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地下鉄のタイムトンネル・茅場町編

広いニッポン、まだ見ぬ景色はいっぱいあるから、未知の場所にも行ってみたい…

などと言ってるそばから、また地下鉄のタイムトンネルで懐かしい故郷?に行きたくなって、
今回は、日本橋茅場町へ。

でも、私はここで生まれてほんの20日くらいしか住んでいないので記憶は全然無い、未知といえば未知の場所。

小学生の頃までは、この界隈には曾祖母の家や父の仕事場があったのでよく行ったけれど、
まだ子どもだったから街のことは近くの公園や小学校やデパートくらいしか知らなかったし、
どの道がどこへ繋がっているのかもわからなかった。
ましてや自分の生まれた家の場所なんて、聞いてはいたけど見たことがなかったし(あんまり気にもしなかったし)道順も知らないまま時間は過ぎて大人となり、そのうち埼玉人となった。
自分にとっての故郷はずっと、育った大田区だった。

今から10年くらい前に一度、元気だった母と一緒に茅場町を訪ねたことがあった。
母の記憶を頼りに、
「だいたいこの辺よ!」というあたりを歩き回ったが、
母にとっては新婚時代の思い出深い街も、半世紀が経ってもはや懐かしい面影を残してくれているはずもなく、家があった場所も知ってる景色もみつからない、多分ウラシマタロウの気分だったような。

でも、私にしてみれば、
茅場町にはもともと郷愁もない代わりに、でもかつて自分が生まれる前後に父と母が過ごしたという時間がそこにあったなら、
それは今の自分にも繋がっているのではないかしらん、と思うので、未知の場所だけど、ゆっくり見ておきたい。

…いや、べつにそんなたいそうなリクツでもなくて、
ただ日本橋の袂から茅場町や霊岸島や本石町がどう繋がっていたのか、おさらいしたかったのもあった。
縁あった場所なのに、未だにちゃんとわかっていなかったから。

ということで、もともと土地勘など無いので頼りになるのは覚えていた所番地とGoogle Map。
ストリートビューでものすごく予習して行った。


まず地下鉄「茅場町」から霊岸島へ。
昔よく大田区からはるばる車で連れて行かれた父の仕事場は、茅場町の駅からこんなに近いとは思わなかったくらいすぐだった。 

「母も地下鉄の時はこの橋を渡ったんだなぁ」などと考えながら、
私は初めて歩くような面持ちで亀島川を渡った。
全然覚えてないけど、母と一緒だったこともあったはずよな。
母とは都電に乗った記憶の方があるが。

新亀島橋。
亀島川。新亀島橋から見る亀島橋。

小学生の頃の日曜日に、時々母が私を連れて会社に来てお掃除をしている間、私がよく1人で遊びに行ってた公園もちゃんとまだあった。
大きな山の滑り台は無くなって小さな遊具になっていたけど。
もう50年以上の大昔だし。

昔は名前も知らなかった公園。
この公園、越前堀の遺構なんですね。知らなかった!
昔はこれの5倍くらいの大きな山の滑り台があった。今はビルに囲まれて余計小さく見えるけど、自分が大きくなったのかも。


公園まで来れば、父の会社までの道は覚えていた。
昔は、普通にしもた家と古い商店(酒屋とか駄菓子屋とか)の建物や小さな事務所や町工場が混在していたと思ったが、
50年以上経ったまわりの景色にはその面影もない。
ビル、ビル、ビルばっかり(そりゃそうだ)。

80年代(たぶん)に拡張工事があって広くなったらしい、父の仕事場があった通り。
ここの交差点も車で何万回?も曲ったんだろうな、父。

表通りの交差点の名前が新川一丁目。
この地名がちょっと懐かしくてギュっとなりながら、
永代通りをまた茅場町に戻る。


茅場町から兜町へ抜ける横道を私の適当なカンで辿っていったら、
母が「この辺よ!」と言ったあたりに出て来た。
10年くらい前の新し目の記憶がよみがえる。

母の記憶によると家のそばには、坂本小学校と日本経済新聞社と田中貴金属があったらしいが、
その一角もどの道筋も大きなビルだらけで、家のあった場所など見当もつかない。
まあ、この辺ってことで…。

坂本町公園。
坂本小学校。

次は、日本橋を渡って本石町方面へ。
日本橋を渡る時に、欄干をバックに記念写真を撮ってる親子連れや観光客風の人々がいたが、私は、地元民の風情で足早にスルーした。
先を急ぎやすんで…
(これだと旅にん風?)。


日本橋の向こうは近年、三越デパートとか三井ホールなどに来ているので、割と知ってる。ていうか近頃やっと覚えた。
でも、もっと昔の記憶をストリートビューで辿ると、すっかり忘れていた道順も思い出してきた。

曾祖母の家は本石町の路地裏。そこから三越あたりまで、私は小3くらいでひとりで行けた。
途中、日銀の石垣みたいな塀の道を通るたびに、石の間に時々挟まっている金属性の消火栓の扉を
「ここにも!こっちにも!」
と、みつけるのが好きだった。
この道、日銀通りと言うんですね。知らなかった。笑

何十年ぶりかで歩いてみた。
消火栓もあった。

日銀の石垣。


消火栓の扉。


送水口、採水口もあった。

何年も何十年も変わらずあった消火栓をあとにして、
曾祖母宅跡へと向かう。

もっと写真を撮りたかったけど、警備員風のおじいさん(自警団か?)がゆっくりとパトロールしていたので遠慮してしまった。
そんな怪しげな場所でもありません。

突き当りに東北新幹線の高架が増えた時に、この路地も短くなってしまったらしい。
お稲荷さんが移動して、
角の常盤公園も3分の1ほどになってしまっていた。

この路地の先の方、左側に曾祖母は住んでいた。帳場の窓を開けると常盤小学校の壁だったことを覚えている。
店の跡地は今、見知らぬ事務所になっていた。


以上、茅場町から本石町まで、幼少期の記憶と母との思い出と、ストリートビューの予習とで実際歩いてすっかり道順のおさらいが出来た。
やっと、ここも自分の故郷?だと自覚?が出来たかもしれない?
故郷にしては、知らないことや新しい発見が多くてちょっと新鮮だけれど。。


あとは、茅場町の元実家跡が特定出来ればな…。

でも古い地番は知っているから、中央区の図書館の地域資料室で古い住宅地図を調べればわかるかもしれない!
…と、帰宅後1週間ほど色々ググッたり昔の写真見たり考えてたら思いついた。笑

また行って来よう。