見出し画像

法華三部経を読んで 『法華経』その4

10.舎利弗尊者の授記

譬喩品第三は、舎利弗尊者の以下のような言葉からはじまる。

そのとき、舎利弗、踊躍歓喜して、すなはち起ちて合掌し、尊顔を瞻仰して、仏に白して言さく、『今世尊に従ひたてまつり、この法音を聞きて、心に踊躍を懐き、未曽有なることを得たり。ゆえんはいかん。我昔仏に従ひて、かくの如き法を聞き、諸の菩薩の授記作仏を見しかども、しかも我等はこの事にあづからず。甚だ自ら如来の無量の知見を失へることを感傷せり。世尊、我常に独り山林樹下に処して、もしは坐し、もしは行じて、つねにこの念をなさく、「我等も同じく法性に入れり、いかんが如来小乗の法をもって済度せらるる」と。これ我等が咎なり。世尊にはあらず。ゆえんはいかん。もし我等、所因の阿耨多羅三藐三菩提を成就することを説きたまふを待たましかば、必ず大乗をもって度脱することを得てまし。しかるに我等は方便随宜の所説を解らずして、初め仏法を聞きて、たまたますなはち信受し、思惟して証を取れり。世尊、我昔よりこのかた、終日竟夜(ひねもすよもすがら)、つねに自ら剋責せり。しかるに今仏に従ひたてまつりて、いまだ聞かざる所の未曽有の法を聞きて、諸の疑悔を断じ、身意泰然として、快く安隠なることを得たり。今日すなはち知んぬ。真にこれ仏子なり。仏口より生じ、法化より生じて、仏法の分を得たり。』
(國譯経一69-70頁)

長めの引用になったが、ここのところ、思えば私が『法華経』を読んでみようと思ったきっかけの部分でもあった。ある時、法座でたまたま授記の話をしていたら、法友から舎利弗尊者の授記のことを聞いた。そこでネットで検索する中に、以下のウェブページの記載に出遇い、ググっと惹かれていったのだった。上記の原文では中々分かりにくい箇所もある為、紹介がてら、そのページに載る意訳を記載してみる。

『仏は段階を経て教えを説くのは、すべての衆生を仏と同じ境地に導き入れる目的のため』という仏の一大事を理解した舎利弗は「世尊、ありがとうございます。私はなさけない人間でございました。今、初めて目があきました。私は長い間、世尊のお側で、真理の法を学んできました。その間、他の菩薩たちは次々に、授記(成仏の保証)を受けたのに、自分は得られませんでした。ーああ、自分は仏の智慧を見い出さずに、このまま終わるのかーと、心が憂鬱な日々でした。菩薩仲間と一緒に仏の教えを聞いた自分は、菩薩仲間と同時に悟れるのだ、と簡単に思っていました。菩薩仲間の授記を見る度たびに心が暗く沈み、アテも無く森の中を彷徨だけの情けない自分でした。世尊は、自分以外の弟子たちには、菩薩道の修行で万人を救うー大乗の教えーを説いているのに、なぜ自分には、小乗の教えしか説いてくれないのだろうと思い、見放された寂しい気持ちでいっぱいでした。ー小乗の教えーばかりを学ぶ自分を低く蔑み、他の菩薩を妬み、心が僻んでばかりでした。私は、自己の心の満足だけしか考えない高慢で、器がとても小さい人間でした。世尊は、対機説法を用いて、相手と場合に合わせた多様な方法で、仏の教えを説いてきました。それは方便の教えだということを忘れ、自分はもう悟ったと、勘違いしておりました。その反面、他の菩薩の授記を見ては、自分はダメな人間だ・仏になれない人間だと、自分を責めつづける日々を送っていました。私は、そんな情けない人間でございました。しかし、今始めて目が開きました。私は仏の子供なのだということを、心から理解できました。今、舎利弗の心は180度変わりました。世尊の説法を聞いて、仏が説く最上のー御教えーを知って、ものの見方がすっかり変わりました。今、懺悔の心で、仏の前で自分の過ちを告白したので、私の心はすっかり入れ換わりました。世尊、自分は今、いままでの至らなさを懺悔・反省して感謝の心で満ち満ちています。」
http://www8.plala.or.jp/kanjizai/M20.htmlより)

私はここを読ませてもらい、改めて仏法の不思議な力を感じている。智慧第一とされる舎利弗尊者をして、御自身が座っておられたところを揺り動かし、ふたたび菩薩としての歩みを新たにされる…。そこには人をして根底から揺り動かされるような力強さ、そして何とも言えない爽やかさを感じる。
仏道における果て無き道、それは絶え間なき新鮮さに満ち溢れている今を生きる道を、厳かに指し示している気がする…。

そして舎利弗尊者の言葉を聞き受けられた釈尊は、遠い過去世からの御因縁と共に、尊者自身の忘れていた志願(本願所行の道)を、思い起こさせようとしておられたことを語られる。そして、その時を待っていたかのように、記を授けられるのだった。

その時、仏、舎利弗に告げたまはく、「われ今天、人、沙門、婆羅門等の大衆の中において説く。我昔かつて二万億の仏の所において無上道の為のゆえに、常に汝を教化す。汝また長夜に我に随ひて受学せり。我方便をもって汝を引導せしがゆえに、我が法の中に生れたり。舎利弗、我昔汝をして仏道を志願せしめたり。汝今悉く忘れて、しかもすなはち自らすでに滅度を得たりとおもへり。我今還って汝をして本願所行の道を憶念せしめんと欲するがゆえに、諸の声聞の為に、この大乗経の妙法蓮華、教菩薩法、仏所護念と名づくるを説く。舎利弗、汝未来世において、無量無辺不可思議劫を過ぎて、若干の千万億の仏を供養し、正法を奉持し、菩薩所行の道を具足して、まさに作仏することを得べし。号をば華光如来、応供、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏、世尊と曰ひ、国をば離垢と名づけん。……
(國譯経一73頁)

今日、この御文に触れさせてもらいながら、釈尊の温かく懇ろな態度に、改めて心惹かれる思いがしている。

南無阿弥陀仏

つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?