 安行於七歩
(仏が生れたとき 安らかに歩むこと七歩)
観四方挙声 当尽生死苦
(四方を見て声を上げる 生死の苦を除くぞと)

※人獅子はナラシンハ(ヒンドゥー教の神ヴィシュヌの四番の化身)のことでしょう。
https://sitarama.jp/?mode=f98
人竜はナーガラージャの誰かのことでしょうか。
ともに、出生時の神話があったのでしょう。
私もよくわかりません。

当其初生時 無等等与等
(その生れしとき 等しきものなし)
自観生死本 此身最後辺
(自ずと生死の本質を見 この身を最後にしようとする)

「ビバシ菩薩が生れた時、右脇より出た。専心して乱れず。二つの泉が湧き出た。一つは温く一つは冷たい。そこで澡浴させた。
これが常の法である」
 世尊は偈を語った。

両足尊生時 二泉自涌出
(仏が生れたとき 二つの泉が自ずと湧き出した)
以供菩薩用 遍眼浴清浄
(菩薩に供養するために 見渡す限り清浄な泉、そこにゆあみした)
二泉自涌出 其水甚清浄
(二つの泉が自ずと湧き出した その水はとても清浄)
一温二清冷 以浴一切智
(一つは温く一つは清く冷たい 一切智者をゆあみさせるために)

「太子が生れたとき、父王のバンズは占い師と諸々の道術使いを招集した。太子を見せてその吉凶を知るために。
占い師たちは命によって観、それから衣をかけた。占って言う。
『この相の者には二つの将来があります。疑いありません。
もし在家の者ならば転輪聖王となり、四方の天下の王となって四方の兵をたばね、偏りなく正法で治めます。
恩は天下におよび、七宝は自ずと至ります。千人の子は勇健で、武器を用いずによく外敵を倒します。
天下太平となるでしょう。もし出家学道するなら、まさに正覚者となるでしょう。仏の十号がそなわます』

 世尊は頌を歌った。


百福太子生 相師之所記
(百福そなえた太子が生れた 占い師は記す)
如典記所載 趣二処無疑
(経典に書かれたように 二つの未来を間違いなしと)
若其楽家者 当為転輪王
(もし家を楽しむ者なら 転輪王となるであろう)
七宝難可獲 為王宝自至
(獲がたい七宝は 王の宝となろうと自ら至る)
真金千輻具 周匝金輞持
(真金でできた千輻の車輪のある 金で覆われた車に乗り)
転能飛遍行 故名為天輪
(あちこちに飛行して行く ゆえに天輪と名付けられる)
善調七牙住 高広白如雪
(七本の牙に支えられた住まいは 高く広きこと白雪のこどし)
能善飛虚空 名第二象宝
(よく虚空を飛行するものを 第二の象宝と名づく)
馬行周天下 朝去暮還食
(馬はあまねく天下をめぐり 朝に出ては暮れに食事に帰る)
朱髦孔雀咽 名為第三宝
(朱色のたてがみの孔雀が鳴く 第三の宝と名づく)
清浄琉璃珠 光照一由旬
(清浄なるラピスラズリの珠は 一由旬の距離を照らす)
照夜明如昼 名為第四宝
(夜を昼のごとく照らす 第四の宝と名づく)
色声香味触 無有与等者
(外見、声、香り、味わい、触り心地、等しいものなし)
諸女中第一 名為第五宝
(女たちの中での第一を 第五の宝と名づく)
献王琉璃宝 珠玉及衆珍
(ラピスラズリの宝、珠玉、いろいろな宝物が 王に献じられる )
歓喜而貢奉 名為第六宝
(喜んで貢奉されたものを 第六の宝と名づく)
如転輪王念 軍衆速来去
(転輪王が念ずれば 軍はすみやかに行動する)
健疾如王意 名為第七宝
(健やかで早いこと王意のままに 第七の宝と名づく)
此名為七宝 輪象馬純白
(これらが七宝である 車、象、馬、純白の城、)
居士珠女宝 典兵宝為七
(賢者、美女 兵を司る将軍、これらを七宝と言う)
観此無有厭 五欲自娯楽
(見てもいやなことはなく 欲望はみな満たされて楽しい)
如象断䩭靽 出家成正覚
(象が鞍と手綱を断つように 出家すれば正覚を得る)
王有如是子 二足人中尊
(王はそのような子を得たのだ 人間の中で尊い者を)
処世転法輪 道成無懈怠
(世をわたって法輪を転じ 道成ってなまけることなし)

「この時、父王は慇懃に、再三にわたって占い師にたずねた。
『そなたら、さらによく太子の三十二相を見るのだ。これらはどう名づける』
 占い師たちは太子の衣をとり、三十二相について説明した。

一。足の裏が平らである。平らだから地を踏みしめて安隠である。
二。足の下に輪の模様がある。千輻の輪は光を放ち、光が互いを照らす。
三。手足の指の間に水かきがある。あたかも鵝鳥の王のように。
四。手足が柔軟である。あたかも天の衣のように。
五。手足の指が繊細で長く及ぶ者がいない。
六。足のかかとが大きいが、見ていやではない。
七。鹿の脚のように腕の上下がすらりとしている。
八。鈎のように曲がった鎖骨。骨が鈎のようで連っている。
九。馬陰蔵(男性器が体内に格納されている)。
十。まっすぐ立つと垂らした手が膝より下につく。
十一。各毛穴に一本の毛が生えている。その毛は右旋して紺琉璃色である。
十二。毛は生えると右旋して紺色。上向きになびく。
十三。身体が黄金色。
十四。皮膚がきめ細かく軟かい。塵にも汚れない。
十五。両肩がそろっていてふっくらして丸い。
十六。胸に卍がある。
十七。身長が人の二倍ある。
十八。両手・両足・両肩・うなじの七つの処の肉が平らでふくらんでいる。
十九。身長と幅が同じ。ニャグローダ樹のように。
二十。頬は獅子のよう。
二十一。胸が獅子のように張り出し整っている。
二十二。口の歯は四十本。
二十三。歯は整っていて平ら。
二十四。歯は密にして隙間はない。
二十五。歯は真っ白。
二十六。のどは清浄。何でも食べて好き嫌いがない。
二十七。広く長い舌。左右の耳が舐められる。
二十八。声が清くよくとおる。
二十九。眼は紺青色。
三十。眼は牛王のごとし。まぶたが上下に同時にぱちくりする。
三十一。眉間には白毫があり、柔軟にして細く光沢がある。長く引き延ばすと一尋。手を離すと右旋のまとまりとなり真珠のよう。
三十二。頭のてっぺんには肉髻(肉のふくらみ)がある。
これが三十二相である」
 仏は頌をうたった。


善住柔軟足 不蹈地跡現
(よく柔らかな足で生きる 踏まずしてその足跡は残る)
千輻相荘厳 光色靡不具
(千輻輪の模様に飾られ 光り輝く)
如尼倶類樹 縦広正平等
(ニャグローダ樹のように 縦横は等しく)
如来未曽有 秘密馬陰蔵
(如来には未曽有の秘密、馬陰蔵がある)
金宝荘厳身 衆相互相暎
(金の宝で身を飾り 人々は相照らす)
雖順俗流行 塵土亦不汙
(流行の風俗には従いながらも 塵や土には汚れない)
天色極柔軟 天蓋自然覆
(神の姿は極めてやわらかで 天蓋が自然に覆う)
梵音身紫金 如華始出池
(梵天の声に紫金の体 蓮華がはじめて池から出たよう)
王以問相師 相師敬報王
(王は占い師に問い 占い師は敬って王に報告する)
称讃菩薩相 挙身光明具
(菩薩の相を賞賛する 全身から光明を放ち)
手足諸支節 中外靡不現
(手足のすべては 完備する)
食味尽具足 身正不傾斜
(味に好き嫌いはなく 体は端正にしてゆがみなく)
足下輪相現 其音如哀鸞
(足の裏には千輻輪の模様が現れ その声は天の鳥「迦陵頻伽」のよう)
傭䏶形相具 宿業之所成
(歯の形はととのい 宿業のなせるところ)
臂肘円満好 眉目甚端厳
(腕と肘はまんまるでふっくら 眉目はすばらしく整っている)
人中師子尊 威力最第一
(人の中にあっての獅子尊 威力は第一)
其頬車方整 臥脇如師子
(その頬骨は四角く整い 伏せた脇は獅子のごとし)
歯方整四十 斉密中無間
(歯は四角く整い四十本 みっしりと隙間がない)
梵音未曽有 遠近随縁到
(声は未曽有の美しさ 遠近望むがままに届く)
平立不傾身 二手摩捫膝
(まっすぐ立つと体は傾かず 二本の手は膝にふれる)
手斉整柔軟 人尊美相具
(手は整って柔らかく 尊き人は美しい相をそなえる)
一孔一毛生 手足網縵相
(毛穴にはそれぞれ一本の毛 手足には水かきあり)
肉髻目紺青 眼上下倶眴
(肉髻あって目は紺青 眼は上下にぱちくり)
両肩円充満 三十二相具
(両肩はまんまるで 三十二相がそなわっている)
足跟無高下 鹿膊腸繊𦟛
(足底はかかとと平たくつながり 腕はすらりと鹿のよう)
天中天来此 如象絶䩭靽
(天中の天がここに来た 象が鞍の綱を断つように)
解脱衆生苦 処生老病死
(衆生を生老病死の苦から 解脱させ)
以慈悲心故 為説四真諦
(慈悲心のゆえに 四真諦を説く)
開演法句義 令衆奉至尊
(法句の義を説き みなに至尊を奉じさせる)

※「仏の三十二相」と言いますが、赤ちゃんの時の姿なのですね。そりゃ手が膝に届くはずですよ。身広長等になりますよ。
今回、『長阿含経』を訳していて初めて気づきました。

 仏は比丘に告げた。「ビバシ菩薩が生れた時、天たちは上の虚空にいた。手には白い天蓋と宝扇を持ち、寒暑・風雨・塵土をさえぎった」
 仏は頌を歌った。(※以下、地の文に頌が二句ずつ挟まるのですが、入り交じりで翻訳します)


 人の中で未曽有の者が仏として生れた。
天たちは敬い供養しようと思い、宝蓋・宝扇をたてまつった。
 父王は四人の乳母をつけた。一人は乳を与え、一人は入浴、一人は塗香、一人は娯楽。
慈愛を持って喜んで養育し怠けることはなかった。
世間の最も妙なる香を仏に塗った。
 童子の時には国中の男女が嫌わずにじっと見て満足した。
多くの人に敬愛された。金の像ができたかのように。
国中の男女がともにいつくしんだ。
あたかも宝花の香りにあったかのように。
 菩薩が生れた時、その目は忉利天でのようにまばたきしなかった。
何かを正しく見るために。
それゆえにビバシと名づけられた。
菩薩が生れた時、その声は清く透き通り軟らかく雅びであった。
花の蜜を吸って鳴く雪山鳥(迦羅頻伽鳥)のように。
菩薩が生れた時、眼は一由旬を見渡せた。
清浄業行の報いによって天の妙なる光明を受けて。
 菩薩は成長し、幼くして正堂にあり、道をもって天下を教化した。
民の諸事を決裁した。それゆえビバシと号した。
恩は庶民におよび、名と徳は遠くまで聞こえた。
清浄なる智は広博にして、深きこと大海のごとく、民を喜ばせて智慧を増さしめた。
 ある時、菩薩は出遊して世間を観ようとし、御者に命じて宝車を出させ、園林を巡行・遊観した。
その途中で一人の老人を見た。頭は白く歯は抜け落ち、顔はしわだらけで体は曲がっていた。
杖をつきよたよたと息もたえだえで歩いていた。
 太子は侍者にたずねた。「彼は何者か」「老人です」「老いとはいかなるものか」
「老いは生けるものの寿命が尽きていくことです。余命幾ばくもないでしょう。これを老いと言うのです」
「自分もまたそうなるのか。この患いを逃れられないのか」「はい。生きれば必ず老います。富豪も賎しい者も関係なく」
 太子は落ち込み、楽しくなくなった。侍者に告げて車を宮殿に引き返させた。そして静かに思いをめぐらせた。
〈老苦は私にも当然あるのだ〉
 父王は太子の侍者にたずねた。「太子は出遊して楽しんだのか」「いいえ」「なぜだ」「道で老人にあい、楽しくなかったのです」
 父王は思った。
〈昔、占い師が相を占って太子が出家するだろうと言った。今、楽しまず不満そうだ。宮殿の奥深くにおらせて、五欲の楽しみをもってその心を楽しませ、出家しないようにしよう〉
 そこで宮館を飾り立て、采女を選抜して楽しませた。
 その後、太子はまた御者に命じて出遊した。その途中、一人の病人と会った。
体は痩せ、腹はつきだし、顔はどす黒かった。一人糞の山に寝て、誰もが見ようとしなかった。病ははなはだ重く、苦しくてしゃべることも出来なかった。
太子は御者にたずねた。「これは何者か」「病人です」「病とはいかなるものか」「病人はいろいろな痛みにさいなまれ、いつ亡くなるかわからないのです。これを病と言います」「自分もまたそうなるのか。この患いを逃れられないのか」「はい。生きれば貴賎かかわりなく必ず病になります」
 太子は落ち込み、楽しくなくなった。侍者に告げて車を宮殿に引き返させた。そして静かに思いをめぐらせた。
〈病苦は私にも当然あるのだ〉
 父王はまた太子の侍者にたずねた。「太子は出遊して楽しんだのか」「いいえ」「なぜだ」「道で病人にあい、楽しくなかったのです」
 父王は思った。
〈昔、占い師が相を占って太子が出家するだろうと言った。今、楽しまず不満そうだ。伎楽の者を増やしてその心を楽しませ、出家しないようにしよう〉
 そこで宮館を飾り立て、采女を選抜して楽しませた。
 色声香味触の五感は妙にして楽しく、菩薩の福がもたらしたものだ。だから娯楽の中にいられたのだ。
 また別の時、太子は御者に命じて出遊した。その道で一人の死人に出会った。さまざまな色の幡を前後に建てて葬列が進む。親族や同郷の者が悲しみ号泣する。これを送り出して城の外に出るのだ。
 太子はまたたずねた。「これは何者か」「死人です」「死とはいかなるものか」「命が尽きたのです。風が先んじ火が続き、諸根が壊れるのです。
亡んでのちはことなる趣(※世界、六道)に転生し、家とは離別するのです。これを死と言います」「自分もまたそうなるのか。この患いを逃れられないのか」
「はい。貴賎を問わず、生きれば必ず死があります」
 太子は落ち込み、楽しくなくなった。侍者に告げて車を宮殿に引き返させた。そして静かに思いをめぐらせた。
〈死苦は私にも当然あるのだ。死んだらよみがえることはないのだ〉
 父王はまた太子の侍者にたずねた。「太子は出遊して楽しんだのか」「いいえ」「なぜだ」「道で死人にあい、楽しくなかったのです」
 父王は思った。
〈昔、占い師が相を占って太子が出家するだろうと言った。今、楽しまず不満そうだ。伎楽の者を増やしてその心を楽しませ、出家しないようにしよう〉
 そこで宮館を飾り立て、采女を選抜して楽しませた。
 太子は采女に囲まれて、あたかも帝釈天のように五欲を楽しんだ。
 また別の時、太子は御者に命じて出遊した。その途中で一人の沙門と出会った。法服を着、鉢を持ち、地を見て歩んでいる。
 太子はまた御者にたずねた。「彼は何者か」「沙門です」「沙門とはいかなるものか」「恩愛を捨て、出家・修道する者です。諸根を制禦し、外の欲に染まりません。慈心をもって一切の者を傷つけません。苦にあってうれえず、楽にあって喜びません。地のようによく忍耐します。これを沙門と言います」
 太子は言った。「よきかな。この道こそが真に正しく永遠に俗世間のわずらわしさを断つのだ。微妙にして清虚、ただこれのみが楽しいことだ」
 そこで、御者に車を戻させ、沙門の横につけた。
 太子は沙門にたずねた。「鬚と髪を剃り、法服を着て鉢を持つ。求めているものは何か」
沙門「出家者というものは、心を調伏し永遠に心の塵垢を離れようとするものです。衆生を慈しみ育てて悩みに侵されないようにしたいのです。虚心にして寂静、ただ道というのはこれを務めることです」
太子「よきかな。この道は最もまことだ」
 そこで御者に命じ、宝衣と乗り物を引き返させ、大王に伝えさせた。
「私はここで鬚と髪を剃り、三法衣を着て出家・修道いたします。なぜかと言うと、心を制禦し心の塵垢を捨てたいからです。清浄なところに住み、道術を求めたいのです」
 そこで御者は、太子が沙門となった後に宝車と衣服を父王のいる宮殿に戻した。

 仏は比丘たちに告げた。「太子は老病の人を見て世の苦悩を知った。また死人を見て世を恋いる情がなくなった。沙門を見て廓然として大悟した。宝車を降りて歩み、歩くうちに煩悩の執着が薄れていった。
これが真の出家である。真の遠離である」

 さて、その国の人は太子が出家・修道に入ったと聞き言いあった。
「この道は必ずやまことにちがいない。だから太子は国の栄えある位を捨てたのだ」
 この時、国中の八万四千人が太子のところに行き、弟子となり、出家・修道したいと言った。

 仏は頌を歌った。

撰択深妙法 彼聞随出家
(深妙なる法をえらび それを聞いて出家した)
離於恩愛獄 無有衆結縛
(恩愛という牢獄をはなれ もろもろの煩悩をなくした)

 太子はすぐに弟子たちを受け入れた。彼らと共に遊行して教化した。
村から村へ、国からら国へ。行くところどこでもうやうやしく敬われ、四事(衣服・飲食・臥具・湯薬)の供養を受けた。
 菩薩は思った。〈私と弟子たちは諸国の人々の間を遊行している。煩悩のざわめきがあるのは私のよしとする所ではない。
 いつかはこの群衆と別れ、閑静なところで真理を求道し願いをかなえよう。閑静なところで修道に専心しよう〉
 またこうも思った。〈衆生は哀れまなくてはならない。いつも闇冥にいて身は危険にさらされている。生あれば老あり病あり死がある。いろんな苦が集まる。死はこの生につきまとうのだ。その縁で苦しみの肉体に流転してきりがない。私はいつ、苦しい肉体にあって生老死を滅する方法をを明らかにできるのだろう〉
 そこで思索した。生と死はどこから来るのかと。そして智慧をもってその由来を観察した。

※いよいよ十二縁起の解説に入ります。

生があるから老死があるのだ。生は老死の縁(条件)である。
生は存在する(有)から起きる。存在は生の縁である。
存在はどこから起きるのか。取(執着)が存在の縁である。
執着は愛から起きる。愛は執着の縁である。
愛は感受(取)から起きる。感受は愛の縁である。
感受は接触(触)から起きる。接触は感受の縁である。
接触は六つの感覚(六入)から起きる。六つの感覚は接触の縁である。
六つの感覚は名と実体から起きる。名と実体は六つの感覚の縁である。
名と実体は認識(識)から起きる。認識は名と実体の縁である。
認識は経験(行)から起きる。経験は認識の縁である。
経験はおろかさ(痴)から起きる。おろかさは経験の縁である。
こうしておろかさから経験が、経験から認識が、認識から名と実体が、名と実体から六つの感覚が、六つの感覚から接触が、接触から感受が、感受から愛が、愛から執着が、執着から存在が、存在から生が、生から老病死の憂悲苦悩がうまれる。
この苦は、肉体という縁によって生れたことだ。これを苦の集まりとする。

 菩薩の思惟が苦の集まりが肉体であるということに及んだ時、智、眼、覚、明、通、慧、証が生じた。
 菩薩はまた思惟した。
〈何が無ければ老死も無いのか。何を滅すれば老死も滅するのか〉
 そこで智慧をもってその由来を観察した。
生無くば老死も無い。生を滅すれば老死も滅する。有無くば生も無い。有を滅すれば生も滅する。
取無くば有も無い。取を滅すれば有も滅する。愛無くば取も無い。愛を滅すれば取も滅する。
受無くば愛も無い。受を滅すれば愛も滅する。触無くば受も無い。触を滅すれば受も滅する。
六入無くば触も無い。六入を滅すれば触も滅する。名色無くば六入も無い。
名色を滅すれば六入も滅す。識無くば名色も無い。識を滅すれば名色も滅する。
行無くば識も無い。行を滅すれば識も滅する。痴無くば行も無い。痴を滅すれば行も滅する。
すなわち、痴滅して行滅し、行滅して識滅し、識滅して名色滅し、名色滅して六入滅し、六入滅して触滅し、触滅して受滅し、受滅して愛滅し、愛滅して取滅し、取滅して有滅し、有滅して生滅し、生滅して老死・憂悲・苦悩滅す。
 菩薩が苦しみの滅びを思索した時、智、眼、覚、明、通、慧、証が生じた。
 菩薩は十二因縁の逆順観を如実に知った。如実に見おえて、座りながら阿耨多羅三藐三菩提(最勝無上の悟り)の人となった。

 仏は頌を歌った。

此言衆中説 汝等当善聴
(このことは皆が言っている そなたらもよく聴くのだ)
過去菩薩観 本所未聞法
(過去の菩薩は見た 本質的で未聞の法を)
老死従何縁 因何等而有
(老死は何の縁によるのか どのような因によってあるのか)
如是正観已 知其本由生
(かくのごとく正しく見れば その根本が生に由来すると知る)
生本由何縁 因何事而有
(生はもともと何の縁によるのか どのような因によってあるのか)
如是思惟已 知生従有起
(かくのごとく思惟すれば 生が有より起きると知る)
取彼取彼已 展転更増有
(あれもあれもと取っていけば 有はつぎつぎと増えていく)
是故如来説 取是有因縁
(それゆえ如来は説いた 取は有の因縁だと)
如衆穢悪聚 風吹悪流演
(もろもろの穢れと悪が集まるように 風が吹けば悪い流れが集まるように)
如是取相因 因愛而広普
(かくのごとく取を因とし 愛を因として広まるのだと)
愛由於受生 起苦羅網本
(生を受けることで愛がうまれ 苦の網のもとができる)
以染著因縁 苦楽共相応
(因縁に染みつくことで 苦楽はともに応じていく)
受本由何縁 因何而有受
(受の本は何の縁によるのか 何によって受があるのか)
以是思惟已 知受由触生
(これを思索して 受が触より生じると知った)
触本由何縁 因何而有触
(触の本は何の縁によるのか 何によって触があるのか)
如是思惟已 触由六入生
(これを思索して 触が六入より生じるとわかった)
六入本何縁 因何有六入
(六入の本は何の縁によるのか 何によって六入があるのか)
如是思惟已 六入名色生
(これを思索して 六入が名色より生じるとわかった)
名色本何縁 因何有名色
(名色は何の縁によるのか 何によって名色があるのか)
如是思惟已 名色従識生
(これを思索して 名色は識より生じるとわかった)
識本由何縁 因何而有識
(識の本は何の縁によるのか 何によって識があるのか)
如是思惟已 知識従行生
(これを思索して 識が行によって生じるとわかった)
行本由何縁 因何而有行
(行の本は何の縁によるのか 何によって行があるのか)
如是思惟已 知行従痴生
(これを思索して 行が痴より生じると知った)
如是因縁者 名為実義因
(このような因縁は 名を実体ととるのが原因である)
智慧方便観 能見因縁根
(知恵の手立てで見ると よく因縁の根源が見える)
苦非賢聖造 亦非無縁有
(苦は賢聖が造ったものでもなく 縁なくしてあるものでもない)
是故変易苦 智者所断除
(それゆえ苦を変化させ 智者はとりのぞく)
若無明滅尽 是時則無行
(もし無明を滅尽すれば 行はなく)
若無有行者 則亦無有識
(行なくなれば 識もない)
若識永滅者 亦無有名色
(識をとわに滅すれば 名色もなし)
名色既已滅 即無有諸入
(名色すでに滅して 諸入なし)
若諸入永滅 則亦無有触
(諸入をとわに滅すれば 触もなし)
若触永滅者 則亦無有受
(触をとわに滅すれば 受もなし)
若受永滅者 則亦無有愛
(受をとわに滅すれば 愛もなし)
若愛永滅者 則亦無有取
(愛をとわに滅すれば 取もなし)
若取永滅者 則亦無有有
(取をとわに滅すれば 有もなし)
若有永滅者 則亦無有生
(有をとわに滅すれば 生もなし)
若生永滅者 無老病苦陰
(生をとわに滅すれば 老病に苦しむ体もなし)
一切都永尽 智者之所説
(一切はとわに尽きる 智者の説くとこによれば)
十二縁甚深 難見難識知
(十二縁は甚だ深く わかりづらいものである)
唯仏能善覚 因是有是無
(ただ仏のみがよくさとり これによって無となる)
若能自観察 則無有諸入
(もしよくみずから観察すれば 諸入はなし)
深見因縁者 更不外求師
(因縁を深く見る者は 外の師は求めず)
能於陰界入 離欲無染者
(よく肉体を観察し 欲を離れて煩悩に染まらぬ者なり)
堪受一切施 浄報施者恩
(精進して一切を施し 施す者の恩には浄い報いがある)
若得四弁才 獲得決定証
(もし四無礙智の才を得られれば 確証を得る)

※四無礙智を理解表現能力としてとらえたものが四弁才。

四無礙智……教えに精通している法無礙智、教えの表す意味内容に精通している義無礙智、いろいろの表現に精通している辞無礙智、以上の三種をもって自在に説く楽説無礙智。

能解衆結縛 断除無放逸
(よくもろもろの煩悩を理解し 取り除いて放逸にならず)
色受想行識 猶如朽故車
(色受想行識もまた 朽ちた車のように滅びる)
能諦観此法 則成等正覚
(よくこの法を観察すれば 仏となれるのだ)
如鳥遊虚空 東西随風遊
(鳥が虚空に遊ぶがごとく 東西を風とともに遊ぶ)
菩薩断衆結 如風靡軽衣
(菩薩はもろもろの煩悩を断ち 風のように軽い衣をなびかせる)
毗婆尸閑静 観察於諸法
(ビバシは静かに 諸法を観察した)
老死何縁有 従何而得滅
(老死が何の縁によってあるのか どうすれば滅せるのか)
彼作是観已 生清浄智慧
(彼はこの観察をなして 清浄なる智慧がうまれた)
知老死由生 生滅老死滅
(老死が生によると知り 生を滅すれば老死も滅すと)

 ビバシ仏が初めて成道した時、多く二観を修した。安隠観と出離観である。
 仏は頌を歌った。


如来無等等 多修於二観
(如来に等しいものなし 多くの二観を修するにおいて)
安隠及出離 仙人度彼岸
(安隠と出離で 仙人は彼岸に渡った)
其心得自在 断除衆結使
(その心は自在で もろもろの煩悩を断った)
登山観四方 故号毘婆尸
(登山して四方を見た ゆえにビバシと)
大智光除冥 如以鏡自照
(大智光は闇を除く 鏡が自らを照らすように)
為世除憂悩 尽生老死苦
(世のために憂悩を取り除いた 生を捨てて老死の苦を)

ビバシ仏は閑静なところでこう思った。
〈私は今、すでにこの無上の法を得た。甚深微妙にして難解難見な法を。煩悩を滅し清浄智にある者が知る、凡愚の知り得ない法である。
これは衆生の、忍、見、受、学とは違うものである。異なる見解によって各々が楽しむ所、求めて務め習う所とは。
それゆえこの甚深なる因縁は理解できないのだ。そして、尽き果て涅槃を愛することはさらに知り難くなる。私が他人のために説いたとして、必ず理解できないばかりか争いになるだろう〉
 そう思ったとき、黙って二度と説法はしないことにした。

 時に、梵天王はビバシ如来の思いを知り、思った。
〈この世間は腐っている。とても哀れむべきだ。ビバシ仏はこの深妙なる法を知った。だが説こうとしない〉
 そこで力士が肘をのばすほどの間で、梵天宮から下り、仏の前に立って頭を足につけて礼をし、隅にさがってすわった。
 梵天王は右膝を地につけ、叉手して合掌し仏に言った。
「願わくば世尊、説法の時でございます。今、衆生は塵垢にくもり知恵は薄く、感覚のみをむさぼっております。彼らに恭敬の心あれば教化はたやすいでしょう。後世に救いのない罪をおそれ、よく悪法を滅し、来世はよい世界に生れるでしょう」
 仏は梵天王に告げた。
「そうである、そうである。そなたの言うことはまことにしかり。ただ、私は閑静なところで黙って思索したいのだ。得た正法はまことに深く微妙である。もし人に説くのなら、無理解なまま争いとなってはいけない。だから私は、黙ったままで説法をしたいとは思わなかったのだ。
私は無数の阿僧祇劫にわたって苦行し、なまけずに無上の行を修めてきた。
今、はじめてこの得がたい法を得た。もし、婬・怒・痴にある衆生にとけば、絶対に受け入れられず、ただ徒労に疲れるだけだろう。
この法は微妙で世の相に反する。衆生は欲に染まり、愚かさに覆われている。信解できないたのだ。
梵天王よ。私はこのように見たから、黙ったまま説法したくなかったのだ」
 梵天王は重ねてお願いした。再三にわたって丁寧に懇願した。
「世尊、もし法を説かねばこの世間は腐ったまま、はなはだ哀れむべきです。願わくば世尊、法をひろく説いて衆生を他の世界に落ちないようになしたまえ」
 この時、世尊は梵天王の丁寧なおねがいを三度聞き、仏眼をもって世界の衆生の心の垢に厚いものと薄いものがあるのを見た。利根の者、鈍根の者がいる。教えるにも難易がある。教えを受け入れやすい者は後世の罪をおそれ、悪いことをせず、善い世界にうまれかわる。たとえるなら、青蓮華、紅蓮華、黄蓮華、白蓮華で、あるものは汚泥の中にあって水面に達しなかったり、あるものは水面から出ていたり、あるものは水から出てもいまだ花開いていないようなものである。しかるに皆、水のないところでは花開くことは出来ない。世界の衆生もまた同じことだ。

 世尊は梵天王に言った。
「私はそなたらを哀れんで、今、甘露の法門を広く説こう。この法は深妙にして難解である。今、信じて聴くことを楽しむ者のために説こう。
不和をおこし無益な者のために説くのではない」
 梵天王は仏が願いを聞き届けたと知り、歓喜踊躍した。仏の周りを三回まわり、頭を足につけて礼をし、しばらくして忽然として消えた。
 如来は静かに沈黙して思った。
〈まず誰に法を説こう。そうだ、槃頭城の中に入って、まず王子の提舎と大臣の子の騫茶のために甘露の法門を開こう
 そこで力士がひじを縮め伸ばすほどの間に、道の樹のもとから槃頭城の槃頭王の鹿野苑へとうつつった。座具をしき坐り、頌をうたった。

如師子在林 自恣而遊行
(獅子は林にいるとき 思いのままに遊行する)
彼仏亦如是 遊行無罣礙
(かの仏もまた同じ 遊行するのに障害はない)

 ビバシ仏は苑の守り人に言った。
「城市に入って王子の提舎と大臣の子の騫茶に言うのだ。ビバシ仏が今、鹿野苑にいて卿らに会いたいと言っていると。今すぐに来なさい、と」
 苑の守り人は二人の所に行きそのように伝えた。二人はすぐに仏の所に来て、頭を足につけて礼をし、端にすわった。
 仏はしばし説法した。施論、戒論、生天之論について。悪と不浄をのぞみ煩悩のままにあることは患いとなること。出離を讃歎し、最もすばらしいこととして、清浄第一とすること。
 世尊は二人の心が柔軟になり、信楽を楽しみ、正法を受けるにたえられると見てとった。
 そこで苦聖諦を説いた。わかりやすくかみ砕いて説いた。苦集聖諦、苦滅聖諦、苦出要諦について分析して説いた。
 王子提舎と大臣の子騫茶は、座にあって心の垢を離れ、法眼の浄きを得た。それは素質があって受け入れやすかったからである。
 この時、地神は唱った。

毗婆尸如来於槃頭城
(ビバシ如来が槃頭城の)
鹿野苑中転無上法輪
(鹿野苑で無上の法輪を転じた)
沙門婆羅門諸天魔梵
(沙門、婆羅門、諸天、魔、梵天)
及余世人所不能転
(そして世の他の人には転ぜぬものを)
如是展転声徹四天王
(法輪を転じる声は四天王にとどき)
乃至他化自在天
(あるいは他化自在天にまでとどいた)
須臾之頃声至梵天
(一瞬にして声は梵天に届いた)

 ビバシ仏は頌をうたった。

歓喜心踊躍 称讃於如来
(歓喜の心は踊り 如来を賞賛する)
毘婆尸成仏 転無上法輪
(ビバシは成仏し 無上の法輪を転ず)
初従樹王起 往詣槃頭城
(はじめて樹の王のもとをたち 槃頭城と向かう)
為騫茶提舎 転四諦法輪
(騫茶と提舎のために 四諦の法輪を転ず)
時騫茶提舎 受仏教化已
(騫茶と提舎は 仏の教化を受けて)
於浄法輪中 梵行無有上
(浄法輪の中で このうえない修行をする)
彼忉利天衆 及以天帝釈
(忉利天のひとびとと 帝釈天は)
歓喜転相告 諸天無不聞
(歓喜してあい告げる 天で聞かない者はない)
仏出於世間 転無上法輪
(仏は世間に出て 無上の法輪を転ず)
増益諸天衆 減損阿須倫
(天たちの力を強め 阿修羅たちを弱める)
昇仙名普聞 善智離世辺
(昇仙してその名は普く聞こえる 善き智によって世間を離れたと)
於諸法自在 智慧転法輪
(諸法に自在で 智慧によって法輪を転ず)
観衆平等法 息心無垢穢
(衆生を観るに平等 心をやすめてけがれなし)
以離生死扼 智慧転法輪
(生死のくびきを離れ 智慧によって法輪を転ず)
苦滅離諸悪 出欲得自在
(苦滅して諸悪を離れ 欲をはなれて自在を得る)
離於恩愛獄 智慧転法輪
(恩愛の獄を離れ 智慧によって法輪を転ず)
正覚人中尊 二足尊調御
(正覚を得た人の中でも最も尊い 仏は調御をなしとげた)
一切縛得解 智慧転法輪
(一切の束縛を解き 智慧によって法輪を転ず)
教化善導師 能降伏魔怨
(教化し善く導く師であり 魔怨をよく降伏する)
彼離於諸悪 智慧転法輪
(諸悪を離れた者にして 智慧によって法輪を転ず)
無漏力降魔 諸根定不懈
(煩悩の無いことによる力で魔をくだし 感覚はさだまって怠ることなし)
尽漏離魔縛 智慧転法輪
(煩悩つきて魔の縛を離れ 智慧によって法輪を転ず)
若学決定法 知諸法無我
(もし最終の法を学べば どの物事も我ではないと知る)
此為法中上 智慧転法輪
(これ法の中でも最上のこと 智慧によって法輪を転ず)
不以利養故 亦不求名誉
(利養のためでなく 名誉も求めず)
愍彼衆生故 智慧転法輪
(衆生を哀れんだゆえに 智慧によって法輪を転ず)
見衆生苦厄 老病死逼迫
(老病死が逼迫する 衆生の苦厄を見て)
為此三悪趣 智慧転法輪
(この三悪趣のために 智慧によって法輪を転ず)
断貪瞋恚痴 抜愛之根原
(貪瞋痴を断ち 愛の根源を抜く)
不動而解脱 智慧転法輪
(動かずして解脱し 智慧によって法輪を転ず)
難勝我已勝 勝已自降伏
(勝ちがたい我に勝ち 勝って自らを降す)
已勝難勝魔 智慧転法輪
(勝ちがたい魔に勝ち 智慧によって法輪を転ず)
此無上法輪 唯仏乃能転
(これ無上の法輪 ただ仏のみが転じられる)
諸天魔釈梵 無有能転者
(天・魔・帝釈天・梵天 誰も転ずることが出来ない)
親近転法輪 饒益天人衆
(転法輪に親しんだ 天人衆に利益をめぐらす)
此等天人師 得度于彼岸
(これら天人の師 彼岸に渡れる者)

 この時、王子提舎と大臣の子騫茶は、法を見て真実の結果を得た。
 疑いなく無畏を成就した。そこでビバシ仏に言った。
「我等は如来の法の中で、浄修梵行を得たいと思ます」
 仏は言った。
「よく来た比丘よ。わが法は清浄にして自在、修行によって苦を尽きさせるのだ」
 この時、二人は具戒を得た。具戒から久しからずして、如来は三つの事を示した。
一つめは神足通。二つめは観他心。三つめは教誡である。
 そこで煩悩つき、心は生死を解脱し、疑うことなき智を得た。
 その時、槃頭城の多くの人々は、二人が出家・学道し法服に鉢を持って梵行を修めると聞き、皆たがいに言った。
「その道は必ずやまことであろう。世の栄位を捨て、重んじられる所を破棄させたのだから」
 城内の八万四千の人は鹿野苑のビバシ仏のところにもうでた。
 頭を足につけて礼をし、すみにさがった。
 仏はゆっくりと説法をし、利益と喜びを示した。施論・戒論・生天の論である。
 悪を欲する者は不浄であり、煩悩を患いとする。出離を讃歎し、最も妙なる清浄第一とした。
 世尊は大衆の心が柔軟になり、歓喜し、正法を信楽し、正法を受けとめられると見て取った。そこで、苦聖諦について説きはじめた。
苦集聖諦、苦滅聖諦、苦出要諦をかみくだいて説明した。
 八万四千の人は、座ったままこころの塵と垢を離れ、法眼の浄きを得た。それは素質あるものが易々と物を見るようであった。
法を知ったものは真実のいつわりなき結果を得、無畏の心を達成した。
 そこで仏に言った。
「我等は如来の法の中の梵行を浄修することを求めます」
 仏は言った。
「善く来た、比丘よ。吾が法は清浄自在にして修行によって苦を尽きさせる」
 八万四千の人はすぐに具戒を得た。具戒から遠からずして、世尊は三事をもって教化した。一つは神足通、二つは観他心、三つは教誡である。そこで煩悩なき心を得、生死を解脱し、疑いなき智を得た。
 その場の八万四千人が、鹿野苑で仏が無上の法輪を転ずるのを聞いたのである。沙門、バラモン、天たち、魔、梵天、他の人には転じられない法輪を。
 そこでビバシ仏の所に行き、頭を足につけて礼をしてひかえた。
 仏は頌をうたった。

如人救頭燃 速疾求滅処
(燃える頭を救うように 急いで寂滅するところを探す)
彼人亦如是 速詣於如来
(その人はまた 急いで如来をもうでるのだ)

 仏はまた説法を同じようにした。
 この時、槃頭城には十六万八千人の大比丘衆がいた。提舎比丘と騫茶比丘は彼らの中で虚空に上昇し、体から水や火を出して神変をあらわした。そして大衆のためにすばらしい法を説いた。
 如来は心の中で思った。
〈この城市の内には十六万八千人の大比丘衆がいて遊行している。二人組であちこちにいるのだ。六年たったら城市に戻らせて、具足戒を説かねばなるまい〉
 この時、首陀会天(色界の第四禅天の神)が如来の心を知って、力士が肘を屈伸するほどの短い間にやってきた。
 世尊の前で頭を足につけて礼をし、引き下がって言った。
「世尊、この槃頭城に比丘は多く、みなあちこちで遊行しています。六年たつとこの城に戻らせて具足戒を説かれるとのこと、私がその間彼らをまもって便宜をはかりましょう」
 如来はこれを聞いて黙ることでこれを許可した。
 首陀会天は許可されたのを見て取り、仏の足に礼をして忽然として天上に還った。
 久しからずして仏は比丘たちに告げた。
「今、この城市のうちに比丘は多い。みなあちこちで遊行している。六年たったら還ってきて集まるのだ。戒について説こう」
 この時、比丘たちは仏の教えを受けて、衣と鉢を持って仏に礼をし去った。
 仏は頌をうたった。

仏悉無乱衆 無欲無恋著
(仏のもとには乱れた比丘はいない みな無欲にして恋著しない)
威如金翅鳥 如鶴捨空池
(威風は金翅鳥のごとく 鶴が池を捨てるようにとびたつ)

 首陀会天は一年後、比丘たちに告げた。
「遊行をして一年がたち、残りは五年である。六年がたったら城市に還って説戒をきくのだ」
 六年がたち、天は再び言った。
「六年がたった。説戒を聞こう」
 比丘たちはそれを聞くと、衣と鉢を持って槃頭城の鹿野苑にいるビバシ仏のところに還った。
 頭を足につけて礼をし、控えてすわった。
 仏は頌を歌った。

如象善調 随意所之
(よく調教された象のように 心にしたがってここにいる)
大衆如是 随教而還
(比丘たちもこのようにして 教えの通りに還ってきた)

 如来は比丘たちの前で虚空に昇ると結加趺坐をして戒経について講じた。
「忍辱を第一とせよ。涅槃にとって最もよくないことは、鬚髪を取り除いて他人を害しつつ沙門となることである
 時に首陀会天は仏の近くで偈頌を唱えた。

如来大智 微妙独尊
(如来の大いなる智慧は 妙にして独り尊い)
止観具足 成最正覚
(止観たりて 仏となった)
愍群生故 在世成道
(衆生をあわれむことで 世にあって仏となった)
以四真諦 為声聞説
(四真諦をもって 直弟子たちに説いた)
苦与苦因 滅苦之諦
(苦と苦の因と 滅苦の諦を)
賢聖八道 到安隠処
(賢聖の八正道によって 安隠に至れるのだ)
毘婆尸仏 出現于世
(ビバシ仏が 世に出でて)
在大衆中 如日光曜
(比丘たちの間で 太陽のように輝く)

 この偈を説くと、忽然として消えた。

 釈迦牟尼世尊は比丘たちに告げた。
「昔、ラージャグリハの耆闍崛山にいたとき、このように思った。
〈私の生れたところはどこであろうとよい。ただ、首陀会天に生れたならここには戻ってはこれぬ〉
 私はその時、比丘であり、第十八無造天に行こうとしていた。私は壮士が肘を曲げ伸ばしするほどの短い間でかの天に現れた。
 天たちは私の到着を見て頭を地につけて礼拝し、一面に立った。そして言った。
『我等は皆、ビバシ如来の弟子です。ビバシ仏の教化があったからここに生れたのです』
 そして詳しくビバシ仏の因縁と本末について語ってくれた。また、シキ仏、ビシャバ仏、クルソン仏、クナゴン仏、カショウ仏、釈迦牟尼仏についても。
 彼は我が師である。彼らの教化を受けたからここに生れてきたのだ。そして諸仏の因縁本末について説くのだ。
 阿迦尼吒(Akaniṣṭha/色究竟)等の諸天に生れたときもそうであった。

 仏は頌をうたった。

譬如力士 屈伸臂頃
(力士が肘を屈伸するほどの時間で)
我以神足 至無造天
(私は神足通をもって 無造天に至る)
第七大仙 降伏二魔
(第七の大仙である私は 二魔を降伏する)
無熱無見 叉手敬礼
(熱いまなざしで 叉手して敬い礼をなす)
如昼度樹 釈師遠聞
(昼に樹下に行って 師の言葉を遠くから聞くように)
相好具足 到善見天
(顔相満ち足りて 善見天に達す)
猶如蓮華 水所不著
(蓮華に 水が着かないように)
世尊無染 至大善見
(世尊は何者にも染まらず 大善見天にいたる)
如日初出 浄無塵翳
(日の出のときに 浄くして塵埃がつかないように)
明若秋月 詣一究竟
(明らかなること秋月のごとく 色界最上位の究竟天にいたる)
此五居処 衆生所浄
(無造天から究竟天の五つのところは 衆生が浄きとする所)
心浄故来 詣無煩悩
(心が清浄なゆえに もうでて煩悩はない)
浄心而来 為仏弟子
(心が浄くなって来て 仏弟子となる)
捨離染取 楽於無取
(煩悩に染まることから離れ 何も入ってこないことを楽しむ)
見法決定 毘婆尸子
(法を見て心定まれば それはビバシの弟子)
浄心善来 詣大仙人
(心浄くなって 大仙人ビバシにもうでる)
尸棄仏子 無垢無為
(シキ仏の弟子は 無垢にして無為)
以浄心来 詣離有尊
(浄心もってやって来て 離れてシキ仏尊にもうでる)
毘沙婆子 諸根具足
(ビシャバの弟子は 感覚器官を研ぎ澄ましたまま)
浄心詣我 如日照空
(浄心もって私をもうでる 日が空を照らしているようだと)
拘楼孫子 捨離諸欲
(クルソンの弟子は 諸欲を捨て)
浄心詣我 妙光焔盛
(浄心にして私をもうでる 妙なる光は盛んに燃えさかる)
拘那含子 無垢無為
(クナゴンの弟子は 無垢にして無為)
浄心詣我 光如月満
(浄心にして私をもうでる 光は満月のよう)
迦葉弟子 諸根具足
(カショウの弟子は 感覚器官を完全にして)
浄心詣我 不乱大仙
(浄心にして私をもうでる カショウ大仙の心を乱さずして)
神足第一 以堅固心
(神足通第一にして それは堅固な心のおかげ)
為仏弟子 浄心而来
(仏弟子となり 浄心にして来たる)
為仏弟子 礼敬如来
(仏弟子となり 如来を礼をもって敬う)
具啓人尊 所生成道
(つぶさに述べる人の中の尊き者が 生れと成道を)
名姓種族 知見深法
(名を姓を種族を 深き法を知る)
成無上道 比丘静処
(無上道をなしとげ 比丘は静処にいる)
離于塵垢 精勤不懈
(心の塵垢を離れ 精勤して怠けず)
断諸有結 此是諸仏
(もろもろの煩悩を断つ これが諸仏の)
本末因縁 釈迦如来
(本末の因縁 釈迦如来が)
之所演説
(述べたところである)

 仏がこの大因縁経を説き終えると、比丘たちは歓喜しておおせを奉ったのだった。

仏説長阿含経巻第一、おしまい。

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