【釈正輪メルマガ2月19日号】日々是好日
【無明の闇からの解脱】
厳しかった寒さも次第にやわらぎ、大地も潤い始めました。二十四節気の一つ、「雨水」のころとなりました。農家ではいよいよ農耕の準備を始めます。「ひと雨ごとに春」と言った季のことばがあるように、雨の日もまた多くなってきます。雨の日は出かけるのがおっくうになりがちですが、この時期の雨は、みぞれに変わったりしますからなおさらです。
でも自然のいとなみが、春を準備しているこの時期の雨は、四季の国、日本にはなくてはならない大切なもの。降る雪が雨に変わることで、雪や氷が解けて水となります。この雨が春の発芽を促し、植物たちは私たちの目に見えないところで、萌芽へ向けて働き始めています。
しかし昨年から今年にかけて、日本列島では平気的な雪が降っていません。「ひと雨ごとに春が来る」とは、昔の人はよく言ったものです。先人の伝えが身にしむ季節です。
合掌
水とりや 氷の僧の 沓(くつ)のおと
松尾芭蕉
人の幸せとはいったい何なのでしょう。お金でしょうか。地位名誉でしょうか。家族でしょうか。これについて、お釈迦さまの言葉に耳を傾けてみましょう。
「田無ければ、また憂いて、田有らんことを欲し、宅無ければ、また憂いて宅有らんことを欲す。田有れば田を憂え、宅有れば宅を憂う。有無同じく然り(大無量寿経)」
人間は、金や財産、名誉、地位、家族、これらが無ければないことに苦しみ、有ればあることに苦しんでいる。有る者も無い者も苦しんでいることには変わりはないのだといわれます。
私たちは、ある人(お金や財産、地位や名誉に恵まれている人)が幸せで、反対にそれらの無い人は不幸なのだろう、と考えるのが普通だと思います。ところがお釈迦さまは、「そうではない。有る者と無い者とでは、苦しみの色が違うだけで、苦しんでいること自体は、少しも変わらない」といわれます。
具体的に考察してみましょう。私たちは今、川を下る舟に乗っています。その川の行き着く先は「たきつぼ」です。船の中では、好きな人と手を繋いだり、嫌いな人と争ったり、酒を飲んだり歌ったり、儲かった損したと泣いたり笑ったりして暮らしています。そんな日常は、それなりに楽しくもありますが、船内からは見えないだけで、乗っている船はじつは「たきつぼ」に向かって進んでいる真っ最中なのです。「たきつぼ」とは、避けることのできない人生の終末を表しています。
世の中はどんどん便利になっていますが、私には「たきつぼ」に近づいているように思えてなりません。政治、経済、科学、医学など、人間のあらゆる営みは、「無」から「有」への努力ですが、どれだけ努力しても、心の底に得体の知れない不安があり、幸福を味わえません。それは「たきつぼ」という未来に向かって、刻一刻と船が進んでいるためなのです。
20世紀最大の哲学者といわれるマルティン・ハイデガーは、人間を「死への存在」といい、必ず死なねばならないから不安である。この不安と不気味さこそ、人間が常に置かれている状態だと指摘しています。
今は、「毎日楽しいですよ」と言っている人も、いざ不治の病にでもかかり、病室で一人、死に向き合わねばならなくなると、不安と不気味さを実感させられます。では何故、死に向かうとそんなに暗い心になるのでしょう。それは考えても分からない、どうすることも出来ない、最も究極的な命題であり、「死んだらどうなるのかわからない」からだと、お釈迦さまは教えています。死んだらどうなるのか分からない心の不安。これを仏教では、「無明の闇」とも「後生暗い心」ともいい、この心を人間は抱えているから、何をやっても、何を得ても、心から幸せだと思えないのが、苦しみの元凶だと説いているのです。
仏教では、この後生の暗い心が、後生明るい心に生まれ変わり、無明の闇からの解脱を説いています。
釈 正輪 拜