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陰鬱と酒と私と小鳥と鈴と

  最近、自身の内に住まう陰鬱さが鳴りを潜めている。
  ここでいう陰鬱さとは、場末の酒場で競馬足層を見ながら焼酎ハイボールをちびちび口にする陰鬱さのことを指している。実際、孤独が許され誰にも注目されない土地に住んでいた際には、場末の酒場の端っこの席という陽の光も当たらない席にてTwitterのタイムラインを眺めていたことがある。今住んでいる土地でそんなことをことをしようもんなら、気が触れた発狂人間として切り捨てられることだろう。あなや、寂しいものである。
  陰鬱さとはいきなり発揮できるようなものではなく、孤独の中にまみれた挙げ句、場末の酒場でちびちびと酒を飲み1時間もしない内に退店するを繰り返したり、寝れないからという理由でTaKaRa焼酎のワンカップ片手に深夜3時から徘徊を始めることを繰り返した後、陰鬱さというモノ、概念がどんどん精神に蓄積され、精神に蓄積されたものは肉体に溢れ浸透し、浸透しきった肉から皮膚に滲み上がっていき、最終的には表情に現れるのだ。ここまできてやっと陰鬱さが身についたと言ってもいいだろう。
  右に述べたように陰鬱さが鳴りを潜めたのは、それを溜め込むようなタイミングがパタリとなくなったことに起因する。これは喜ばしいことであるのだが、長年連れ添ってきたワイフに逃げられたような喪失感がある。ワイフとかいたこと無いので本当に知る調べがないのだが、多分僕が抱えている喪失感はそれと似ていることだろう。そのぐらい陰湿と長く付き合ってきたのだ。
  以前、陰湿さの極みのような喫茶店に行ったことがある。そこはラストオーダーが23:30で確か僕は23:20とかに入店した。「コーヒーしか出せませんがよろしいですか?」「お願いします、とびきり薄いやつを」「かしこまりました」多分このような会話したし、でてきたコーヒーは水で薄めたようにとびきり薄かった。なにかクラシックのような曲が小音で流れている店内で客は僕一人、店員はすでに店じまいの準備を始めている。店員との会話もなく味がするかもわからない薄いコーヒーを飲みながら、酒で狂った頭を冴えさせる行為は陰鬱そのものだったと言える。結局、沈黙に耐えきれる事ができずに20分程度で退店したのも陰鬱さを表していると言えるだろう。もちろんのことだが、その店は行きつけの店の一つになった。
  このようなことがない限り、僕の中で眠る陰鬱さは二度と顔を出すことはないだろう。これが幸か不幸なのかは今はまだわからない。

その店で飲んだコーヒーリキュール

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