身近に感じるディストピア
現在を生きるキーワードとして制限というものがある。これは読んで字のごとく、人のやること成すことに対して何かしらの枷がかかるの意が含まれるがそれだけではない。
制限、と聞いて真っ先になにを思い出すかと言えば、行動の制限つまりディストピアに関することだろう。咎人や罪人などが放り込まれる刑務所や精神を汚染された人物が放り込まれる病棟においても行動の制限は行われるが、それが思いつくのは二の次だろう。どう思考を巡らせたって真っ先に思いつくのは、ディストピアを思いつく。なぜか。とある条件下で、有無を言わさずディストピアを経験してきたからにほかならない。
2019年、人類は大きな危機に直面した。未知のウイルスが世間を跋扈し、感染し下手をすれば死に至らしめるほどの猛威をふるった厄災・コロナパンデミック。ウイルスの猛威により都市機能は一時的とは言え機能を失い、人々は自室に籠もらざるを得なくなった時期があった。予防対策として、消毒液散布やマスク着用など様々な施策が実施されることになった。
そんな危機的な状況下にある時期では、〇〇が感染しただとか、どこどこで感染が起こったらしいという情報が錯綜し共有された。僕個人の体験では、そこいらを彷徨いている時、すれ違いざまに「この時期にマスクしないで外出とかありえないっしょ」と吐き捨てるように言われたり、会社でコロナに完成んしたことを報告する際に「〇〇時の昼食の際、どこでなにを食べていましたか」とか、自身のタイムラインを逐一報告しなければならなかったりと、まるで巨大な権力からの監視下に置かれたような言動や行動に苛まれたことがある。
ワクチンが開発され、ウイルスの脅威がある程度緩和された今では、先のような苛めは全く見ることはなくなったが、顔も名前も知らない他人が僕の行動についてなにかとやかく言ったり、所属している会社が業務に関係のない僕の行動を逐一把握しようとしようとするのは、ディストピアの一端に触れたと言っても差し支えないだろう。しかし、それはウイルスによる特別な状況下で行われたものであり、今のような何も無い状況にて適用されるものではない。無論、特別な状況下に陥れば社会は簡単にディストピアへと進行できる危険性は孕んでいると言えるのだが、今のような状況と照らし合わせるべきではない。では、なにに置いてディストピアへと進行しているというのか。
SNSは自身の好み合わせた話題を提供してくれる便利なツールとして扱われる。例えば、犬や猫の可愛らしい画像や動画が常にフィードに表示され「いいね!」を押すように促したり、はたまた自身のイデオロギーと似通った意見や指揮者などがタイムラインに表示され、自分が考えていることは決してマイノリティではないと思いいこませたり。ユーザーが好ましいと思うだろう情報・他ユーザーを提供するように構成されたアルゴリズム、フィルターバブル。とにかく、SNSに張り付いている時間を長くさせそうとする思惑がSNSの中では跋扈している。
これら個人の好みに合わせた情報を提供する巨大企業、所謂GAFAMはデータを個人化して人々の停滞を図る。停滞、つまり自身が開発したツールのみに停滞させ他への流出をさせないようにアルゴリズムを組むということ。そのツールの中だけで完結するように、常に情報を氾濫させてまるでユーザーを知識の海に呑まれているような快楽を覚えさせる。GAFAMが提供するものに従っておけば、快楽の海に沈むことができるし、自身にとって必要のないものを見る必要は無くなる。まるで創造されたユートピアにいるような。
今やSNSだけに停滞していれば好きな情報だけを取捨選択することができるし、それなりの快楽を得ることができる。かつて、インターネットを海と例えて、多くのサイトを行き来しながら情報を集める・見定めるネットサーフィンの時代はとうに去ったのだ。GAFAMといった権力を持つ巨大企業に個人化・パーソナライズされたデータだけを食べて満足する留まりの時代がやってきている。