釈正輪回顧録 4. 木作1
初めて高賀の地を訪れてから数年がたった。
その間に高賀神社の宮司第49代、武藤三郎氏知遇を得て、私は千日の発願を立てた。
私は托鉢の最中に比叡山を訪れ、千日回峰行者が歩く行者道を歩いてみた。
そのときに、これなら私にも出来ると思った。
ただ天台宗の本山である比叡山でやりたいとは思わなかった。
当時私は天台宗の僧侶であったが、やたらに金ばかりかかる宗門にうんざりしていた。
得度にも僧籍を得るのにも金ばかりかかった。
それにあまりにも堕落した僧侶の世界を見ていた。
そんなことから、私は自分の因縁の地である高賀山で比叡山やほかの山に対抗して、千日回峰行を復興したいと思ったのだ。
千日回峰行をやるにあたり、私は木作(きつくり)にある父の実家に世話になることにした。
家の前に板取川が流れ、三千淵(さんぜんぶち)があった。
ここは、かつて織田信長によって三千人の僧侶が殺された場所と言い伝えられている。
現在の洞戸村の人口は300人ほどでしかないが、信長の時代には三千人の僧侶が集まるほど、洞戸は蓮華峯寺を中心に栄えていた。
蓮華峯寺の寺歴は失われたらしく、残ってはいない。
創建が養老七年といわれる奈良時代から続く由緒のある寺だった。
信長は何故ここを攻めなければならなかったのだろうか?
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