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法華三部経を読んで 『法華経』その3

9.南無仏の心を尋ねて…

方便品第二の後半の偈文に、以下のような御文がある。

もし人散乱の心に、塔廟の中に入りて
一たび南無仏と称せし、みなすでに仏道を成ぜり
(國譯経一61-62頁)

私にとって、これは再びの驚きの御文だった…。それは、「南無阿弥陀仏」の称名は、浄土宗、浄土真宗の特権のような思い込みがあったからだ。しかし『法華経』において、「南無仏」という一声の称名によって仏道を成ずるという、そのような御示しがあるとは、恥ずかしながら思ってもいなかった…。
また、偈文の続きには以下のようにある。

舎利弗まさに知るべし、我聖師子の
深浄微妙の音を聞きて、喜んで南無仏と称す
またかくの如き念をなす、我濁悪世に出でたり
諸仏の説きたまふ所の如く、我もまた随順して行ぜん
(國譯経一65頁)

ここを今、私なりに大胆に味わうのなら、浄土真宗の要である『無量寿経』下巻の第十七願・第十八願成就文と繋がる御心を感じる。

十方恒沙の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ。あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。
(註釈版41頁)

濁悪世に生れた衆生も、甚深微妙の声、諸仏称讃の声を聞き、一念の声、一念の信心が貫くことによって、諸仏の教えに順おうとする歩みがはじまってしまうのだ…。
そして『法華経』の偈文の続きには、さらに以下の御文も見受けられる。

法を聞きて歓喜し讃じて、乃至一言を発す
すなはちこれすでに、一切の三世の仏を供養するなり
この人甚だ希有なること、優曇華に過ぎたり
汝等疑ひあることなかれ、我はこれ諸法の王なり
(國譯経一67頁)

この御文を拝読しながら、私の心には「是人名分陀利華」とこだましてきた。「正信偈」には、以下のようにある。

一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願
仏言広大勝解者 是人名分陀利華
一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば、仏、広大勝解のひととのたまへり。この人を分陀利華と名づく。
(註釈版204頁)

もちろん、『法華経』に阿弥陀如来の名は見られないし、ここの「南無仏」は釈尊を指し示す言葉でもあるだろう。しかしながら、今、私に響く仏心にまかせて自由に味わうならば、このような言葉が出てきてしまったのだ…。
甚だ勝手な味わいで恐縮する所でもあるが、『法華経』を読む中で予想外の喜びと出遇えたこと、私一人の慶びとして、ここに記しておこう。

南無阿弥陀仏

つづく

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