【三猫物語】<その 18> 無知であることの罪
「とら吉」は退院して、わが家へやってきた。もちろん、「そら」「ナメコ」と一緒にするわけにはいかない。互いに慣れるまで分離という意味もあるけれど、FIV(猫エイズ)陽性だということで、食器はもとより、洗浄するスポンジなんかも分けるようにした。
先生からは、直接体液が混じり合う接触がなければ感染する心配はないと教えられた。けれども、このエイズという呼び名がよくなかったのだろう。いや、もちろん、われわれが無知なのが、よくなかった。「そら」や「ナメコ」に感染すると大変だと、必要以上に心配してしまった。
当面のあいだ、ケージで分離するのは、どんな猫でも同じだ。ただ、「とら吉」の場合は、部屋自体をずっと分離したほうがいいだろうと、思い込んでしまった。
「とら吉」の部屋は、二階の四畳半になった。夏になると、二階はとても高温になるので、新たにエアコンも設置した。いい里親さんが見つかるまで、この四畳半で暮らしてもらうほかない。保護したときはリリースの可能性もあったので、去勢手術とともに耳をカットして「さくら猫」になった。けれども、しばらくして、人慣れしているのがわかったし、ノラで生きられるかどうかも不安なので、リリースはしないことにした。
口内炎がよくなると、食欲は旺盛になった。食べるにしたがって、みるみる元気が出て、動きもしっかりしてきた。雄にしては、身体は小さい。尻尾がうさぎのように丸くて短く、脚も短いので、まるっとした、豆タンクのようなシルエット。でも2.4kgだった体重は、すぐに3kgを超えるようなり、順調に体重は増えた。夏に向かうにつれ、抜け毛も多くなり、新しい毛が生えてくると、酷い状態だった見た目がすっきりしてきた。
屋外にいるときには、他の猫などに、けっこうイジメられたのかもしれない。あるいはイタチなどの可能性もある。左目の眼球が完全に濁ってしまっていたのは、ケンカで傷ついたのだろうか?左目が、復活することはなさそうだ。けれど、見えているほうの右目は、黒ずんだ目ヤニが減ってくると、けっこうつぶらな瞳である。
それにしても、なぜ屋外にいたのだろう?はじめから人間を怖がらないから、人家に飼われていたことは間違いない。棄てられたのだろうか?それとも、なんらかの事情で脱走して、帰れなくなったのだろうか?残念ながら、猫に事情を聞くことはできない。そのへんの事情も、本人のプロフィールも、謎のままだ。
FIV(猫エイズ)については、とくにそのせいだと認められるような症状は見られなかった。他の2頭にくらべて、鼻水や目ヤニが出やすいとはいえたが、FIV(猫エイズ)に関係があるかどうかはわからない。
だんだん暑い季節になるので、昼間はエアコンを入れていることも増えた。なんでもよく食べ、まるまると太ってきた。
すこしずつ判明したことだが、「とら吉」は、人間を怖がらないどころではない。人間にたいしては、とてもフレンドリーで、というか、必要以上にフレンドリーな傾向がある。
とくに相方は、ずっと快復の世話をしていたせいだろう、とても気に入ってもらったようだ。慣れてからは、とくにケージには閉じ込めず、部屋のなかではフリーにしていた。相方が部屋へ入ると、嬉しそうに傍へ寄って、後をついてまわる。撫でられて嫌がることは皆無で、もっと撫でろという。猫的な気まぐれさは、まるでない。人間にかまわれていると、とても嬉しそうだ。
そんな状態で、いつしか夏も終り、秋になった。体重も4kgくらいになり、健康上の問題はクリアしたので、「ねこのしあわせ」ホームページで、里親を募集しはじめた。そして、佛川動物病院での譲渡会にも参加してみた。
とはいえ、年齢不詳の成猫で、FIV(猫エイズ)陽性で、独眼竜で、という条件なので、どこからも声は掛からない。そりゃぁ、まあ、そうだろうなあ。あえて欲しいという人はいないよなあ。
そんなこんなしているうちに、秋はあっというまに過ぎ去り、冬になった。
すると、「とら吉」が、夜に大声で鳴くことが増えてきた。
「そら」も「ナメコ」も、大声で鳴くことは、まずない。ごはんを要求するときに、ニャゴニャゴは言うけれども、しつこく鳴くことはない。それに比べて「とら吉」は、身体が元気になるにつれて、大声で鳴くことが多くなった。ごはんはもとより、それ以外のときでも、やたらとニャゴニャゴ言う。ニャゴニャゴ言うだけならまだしも、どうにかすると、犬の遠吠えよろしく「ウォ~ン」とか「ギャオ~ン」とか、長く声を引いて悲痛な叫びをあげる。「とら吉」は雄だから、やはり声も大きいのだろう、そう思った。
鳴く原因ははっきりしなかったが、夜に自分の部屋で鳴くのは、なにせ人懐こい猫だし、寂しがって鳴くのだろうと、われわれは勝手に解釈した。ただ、FIV(猫エイズ)陽性は、隔離するしかないわけだから、四畳半の部屋に閉じ込めていること自体は仕方がない、そんなふうに考えていた。
無知による勝手な判断はよくないと、あとで思い知るのだけれど、このときは、仕方ないことと思い込んでいたのだ。
あとになって気づいたことだが、「とら吉」は、他の猫に比べて、とても寒がりであり、夜に鳴いていたのは、寒くて鳴いていたのだったらしい。毛皮をまとった猫が、屋内にいて、しかも毛布まで設えた寝床で、寒すぎるなんてことがあるとは、思えなかったのだが・・・。