アメリカンサイコをSFとして解釈する
アメリカンサイコを初めて見て
アメリカンサイコを先日、初めて見て
クリスチャンベイルのはまり役っぷりに
満足しつつふとデジャブを感じた。
そしてネットを確認しつつ
「ああこれ吉良吉影の元ネタだったのね。」と
一人勝手に納得しつつ映画を観終わった。
映画の最後は何だか拍子抜けで
今まで殺した同僚や貧民街の娼婦は実は
生きており全部彼の自己同一性乖離症による
全て妄想だった…てオチになんだかモヤモヤしながら
俺の1時間40分返してくれ…
と思いながらふと吉良吉影の事を思い出した。
ベイトマンと吉良吉影
吉良吉影がベイトマンのオマージュであることは
確実だろう。映画と漫画で表現方法の違いはあれ
上手に落とし込んでいる。
ベイトマンが探偵に追跡されたりして
精神的に徐々に追いつめられ錯乱するところを
吉良吉影が条太郎達に追いつめられ錯乱するようにするなどに
見事に落とし込んでいる。
吉良吉影の最後は彼のスタンド、キラークイーンの能力
アナザーワンバイツァ・ダストを発動できずに
不運で車に轢かれて死んでしまうのだが…
巨人の肩の上に乗る
ここでふと思ったことがある。
もしかしてベイトマンはアナザーワンバイツァ・ダストを
発動した世界に行ったのではないか?
これは飛躍したアイディアになってしまうのだろうが
もし荒木飛呂彦先生が映画の本質的な部分を理解して
それをキラークイーンに落とし込んでいたとしたら…
ジョジョと多次元宇宙論の関係
ジョジョの三部以降のボスの能力は難解なものが多い。
その原因は量子論などの思想から着想を得た能力だと思われるからだ。
ここでは量子論の中の多次元宇宙論を中心に解釈していこうとおもう。
簡単にここで云う多次元宇宙論の説明すると
無限の世界線(平行世界)が一つの世界線に折りたたまって存在しており
人間(観測者)の精神や行動の結果により世界線を乗り換えていく
という考え方だ。
アナザーワンバイツァ・ダストの場合の解釈は
追いつめられた結果今いる世界線を放棄して
別の爆殺した人が能力により爆発する世界線に移動する能力になる。
ベイトマンの場合追いつめられた結果誰も殺していない
世界線にディヴィスとして飛んだことになる
アメリカンサイコをSFとして解釈する
もしベイトマンが世界線を超えたのならアメリカンサイコは
インターステラの様なSFだったということになる。
これはちょっとした面白い発想だと個人的に思う。
もちろん正当性を主張するわけではない、そういう妄想する余地が
あるように思われるという話だ。
この記事が映画を観る上で何かの刺激になればこれ以上なく幸いである。
映画のラストシーンのベイトマンの独白を載せておく
サイコスリラーとしてみるかSFとして解釈するかで大きく見え方が
変わってくる気がしないだろうか?
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もはや境界線は存在しない
俺たちが共有する 抑制できない衝動、狂気、悪意、不正
俺が引き起こした暴力と
それに対する無関心さを俺は超えてしまったのだ
激しい痛みがおさまらない
他人のためにこの世が良くなることなど願わない
他人にも俺の苦痛を味わわせたい
誰も逃がしたくない
でもこれを認めた後でさえカタルシスは起こらない
俺は処罰を受けず、自分を深く理解することもできない
告白から何か新しい知識を得るわけでもない
この告白には何の意味もないのだ
(映画『アメリカンサイコ』より引用)
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